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【6】-02

 黒い自家用車に乗り込んだはずだった。  知らない人には着いて行かない――そんな子供でも守るような鉄則を破った理由は、彼らが浬の関係者だったからだ。  勿論宵央は、千同浬の家族を知らない。雰囲気や顔が似ているかどうかさえわからない。  宵央は生まれた時から、他人の顔の判別ができなかった。  誰も彼も、うっすらと靄が掛かったように表情が隠れている。  犬や猫などの動物はきちんと把握できる。目があり、鼻があり、口があるとわかる。誰かが描いた絵ならば問題なく認識できる。しかし人間の顔は、写真や映像でもうすぼんやりと曇ってしまって判別できない。  逆に生きていない者、そこに居るはずのない者に関しては、しっかりと目鼻立ちを確認することができた。故に宵央は、幽霊と人間を間違えることは無い。最初浬に会った時は、彼が幽霊ではない事に本当に驚いた。  物心つく前からこの状態だった為、問答無用で慣れるほかなかった。  目が悪い、耳が悪い、味覚が鈍い――そんな『ほんのちょっとした生まれつきのハンデ』だと己に言い聞かせた。  養護施設で育った宵央に、家族は居ない。自分の出生がどのようなものか、問いただすあてもない。  学生時代には『もしかして脳の病気なのでは』と疑った宵央だったが、やがて心霊現象を多く体験するにつれ、自分が見ている靄のようなものは幽霊と近しいものだと理解した。  そのぼんやりとした仮説は、癸と出会い確信に変わる。  癸はよく『幽霊とは感情の残滓ではないか』という自説を語った。  辛いという感情、悲しいという感情、恨めしいという感情、痛いという感情――そういうものが強く残っている状態が、『霊』なのではないか、と。  猫屋敷は『理由が付くとつまんないよ』と不満を漏らすがしかし、宵央にとってこの考え方は非常に腑に落ちるものだった。  幽霊は感情の残滓だ。宵央は、そこに残された感情の残滓を視る事ができる。だから自分は、生きている人間の感情もきっと、この目に映してしまうのだ。  あの人々の顔を覆う靄は、彼ら本人の感情なのだ。  だからこそ、感情が希薄な浬の顔だけは、宵央の目で見ることができる――。  勿論、例外は山ほどあるだろう。そもそも怪異など、人間のルールで語られるものではない。  実際に宵央は街中で、顔の見える人間を時折見かける。その全てに《禍喰み》のようなものが憑いているとは思えない。もしかしたら浬の顔が見える理由も、感情や霊感など全く無関係ないのかもしれない。  それでも宵央は、癸の仮説を信じている。  だからこそ宵央は、十堂岳と名乗った青年が千同浬の関係者であると信じた。  唐突に宵央のアパートを訪れた岳の隣には、十歳くらいの少年が立っていたからだ。 (……浬さん、昔は、笑わない子供だったんだ)  少年は、千同浬の名残を残していた。  髪型も、髪色も、表情も、年も違う。けれどこの子供は浬だ、と、宵央ははっきりと確信した。些細な癖や視線の動かし方が、宵央の見てきた浬とうり二つだった。  子供の浬は、黒い乗用車の中にも乗っていた。  とにかく一緒に来てほしいと懇願する岳の話を、宵央はほとんど聞き流してしまっていたかもしれない。後部座席の端に居心地悪そうに座る少年が、ひどく辛そうな顔をしていたから。  ――兄を助けてほしい。このままでは、兄がアレに殺されてしまう。  岳がそう懇願した時、宵央はすでに車に乗り込んでいた。  助手席には年配の女性が、運転席には彼女と同世代の男性が、そして後部座席には宵央と岳が並んだ。  ――ありがとうございます、ご協力に感謝します、こんな真夜中にすいません、どうぞ移動中は寝ていてください……。  そんなことを言われた気がする。  乗り物酔いしやすい宵央は、移動中の車の中で眠れたためしがない。それなのにその後すぐに寝落ちたらしく、意識はそこで途切れていた。  目が覚めたら、真っ暗な室内だった。  幸いなことに、寒いとも暑いとも感じない。少し湿気が強い気がするが、あとはうっすらとした畳の匂いが鼻先を掠るのみだ。  小さな和室だった。  灯りもなく暗い室内の壁や天井は見えないが、おそらく六畳程度だろうな、と見当がつく。