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【5】-02
十二歳の夏だった。
梅雨の明けきらない、ぼんやりとした季節だったと記憶している。
季節の変わり目に体力を消耗したのか、義弟は深夜に救急搬送され、入院を余儀なくされた。
両親は隣の市の病院に通うことになり、夏休み中であった浬は父親の生家である『千同家』に預けられることになった。所謂『本家』と呼ばれる家であった。
勿論浬に拒否権などない。
物心もつき始めるこの頃にはすでに、自分の言葉は大人たちに届かないことを知っていた。友人と図書館に行く約束も、地域で水族館に行く行事も、問答無用でキャンセルされ、浬は一人で千同家に置き去りにされた。
待ちに待った夏休みだというのに、陰鬱で恐ろしい家で過ごさなくてはならない。それは小さな虫かごに囚われたバッタのような心地だった。
千同家の朝は早く、勤め人である大人たちが食事を摂る前に、浬は朝食を終えなければならない。この家では子供は家の宝ではなく、使用人以下の生きているだけの荷物だった。
少しでも無駄な言葉を吐けば睨まれ、かといってむっつりと黙っていると『辛気臭い、態度が悪い』と詰られた。子供は無害な空気であるべきだった。無駄な言葉を話さず、かといって大人の機嫌を損ねるような目立った行動をとるべきではない。
両親は義弟に掛かりきりだったが故に、浬は比較的放置されて育った。もとより厳格な家で躾けられていたならばまだしも、唐突に喋るな、しかし黙るな、動くな、目障りだから退けと様々な事を言いつけられても、納得して対応できるわけがない。
次第に浬は、大人の目の届かない場所を探すようになった。
誰にも見つからなければ、理不尽に怒鳴られることも、詰られることもない。
人気のない場所を探し屋敷をさ迷っていた折、廊下の一画に、小さな戸口を発見した。
北側の廊下にひっそりと作られた扉は、まるで猫や犬の為に設えられたもののようだ。扉としては小さく、子供でも腰をかがめなければ通れないサイズだ。しかし千同家には、ペットは居ない。
古い木で出来た戸には、ぼろぼろの紙が一枚貼られていた。あれはおそらく、何かの『札』だったのだろう。
何をしても怒られるこの家で、浬は『余計な事をしない』ということだけは学んでいた。
いくら興味を引かれる扉があっても、勝手に開いて中を探索しようなどとは考えなかった。浬は好奇心旺盛ではあったが、己の好奇心よりも千同家の大人の怖さの方が重要だった。
中には決して入らない。しかし、こっそりと観察は続ける。
扉とは、部屋の中に入る為のものだ。出入りするための戸口があるのならば、その先は外か、または一つの部屋になっている筈である。
改築を繰り返していたらしい千同の屋敷は、思いもよらない場所に部屋があったり、唐突に廊下が途切れたりと、まるで迷路のような構造をしていた。大人の目を盗み誰も居ない時間にじっくりと探索し、漸く小さな戸口の先が『屋敷の中心にある大きな部屋』だと知った。
ぐるりと廊下に囲まれた、木の壁に囲まれた大きな部屋だ。
出入口に使われそうな扉はない。ただ、小さな戸口のようなものがあるだけだ。
そういえば時折、屋敷の中央――ちょうどあの不自然な入口の無い部屋のあたりから。叫び声や泣き声がすることに気が付いた。陽の高い時間は、不気味な程静かだ。しかしあの部屋から異様な声が聞こえる時、きまってそれは真夜中と言える時間だった。
真夜中に、誰かがあの部屋で泣いている。
それは幼い浬にとってひどく恐ろしい怪談となり、次第に中央の不気味な部屋から距離をとるようになった。
あの部屋に入ったのは、浬の意志ではない。
盆の時期に千同家に滞在していた両親が、浬の手を引いて小さな戸口をくぐったからだ。
義弟はまだ入院中だった。久しぶりに看護から解放されたためか、その日の両親は比較的優しく浬に声をかけた。生家とはいえ、子供も居ない屋敷に一人置き去りにしている負い目があったのかもしれない。
普段は閑散とした畳の間に、親戚一同がずらりと並び食事を摂る。厳かな空気はやがて酒の力でなし崩しになり、聞いたこともない朗らかな笑い声があちこちで上がった。
しかし気が付いた時には、何故か口論が始まっていた。
それこそ酒の力だったのかもしれないし、元々皆、そこまで心を許した間柄ではなかったのかもしれない。浬にはわからないし、思い出はぼんやりとしすぎていて何の参考にもならない。
口論の主は千同家の当主である曾祖母と、浬の父親だった。
そのうち浬の母親も声を荒げた。千同家と浬の両親の間で、何か決定的な不和があることは明白だった。
その日の深夜だ。
