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【6】-05
黒い穴の中に、びっしりと小さな歯が並んでいた。
目のようなものはなく、鼻も耳も見当たらない。それなのに、頭があり、首があり、肩があり、四肢がある。黒く濡れた縄で、人の形を成すように無理やり縛り上げられているように見えた。
無理やり整えられた、口しかない怪物。
それが、宵央が初めて己の目で視認した《禍喰み》の姿だ。
闇の中から滲み出た《禍喰み》は、へたり込む岳の前まで這いずるように移動すると、口を大きく開けた。粘土のように、柔らかいパン生地のように、その歪な歯がびっしりと並ぶ口は上下に伸びる。
ああ、岳が、喰われる――。
ほとんど金縛りのような状態で目を逸らすことが出来ない宵央の目に、浬の手が翳された。
「……マヨさん、あんま凝視するもんじゃねえよ。マジで見るな聞くな口にするなタイプの忌形だから」
視界を遮られた宵央には、十堂家の人々の悲鳴が聞こえるだけだ。
「ぎゃああ、――――」
ひときわ高い女の悲鳴が上がったかと思うと、それはまるでうそのようにぷつんと途絶えた。
あとは、恐ろしいほどの静寂が満ちるばかりだ。
「……さぁて、喰うもの喰ったし、さっさとこんな場所逃げんぞマヨさん」
「え、あ……い、いいんですか、あの……放っておいて」
「え、なんで? 救急車呼ぶ義理なんかないっしょ? つか別にちょっと感情喰われて――っあー、いや、結構深いとこまで喰われてっから、ちょっと人格ぶっ壊れてるかもしんないけどまあ、どうしようもない。コッチの医療じゃ、アッチの傷は治せねえよ」
行こうと手を取られ、もつれる足で宵央は小さな六畳間を出る。部屋の隅に居た子供の浬は、もうどこにもいない。ただやつれた青年が背を丸めて天井を見つめているだけだった。
顔の前の黒い感情の靄を喰われた岳は確かに、少し、浬に似た目元をしていた。
廊下で失神し失禁している二人の男女を避けながら、がらがら開いている玄関の外に出る。
あたりはすっかり真っ暗で、近所の家も寝静まっている様子だった。あれだけの騒ぎは、外に漏れ聞こえていなかったのだろうか。
浬に手を引かれたまま、後ろを振り返ろうとした宵央は前を歩く男にぴしゃりと止められる。
「振り向くな馬鹿。あの家ン中に満ちてるヤツは、もう怨霊の領域なんだから未練を見せるとついて来るぞ」
この言葉に、宵央は震えあがって視線を前に戻した。しかし一瞬見てしまった玄関扉には、真っ白い顔をした何かが三体、べったりと張り付いて外を見ているように思えた――。
「車までちょっと歩くからもうちょい頑張れ。さすがに閑静な住宅街のど真ん中にデコトラ停めたら、警察呼ばれる可能性大だからさ。あと出来るだけ距離取ってた方が安全だし」
「……そういえば、《八ツ辻》でよくトラック運転手の怪談を聞くので、どなたかトラックの運転手なのかな、と思っていたんですが」
「九さんだよ。バツイチトラック運転手ギャル」
「……トラック運転手は猫屋敷さんだと思っていました……」
「人を見た目で判断すんなってことよ。猫さんは溶接が趣味の寺の住職で、ペストさんは興信所勤めだ。みんな怪談が好きって趣味以外はバラバラで、たぶん普通に生活してりゃ一生出会わない奴らなんだろうな」
「そう、ですね……僕も、《八ツ辻》で雇っていただけなければ、きっと皆さんにお会いする事はなかったと思います」
「マヨさん怖い話嫌いだもんなぁ。……でもよく、そんなマヨさんが頑張って耐えたよな。マジでもう失神して震えて泣いてるもんだと思ってたわ」
「そんな――あ、いえ、はい、昔の僕なら、そうだったかも……」