比較的近くに、壁に寄り掛かるように座って本を読む少年の残滓が見えていたからだ。 (……本が好きな子だった? 今は、漫画でも読まないのにな)  浬は映画も漫画も小説もほとんどに興味を示さない。読者の感情を動かすことが目的のコンテンツは向いていないと苦笑していた。  感情が希薄だから。  人の心に共感できないから。  浬がそう言う度に、宵央は少々反論したい気持ちになった。浬さんは感情のない化物なんかじゃないのに――うまく言葉を並べる自信がなく、いつも飲み込んでしまっていた本音だ。  確かに何事にも動じない人だ。それでも、笑ったり呆れたりと、その表情は軽やかに変化する。  そのことを、宵央は知っている。  宵央は浬の顔を観察することが好きだったから、知っている。唯一、身の回りで表情がわかる人間だったから。唯一、宵央に向かって笑いかけてくれる人だったから。  図鑑を広げる小さな浬に手を伸ばそうとして、己の体が拘束されていることにやっと気が付いた。どうやら宵央は後ろ手に縛られた状態で、畳の上に転がっているらしい。  暗くて何も見えない。ぼんやりと目に映るものは、真剣な顔で図鑑のページをめくる小さな浬だけだ。 「………っ、う…………」  なんとか身体を起こそうとするものの、手足がしびれてうまく動いてくれない。どうやらかなり長時間、無理な体勢で意識を失っていた様子だ。ポケットに入れていたスマホも、背負っていたデイバッグも手元にない。今がいつ、何時なのかもわからない。  それでもどうにか気合を入れて、膝を引き寄せ額で畳を押しのける。上体を持ち上げて漸く正座の体勢になるものの、足首も括られている為に立ち上がることはできない。  拉致監禁――という言葉が浮かぶものの、宵央は今一つ危機感を持てなかった。  何故なら自分には、誘拐されるような価値などないと思っているからだ。  來摩宵央には家族は居ない。資産もない。交友関係も狭く、自慢できる伝手や繋がりもない。あるものといえば、無駄に敏感すぎる霊感くらいだ。  浬の残滓を視た為に、十堂岳が浬の関係者であることを知ってしまった。その岳が『兄が危ない』と訴えるものだから、宵央は彼の言葉を信じた。実際に浬とは連絡が取れない上に、浬は宵央に『里帰りをする』と言ったのだから、きっと実家で何かがあったのだと思い込んでしまった。  しかしこの場所には、浬の少年時代の残滓だけがある。  徐々に、思考がクリアになる。そしてゆっくりと『もしかして僕はまずい状況なのでは?』と焦り始めた。  恥ずかしいような情けないような気持ちと共に、じっとりとした不安が押し寄せる。  こんなにまずい状況に陥ったのは、《獏獏》の顧客が目の前で自殺を図りそうになった時以来かもしれない。いろいろな客と出会ってきた宵央だが、さすがに拉致監禁されたのは初めてだ。  いや、拉致監禁と決めつけるのは早計かもしれない。まずは自分の状況を把握しなければ――深呼吸を繰り返し動揺を鎮めた宵央は、障子の向こうのぼんやりとした明るさに目を細めた。  ランタンのような淡いオレンジ色の明りは、ゆっくりと移動してぴたりと止まる。そして障子戸がず、ず、ず、と開けられた。  キャンプ用のランタンを持ち、そこに立っていたのは十堂岳だった。  相変わらず他人の表情がわからない宵央からすると、岳はかなり年上だと感じた。  彼の言葉を信じるならば、岳は浬の弟となる。しかし二十七歳の浬よりも年下だとは思えない。  闇の中でもわかるくすんだ手首や首の皮膚は張りがなく、やせぎすの体はひどく姿勢が悪い。顔自体は見えない宵央だが、老人とは言わずとも、四十代と言われても驚かない。 「……ああ。おひとりで、起き上がれましたか。薬には免疫がないタイプだったようですね。よく眠ってくださって、助かりました――でも、人からもらった薬を易々と口に入れない方がいいですよ。危ないですから」  淡々と、聞き取りにくい発音で岳は話す。  言われてやっと宵央は『酔い止めを』と薬を渡され飲んだことを思い出した。わけもわからず必死になっていたし、宵央は浬の事で頭がいっぱいだった――というのは完全に言い訳だ。  とはいえ、氏名を開示している相手にいきなり被害を受けるとは思っていなかった。見ず知らずの暴漢ではなく、彼は『千同浬の弟』という身分を開示している。 