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【5】-03

「……いやどう考えても普通にありえねえだろ、まじで」  閑散とした廃墟の中で、落ちていた小石を弄ぶ浬は独り言ちる。  屋根は朽ち、もはやそこは『部屋』とは呼べない、荒れ果てた庭のような有様になっていた。  もう何十年も前に人の手から離れたとしか思えないこの廃墟に、は、十年前まで浬を含む十数人が暮らしていた。  久しぶりに郷愁のような感覚を覚え、うっすらとした記憶を断片的に思い出してみたものの、己の両親の残虐すぎる行いには呆れるばかりだ。  どんな事情があれ、十二の子供を深夜の井戸に突き落としていいわけがない。千同家の大人の厳しさはかろうじて理解できなくもないが、両親の行動については今でも納得しかねる。  あの後の記憶は、ひどくぼんやりしていて希薄だ。  混乱していたしひどく傷ついていたし、何よりこの時の浬はすでに、井戸の中のバケモノに感情を喰われていたのだろう。  井戸に落とされた浬が目を覚ました時、すでに両親は千同家から勘当された後だった。  客用の立派な布団の上で寝かされていた浬は、己は死んだものかと狼狽した。浬が寝ていた部屋は今まで絶対に立ち入るなと言われていた大きな和室で、そして布団の隣にはおいおいと泣き崩れる曾祖母がいたからだ。  浬はこの時まで、曾祖母が笑っているところも、泣いているところも、ついぞ見たことが無かった。  申し訳ございません、申し訳ございません、と泣きながら頭を下げる曾祖母は、おそらく浬に謝っていたわけではないのだろう。その日から千同家の人間は浬を無視する事はなく、比較的丁重に扱われるようになった。  井戸に落ちた浬には、■■■(禍喰み)が憑いていた。  下僕のように頭を下げる曾祖母の話では、千同家には代々、霊を喰らうモノが憑くのだ、という。  人間に取り憑き寄生し、人ではない怪異を喰らうモノ。  そういうモノは時折現れるものの、決まった見た目も呼び名もないらしい。喫霊(きつれい)喰霊者(さんれいしゃ)、忌み喰らい、魂吸(たます)い、胃腹禍(いばらま)などと呼ばれ、その多くが人間に作りだされたものの末路なのだと、老婆は語った。  千同家に憑く《禍喰み》もその一種だ。  人は古来より、怪異に悩まされてきた。  しかし怪異には、人間のルールは適用されない。どんなに強靭な筋肉を持った大男でも、頭脳明晰な知識人でも、あちらの世界の怪異には手も足も出ない。  人の力で対抗できないのならば、怪異を処理するための怪異を作りだせばいい。  誰がそんな馬鹿げたことを言い出したのか、と浬は呆れる。バケモノにバケモノをぶつけんだ、みたいな映画あったよなぁと苦笑しつつ、バケモノに取り憑かれた過去の犠牲者の苦悩を想った。  千同家においては本来、義弟の岳が《禍喰み》の次の依り代となる筈だった。  病弱で、ほとんど学校にも行けず、部屋から出る事すらも困難な義理の弟。  所謂腹違い、という関係であり、浬と岳の父親は同じだ。この父親の遺伝子が強いのかそれとも彼の女の好みが偏っているのか、浬と岳はひどく似た顔の兄弟だった。性格はわからない。義弟は大抵寝ていたし、意識がある時は大抵母親がべったりと横に貼りついていたので、浬は彼と長く話した記憶はない。  両親としては、どちらか一人残っていれば十分だったのかもしれない。彼らの口ぶりからすると、元々浬を本家に差し出すつもりだった様子だ。  しかし曾祖母に指名されたのは、浬ではなく、弟の岳だった。  岳の熱が少し上がっただけでもパニックになり仕事を休む親だ。代々命を費やして養っているバケモノ憑きにするから本家へ寄こせ、などと言われて、平常心でいられる筈もない。  当たり前のように錯乱した両親は、岳を取られる前に、さっさと浬を差し出すことにしたのだ。  千同家に飼われている《禍喰み》様が祀られている、枯れ井戸に落として――。  大人になった浬は思わず苦笑する。  己の感情を《禍喰み》に喰われることなく正常に生きていれば、笑いごとでは済まされなかっただろう。癸は言葉を忘れて怒り狂うだろう。