「初めて会った時から、ぶるぶる震えてたもんなぁ、マヨさん」
來摩宵央は夜が怖く、幽霊が怖い。
それは今も完璧に克服したとは言い難いが、浬が隣に居てくれたらそれだけでほんの少しくらいは耐えられる、と思う。
宵央の手を引き真夜中の見知らぬ道を進んでいた浬が、ふと足を止める。うっかりぶつかりそうになって慌てて後ろに下がろうとした宵央の手を、浬は離してくれない。
「……あの、浬さん……?」
宵央をじっと見上げる浬の顔は、いつものへらりとした笑顔ではない。本当に何の感情も浮かんでいない顔――おそらく、浬が偽りの感情を取っ払った時の、素顔だ。
「マヨさん、幽霊怖い?」
「えっ。……え、あ、はい、その……少しくらいは、慣れたつもり、ですけど、まだ、……怖いです」
「夜も怖い?」
「……それは、マシになりました。夜は怖いモノがたくさん視えるから嫌いだったんです。でも、夜は《八ツ辻》の皆さんや、浬さんとおしゃべりできる時間です。そう思うと、少し、愛おしいというか、待ち遠しいなと思うことも、増えました」
「……おれのこと、怖くない?」
「え、なんでですか?」
唐突にわけのわからない質問をされて、宵央は真顔で首をひねる。浬は相変わらず一切の感情のない顔で、じっと宵央を見つめていた。
「マヨさん、視ただろ? おれに憑いてるバケモノ」
「――ええと、はい、視ました、はじめて、はっきりと……確かに、予想していたよりはなんていうか……禍々しかった、です」
「怖くなかった?」
「怖かったですよ。怖くて、なんていうか、不気味というか、生理的に気持ち悪いって感じでした」
「……あんなんが常におれに憑いてんだよ。おれのこと怖いんじゃねえの?」
「いや浬さんは怖くないです。だって浬さんは、人間ですから」
「人間、かなぁ……? おれなんか、バケモンの為に生きてるだけの水袋じゃねえのって、思ってたけどな」
そんなことは――と言いかけた宵央の口を、浬の手が塞ぐ。
相変わらず浬の顔に表情のようなものはない。それでもなぜか、彼の声はひときわ甘くむず痒く宵央の耳を擽る。
「でもなんか最近は、おれっておちゃめでかわいくて結構イケメンで思ってるよりも誠実で優しくてイイ男なんじゃね? って思ってきたよ。マヨさんがそう言うから。さすがにちょっと言いすぎだろ目ぇ腐ってんなぁとは思うけど、でもマヨさんは嘘つかねえじゃん? おれと違って、マヨさんは善良だから」
「う――嘘じゃないです! 浬さんは、可愛くて格好よくてちょっと面倒くさがりですが訊けばちゃんと説明してくださいますし、常連さんのことも癸さんのこともすごく大切にしていて、その……」
「マヨさんのことも結構大切にしてるつもりだけど?」
「……はい。わかってます……こんなところまで、駆けつけていただいて、でも、僕は、……他の人よりもっと、特別になりたい、と思ってしまいます。僕は、浬さんの全部がほしい」
感極まってしまった宵央は、目の前の浬の体を抱きしめてしまう。
腕の中に納まる身体は細く折れそうな女性とは違い、骨格も筋肉もがっしりと堅い。
思い切り抱きしめても、『痛い』と笑うだけで許してくれる浬が好きだ。頭の先からつま先まで、嫌いな要素が思い浮かばない。癸がよく彼を叱る、少しちゃらんぽらんなところまで可愛いと思う。
腕の中の浬は、やっと苦笑のような息を零す。
「マヨさんそれいっつも言うよな。特にエロイことしてる時」
「えッ――う、うそ」
「理性ぶっ飛んでる時の定番じゃん、『浬さんの全部がほしいんです』ってやつ。すげえキメ台詞みたいに言われたけど、こちとら耳タコだよ」
「ぼ、僕は、そういうコトをしているとき、あの、あんまり、記憶が定かではなくてっ」
「マヨさん、エロイこと好きだもんな?」