「あの……無理やり薬を飲ませるのって、今は、傷害罪とかになっちゃうんじゃないかなって思うんですけど」  確かそんなことを夕子が言っていた気がする。  だが宵央はそこまで気にしたことはない。氏名や身元がわかっていれば、基本的に人は害を及ぼしてはこない。後で訴えられたら困るからだ。  困ることがないのは、死のうとしている人間。  そして、殺そうとしている人間だ。 「あなたが訴えなければ、問題ないですよね。問題ないですよ。非常事態ですから、ご容赦ください」 「ぼ、僕は――」 「兄を助けていただきたいんです」  宵央の言葉など聞くつもりはない。そういう雰囲気だった。  声の調子は一定で怒鳴るほどの声量でもない。それなのに岳の声は有無を言わせない迫力があり、宵央は一瞬怯んでしまう。 「……兄、とは、浬さんの、ことですよね……? 浬さんは、ここにいらっしゃるんでしょうか」 「ここにはいません。ですが、何処に行ったかはわかります。僕達はずっと兄を見守っていましたから」 「――ええと、監視してたということですか?」 「見守っていたんです。兄が、兄の命が、無駄にならないように」  ……どういう事だろう。この人は、何を言っているのだろう。  岳の声は相変わらず一定で、驚く程感情が読み取れない。自称感情が薄いと言い張る浬の方がマシな程だ。  岳は、浬にとってどのような存在なのか。随分と無茶で手荒な手段で運搬された宵央は、さすがに警戒心を解けない。しかし、岳は一貫して『兄を助けたい』と訴えている。  十堂岳は、千同浬にとって味方なのだろうか?  岳の存在が宵央にとって害であっても、浬にとって必要なものならば、話は別だ。 「兄は――兄は幼い頃、僕の身代わりとなりました。母と、父が、僕の代わりに兄をアレに捧げてしまったんです。僕が、入院している最中に……」 「アレ…………《禍喰み》さま、の事ですか……?」 「…………あなたはやはり、《禍喰み》を認識しているんですね」  岳もその名を口にし、お互いの共通認識であることを知る。  浬に憑いているものは、本来なら名すら耳に出来ないと言っていた。《禍喰み》を認識できたということは、《禍喰み》からも認識されたということだ、と。 「初めてです。兄が、近しい人間を作ったのは、初めてなんです。あの店のマスターでさえも、《禍喰み》の名は知らなかったんです。他の誰も……來摩さん、貴方ならきっと、僕達を、兄を助けてくれる筈です。お願いします――《禍喰み》は、もうすぐ兄を喰らいつくす。その前に、手を打たなきゃいけないんです。アレは、ずっとずっと昔から、僕達一族を、千同の本家を、呪っているんです。ずっと、あの井戸の中で」 「井戸……」  ふと、井戸の中の老人のビジョンが浮かぶ。  先日の幽霊屋敷で浬が《禍喰み》を呼び出した際、白昼夢のように見た光景だった。  井戸の中から呪っている。あの、老人が、すべての元凶なのか?  だとしたら、『井戸で待つ』という老人の言葉に、従ってはいけないのではないか。浬はあの井戸に向かったと思っていた。宵央は井戸が何処にあるかは知らず、『里帰り』という言葉から実家を連想したがしかし、岳の発した『本家』という言葉に固唾をのむ。  千同本家。おそらく井戸はそこにあり、浬はそこに居る。 「兄に、今すぐにでも手を差し伸べなければなりません。僕達で、僕と、貴方で、兄を救わなくては」 「救う? ど、どうやって……」 「兄に憑いている《禍喰み》を、僕に移します」 「……え?」 「そうすれば、兄はもう、あの呪いに悩まされることは無くなります。元々は、僕が受けるべき呪いだったんです。あの時、兄は否応なくこの呪いを受けてしまいました。兄の犠牲で、僕は呪いを逃れた。でもあの呪いは僕が受けるべきものです。今度は僕が、兄を救います」  滔々と話す岳が落としていた視線を上げたようだった。宵央には、彼の表情はわからない。見えない。ただ彼の顔の上を覆う、黒いシミのような靄だけが見える。 「來摩さん、お願いします。兄を助けるために、どうぞ死んでください」  彼の顔を隠すその感情の靄は、宵央が今まで見てきた中でも群を抜く程黒くそして禍々しく見えた。

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