母親に優しく揺さぶり起こされた浬は、真夜中の廊下へと連れ出された。しんと静まり返った、不気味な程肌寒い夜だった。
どこに行くのだろうか。喧嘩をしたから、夜のうちに帰るのだろうか――そんなことを考えていた浬は、廊下の奥に目を馳せ、ぞっとした。
あの小さな戸口が開いていた。
ぽっかりと、子供一人を飲み込むための小さな闇が見えた。
戸口の前には父親が立っており、光の弱い懐中電灯を掲げていた。
「ほら、はやく」
そう急かされて、戸口の中に入るように背中を押されたが、浬は珍しく強く拒んだ。
勝手に部屋に入るなと、いつも本家の大人にいつもひどく叱られたからだ。
それに目の前に口を開けた暗闇は、あまりにも不気味で恐ろしい。
焦れた母親が先に入り、浬の手を強く引っ張る。後ろから父親に押された子供の抵抗など虚しく、もつれるように暗い部屋の中に足を踏み入れた。
素足が、ざらりとした冷たい土に触れた。
板間でも、畳でもない。それは確かに地面の感触だ。戸をくぐる時に頭の上に何か固くてざらついたものが触れた。固い藁のような感触だった――太く編んだ、湿った縄のような。
暗い室内の空気は澱み、中は真の暗闇だった。
弱々しい懐中電動が、ざらついた地面と埃っぽい室内の空気を浮き上がらせる。
ふと、その中央に何かを見つけた。
浬はそれが石のベンチか何かに見えた。しかし母親に引っ張られるように近づくにつれ、それがぽっかりと口をあけた古い井戸であることを知った。
井戸。
浬は、それが井戸であることを知っていた。父親が昔兄弟に見せた古いホラー映画に出てきたからだ。髪の長い幽霊が這いだす、あの井戸だ。
何度も嫌がり足を止める浬を、母親と父親は急き立てるように歩かせた。手足は震え、耳の後ろまで鳥肌が立っていた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、行きたくない、そっちは嫌だ、あの井戸は嫌だ、嫌だ――。
あまりの恐怖に本気で抵抗を始めた浬を、両親はついに抱えて引き摺った。成長期前の浬は小柄で、大人二人に易々と抱えられてしまった。
「暴れないで、ほら、ちょっと、ちゃんと足もってよ――」
「だから、眠ったまま連れてきた方が――」
「そんなことして、途中で目を覚ましたら、そっちの方が大変でしょ。子供ってわりと重いんだから――」
「ほら、もう少し」
「大体、急にこんな――他に子供がいないからって、なんで岳が選ばれるの。ありえない。あんただって、次は浬だって言ってたじゃん」
「それは、だって、いつもは長男なんだし、条件的には浬だろって、普通思うだろ――」
「こんなのどっちでもいいでしょ。もう、さっさと終わらせて早く帰りたい……岳、さっきまた熱上がったって連絡きてたのに、こんなことしてる場合じゃないんだから――」
「落ち着けよ、岳の為じゃん。うわ、わりと高いな、この井戸……」
どん、と浬の体が井戸に押し付けられる。真っ暗な井戸の中を覗き込むようにもたれ掛った浬は、丸く暗い穴の下に何かの気配を感じて小さく悲鳴を上げた。
井戸の底に、何かがいる。
光源もない、ライトで照らされてもいない真っ暗な丸い闇の中で、ぼんやりと白いものが輪郭を結びつつあった。
ああ、あれは――人だ。
白く浮き上がった人が、にんまりと、両の口端を持ち上げて笑っている。笑って、覗き込む浬を見上げている。
しかし両親は、浬を井戸に押し付けたまま、少年の声を聞こうともしない。
「あー重い……こんなことなら女産むんだった……女なら問答無用で依り代? って奴になるんでしょ?」
「婆さんはそう言ってたけどね……叔母さんは結構前から依り代になってたせいで、二十歳まで生きられなかったとか言ってたよ。本当にそうなのかは知らんけどさ」
「嘘っぽ……こんなん意味ないんじゃない……?」
「じゃあやめる?」
「やるよ、岳の為だもん……」
「だよね。ほら、そっち持ち上げて。じゃあ、落とすよ」
「――……え……?」
この人達は今、何と言ったのだろう。
何を、何処に落とすと言ったのだろう。
井戸と暗闇への恐怖で叫ぶこともできない浬は、ほとんど金縛り状態のまま自分の両親を見上げる。暗くてほとんど顔はわからないがしかし、彼らが少しも動揺していない事くらいはわかってしまった。
「やめ――」
「静かにして。じゃあね、これで終わりだから」
謝罪もない。説明もない。別れの言葉もない。
そして彼らには、『だるい』『面倒臭い』以外の感情もなく、混乱したまま十二歳の少年は井戸の中に落とされた。
ぼちゃん、と水に落ちるような音も、がたん、と土の上に落ちるような音も、その後ついぞ聞こえなかった。
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