「……だって、目の前にあなたがいたら、我慢できない」
言い訳を受け入れてほしくて、恥ずかしさを誤魔化したくて、浬の手をぎゅっぎゅと握ってしまう。
ふははと軽く笑った浬は、宵央の手を握り返して首筋に頬を摺り寄せた。耳に、息が当たって痒い。
「我慢しなくていいんじゃね? 我慢すんなよ。おれなんかバケモノのねぐらだ。それでも良けりゃ、いくらでもくれてやる」
「……え、え?」
「だからさァー……おれにもマヨさんちょうだいよ」
耳の下に囁かれる声が、まるで現実だとは思えない。怖い思いをしすぎて、脳がおかしくなっているのかもしれない。もしくは、すべて夢かもしれない――。
浬の言葉をうまく飲み込めずに固まってしまった宵央に、思いのほか熱い身体を寄せた浬は駄目押しのように恥ずかしそうにつぶやいた。
「おれ、マヨさん居ないとダメみたい」
……この際、夢でも構わない。
宵央は思わず浬の頬を両手で抱え、噛みつくようにキスをした。
一瞬びくっと身体を強張らせた浬も、すぐに口を開いて舌を迎えてくれる。浬は最初からキスがうまく、宵央は嫉妬心を押し込めながらも彼の舌に無心で翻弄された。
キスの合間に零れる息が官能的だ。無意識に浬の腰の骨をなぞっていたらしく、『ん、』と息を漏らした浬に背中を叩かれハッと正気を取り戻す。
そういえば、知らない街のど真ん中、ド深夜の道端だった。
犯罪行為をしているわけではないとはいえ、誰かに見咎められる可能性もなくはない。
断腸の思いで浬の体から手を離し、震える息のまま反省する。
「…………すいません……調子にのりました、我慢します……」
「おん。我慢できてえらいな? 帰ったらいっぱいちゅーしような?」
「します……あの、えっちなこともしていいですか……?」
「好きにしろよ、おれにイライラじゃなくてムラムラすんのなんて、マヨさんだけなんだから。あ、ついでにドラッグストア寄ってゴム買ってこうぜ。いい加減貫通式しちまいたい」
「…………い、いいんですか?」
「いいだろ別に。つかおれは最初からいいって言ってるけど。マヨさんこそネコじゃなくていいのか? ゲイの人ってやるよりやられる方が好きって聞いたことあるけど」
「僕はそのー……どちらかといえば、浬さんにご奉仕したいというか、気持ちよくなってる浬さんを目に焼き付けたいというか、いっぱい責められている浬さんが見たいというか……!」
「煩悩まみれじゃねえかよ。じゃあ問題ないじゃん、だってマヨさんはおれの『初めて』ほしいだろ?」
「ほしいです……!」
「がっつくな、あとでちゃんと全部差し出してやるから。おれだってマヨさんの童貞奪いたいからウィンウィンだな。よしじゃあ、とりあえず帰ろうぜ。九さん今頃キレてっかも」
「はい。……あの、浬さん」
「うん?」
歩き出した浬は、また宵央の手を握ってくれる。へらりとした、いつもの軽薄な笑顔だ。
宵央は彼の手を握り返しながら、周囲に響かない程度の声量に注意して声を上げる。
「生きててくださって、ありがとうございます」
出会ってくれて、と言いかけた宵央の頭に、あの小さな少年の幻影が過った。
部屋の隅で隠れるように本を読んでいた子供。身体の異常を抱えながらも、両親に放置された子供。きっと彼はあのまま放置されていたら、命を落としていただろう。出会うどころか、この世に存在していなかったかもしれない。
浬が生きててうれしい。今の気持ちを素直に、そのまま伝えた宵央に対し、浬は笑う。
「こっちの台詞だよ、ばーか!」
今はすっかり成長した年上の彼は、ふはは、といつも通り軽やかに言葉を投げ返した。
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