九や猫屋敷は茶化しながらも同情してくれそうだ。宵央は――宵央はどうだろう。感受性の高いあの年下の美丈夫は、はらはらと泣きながら言葉を詰まらせそうだ。  なんだかんだで、良い居場所に落ち着いたな、と思う。  だからこそ、いい加減放置していた過去に向き合うべきなのだろうと重い腰を上げたのだ。  高校を卒業するまで、浬は千同の家族として育てられた。  正確には『同居を許された』という感覚だった。  千同の大人たちは以前のように浬を空気のように扱うことはなくなったが、今度は恐怖の対象であるかのように徹底的に避けられた。  曾祖母だけが、『禍喰み様に仕える巫女』として、浬を丁寧に扱った。だが曾祖母の行動は言うなれば下僕であり、決して家族だとは思えなかった。  本来は千同家の中で、霊を喰い清める仕事を与えられて生きるべきだったのだろう。  千同は《禍喰み》の力をもって、除霊仕事を請け負っていた。真夜中、浬がうっすらと耳にした誰かの叫び声や泣き声は、この除霊の際に漏れ出たものに違いない。  しかし浬は高校を卒業すると、逃げるように千同家を捨てた。  浬が消えた後の本家は、まるで何かに呪われたように瞬く間に没落し、離散した――と聞いている。  いつまでたっても誰も探しに来ないな、と、さすがに少し不安になった浬が知人の興信所職員に頼んだところ、『千同さんち、もう潰れて心霊スポットになってるよ』と教えてもらったのだ。 「座敷童? とかってさぁ、ほら、囲ってるうちは繁栄するけど、逃がしちゃうと反動みたいに不幸になるって言うじゃん? ああいう感じなのかね、うちの《禍喰み》さんも。だからずっと、家ん中に依頼者招いて食事させてたのかもなぁー」  浬自身はあまり、幸運になった感覚も裕福になった自覚もない。  ただ思い返せば定職に就いていないにも関わらず、貧困にあえいだ記憶はない。根無し草の浬にとってそれは、最低限の幸運だった。  弄んでいた小石をひょいと投げる。  石は乱雑に放置された鏡台のようなものに当たり、角度を変えて井戸の方に転がった。  ころころと、小さな石が転がる先に、裸足の足があった。  カサカサに乾いて皮が厚くなった、老人の足だ。気味が悪いほど白いその足の主は、あの井戸の前に立っていた。  自称巫女の曽祖父は、いつも浬にこう言い聞かせた。  千同の井戸には、ノガミ様が坐せられる。  ノガミ様は禍喰み様を創り、往なし、慰め、そして千同の一族をお守りになる。  ノガミ様は、初代依り代様であり、千同の守り神である――と。  ……しかし今目の前に立つ千同家の守り神は、とても穏やかではない表情で浬を睨みつけていた。そもそもノガミ様がいたとて、千同家は離散している。守り神などというのは、千同の人間が『そうにちがいない、そうであってほしい』と願っただけなのだろう。  最初に《禍喰み》に憑かれた人間。  最初に《禍喰み》の依り代となり、人生とその感情を犠牲にされた人間。  ノガミ様がそうであれば、千同を憎んでいたとしても不思議ではない。またもし正しく守り神であったとするならば、千同の勤めからあっさりと逃げた浬を咎めているのかもしれない。  白く汚れた和服を纏った老人は、女性なのか、男性なのか判断がつかない。それほどまでに肌は乾燥し、骨にへばりつくほど痩せていた。  ノガミ様の口は、何かをずっと訴えていた。  ゆっくり、確実に干からびた唇が動く。しかし人ではないものの声帯は空気を振動させることなく、虚しい程の静寂が満ちた。 「……うーん……聞こえねえんだよなぁ……。やっぱマヨさん連れてきた方が良かったか? いやでもマヨさんも別に口寄せタイプじゃねえしなぁ」  そう言えば千同の家を捨てた直後は、時折身の回りでノガミ様を見かけることがあった。  雑踏に紛れてこちらをじっと睨む老人は、いつのまにかすっかり見なくなった。勝手に成仏したのかな、などと都合よく考えていたが、まだこの井戸に囚われていたとは。  あの胡散臭い『幽ヶ夾サイト』という心霊スポット凸集団が千同家の廃墟から遺留品を回収しなければ、そしてそれを浬と引き合わせなければ、一生知ることは無かった。  老人は憤怒の形相で何かを訴えかける。  昔、雑踏の中で見かけたときは、もう少し穏やかで荘厳な顔つきだった記憶があるが、そもそも浬は記憶力に一切の自信が無いため、何とも言い難い。ただ、目の前の現状と対峙する他ない。 「待ってるっつーから来たけど、結局おれ如きじゃどうにもなんねえな。うーん……真夜中待って、《禍喰み》さんに丸投げしちゃう? いやでも初代様ってこたぁ昔の男? 女? だよなぁ《禍喰み》さんにとって……。喰ってくれんのかな……?」  頭の後ろを乱雑にかきむしりながら、浬は盛大に首を傾げる。独り言が多くなったのは、ここ最近宵央と常にべったりと行動を共にし、無駄に会話をしすぎていたからかもしれない。 「……それとも、その井戸開けたらなんかあんの?」  廃墟の中心の、枯れた井戸。  浬の記憶ではぽっかりと口をあけていた井戸だが、今は鉄板とコンクリートの重りでしっかりと封印されていた。どこもかしこも完全に朽ちて崩壊している屋敷の中で、井戸の蓋だけは厳重に守られている。  己には怖いなどという感情はもう存在していない。  そう信じていた浬だというのに、己の足が震えていることに気が付き、『うわぁ』と感嘆の声を上げる。  あの井戸が怖い。  久しく感じなかった純粋な恐怖に、懐かしいような悔しいような感情も湧き上がる。己はバケモノなどではなく、無力な人間であったことを思い出す。  憤怒の形相の老人の横を通り過ぎ、震えながらも井戸に手を掛ける。ぞっと悪寒が這い上がり、鳥肌が全身に立つ。  ――井戸で待つ。  この老人は、浬を待っていた。ならば何かしら行動しなければならないのだろう。まさかただ会いたかった、というわけではあるまい。  もし――もし今後、浬が隣に居ることで宵央に不幸が降りかかる可能性があるのなら、さっさと潰しておくに限る。もしこの井戸をあけることで、千同家に帰ったことで浬に不幸が降りかかるなら、できるだけ早めにその全てを被っておきたい。その結果浬が死ぬならそれでも別にいい。これ以上宵央と共にいれば、いざ浬が千同家の呪いに押しつぶされた時、ひどい傷を負わせてしまうだろう。  傷は浅いうちにさっさと負ってしまうべきだ。  何があるのか知らないが、呪いでも贖罪でも構わない。放置して後から後悔するよりも、しらみつぶしに石の下を確認してすべての虫を殺した方が楽だ。  十年、知らぬふりをしてきた。  その間にもう、千同の名を継ぐ人間は浬だけになり、引きつぐバケモノの由来や昔話も消えてしまった。今はただ、怪異を喰うモノと、それに憑かれた男が存在するだけだ。  話を聞く人間は居ないのだから、もう行動する他ない。 「まあ、じゃあ……開けるかぁー。え、開くのかこれ……?」  鳥肌を無理やり無視した浬は、これでもかとコンクリートブロックを乗せられた鉄板に爪をかけてみるものの、当たり前のようにびくともしない。  石を排除したとしても、鉄板はガチガチに溶接されているように見える。 「……いや無理じゃねえかなこれ……こちとら手に職もない一般除霊おにーさんですが……?」  工具の知識もなければ、頼れる筋肉もない。仁王立ちで浬を迎えてくれたノガミ様には申し訳ないが、一回出直して鉄板を破る手を考えなければだめだろう。  鉄板は果たしてドリルで開くのか?  と、顎に手を当てのんきに唸る浬だったが――。  パアァァァァァァァーーーーン!  と唐突に鳴った爆音のクラクションに、冗談ではなく数センチ飛び跳ねてしまった。 「ッ!? えッ、な、何――!?」  こんな真昼間から霊障か、とあたりを見回すものの、廃墟の中に変化はない。ただ静かに埃が舞う中、老人が井戸に背を向けて立つのみだ。  近くで事故でもあったのか?  今のは完全にトラックのクラクションだったが――と、浬がばくばくと煩い心臓に手を当て落ち着けていると、まったく他人事ではない大声が次いで響いた。 「チリーーーーーーーーッ! 迎えにきたぞさっさと出て来いーーーーーーーッ! そこにいんのはわかってんだーーーーーーッ!」  それは、浬が良く知る『九』というあだ名の女性の怒鳴り声だった。

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