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第56話 " 番 "

 産後半年が過ぎた頃、俺は自分の体に『異変』を感じた。いや、異変というのは少し語弊があるかも知れない。何故なら《《よく知っている感覚》》だったのだから。    朝、大和を仕事に送り出した時は特に兆しすらなかったのに、昼過ぎに子供達を寝かし付け、我慢していたトイレに行った帰り…。突如鼻を擽った『匂い』に引き寄せられて入った脱衣場。そこにある洗濯カゴ。ハッとした時には、その手に後で洗濯する筈だった、今朝大和が脱いだばかりのシャツ。そして俺は、シャツを鼻近くに寄せ、匂いを嗅いでいた。変態くさい行為だけれど、俺が嗅いでいたのはシャツに残るαフェロモン。Ωの本能で引き寄せられたんだ。  当然、いつもはこんな事はしない。毎日洗濯の度に夫のシャツの匂いを嗅いでたら、変態くさい性癖になってしまう。断じて俺にそんな性癖はない!  発情期の予兆――。  多分、間違いない。予兆どころか、既に入りかけている気がする。このままだとマズイ。シャツは握り締めたまま、慌てて子供達の所に戻った。  寝ている子供達の様子に安堵しながら携帯電話を手に取り、大和に電話をかけようとして……止めた。俺が今真っ先にしなければならないのは子供達を預ける事。預け先は一ケ瀬の家しかないけれど……。熱くなりかけた頭で思考を働かせる。  (大和に連絡して、大和が帰って来たら一ケ瀬家に連絡してもらって、子供達を迎えに来てもらうか? ……いや、多分それでは《《遅い》》……)  直感がそう告げていた。  俺は先に『彼女』に連絡した。『彼女』が来てくれるまで二十分程。さっきより体が火照っている感じがするけれど、まだ大丈夫だ。俺は子供達の着替えやオムツ、ミルクなどの育児に必要な物を旅行バッグに詰め込んだ。二人分だから結構な量だけど、車だから多分大丈夫だ。次に、ベッドの中の子供達に上着を着せた。冬だからな。帽子を被せ、靴下も履かせて準備万端。子供達は目覚めていたけれど、機嫌は悪くない。  慌ただしく用意を済ませて待っていると、彼女…明日香ちゃんが来てくれた。    そう。大和に連絡するのを止めた俺は、明日香ちゃんに電話したんだ。現状、頼れるのは彼女しかいない。  あの電話の日から、彼女は度々我が家を訪れてくれて、俺と、そして子供達と交流を持ってくれていた。  明日香ちゃんは部屋に上がり、子供達に声をかけてから、絆をおんぶ紐で背負い、肩にパンパンのバッグをかけ、紡を腕に抱いた。 「明日香ちゃん、ごめんね」 「気にしないで下さい。莉子のご両親に用があって、ちょうど一ケ瀬の家にいたんです。チャイルドシート二台つきの車を朝陽さんからお借りしてきたので」 「そうだったの。ありがとう。 あ、車まで送る。二人は大変でしょう? 少しの間だったら大丈夫…」 「ダメですよ。危険です。βの私でも微かに感じるくらい匂い漏れてます。大和さんに連絡は?」 「子供達を預けたら……」 「解りました。エレベーター前で莉子が待っててくれてますから、本当に大丈夫ですから。いいですか? 私達が出たらすぐに鍵を掛けて。大和さんは鍵、持ってますね? インターホンが鳴っても絶対に出ないで。  ぎずちゃん、つむちゃん、ママと少しだけバイバイしましょうね」  明日香ちゃんが子供達に声をかける。言われた意味が解る筈もない子供達は、変わらずご機嫌だ。  俺は子供達に手を伸ばして頭を撫で、柔らかな頬にキスをした。心の中で「ごめんね」と謝りながら……。  ドアに鍵を掛けると、俺はその場にしゃがみ込んだ。  しんどい……。  体が辛いのは当たり前だけれど、心が辛い。思い出したから……。かつて、Ωが一人で子供を育てる事の大変さを指摘された事を。こういう事だったのだ、と。もしあの時、独りで育てる選択をしていたら、今頃どうなっていたんだろう……。考えるのが怖い……。  だから俺は、その考えに蓋をした。俺は今、最善の選択をして此処にいるのだから……。  いよいよ辛くなってきた俺は、大和に電話をした――。  俺が大和より先に明日香ちゃんに連絡して子供達を預けたのは、『俺と対峙した瞬間、大和は|発情《ラット》になる』という確信があったから。大和自身は気付いているか知らないけれど、大和のフェロモンは日に日に濃さを取り戻していた。もしかしたら、今の俺の発情期は大和のαフェロモンに誘発されたんじゃ……と思ってしまうくらいに……。    俺は熱でぼんやりとし始めた頭で、大和の匂いを求めて家の中を彷徨い歩いた。脱衣場のカゴから大和の服だけを取り出して抱え、寝室に運んだ。クローゼットを開け、洗濯をしてもフェロモンの匂いが残る服と下着を引っ張り出して、ベッドの上に山を作る。 「ふふふ……」  体が熱くて、頭がふわふわする……。  幸せ……だなぁ……。  少し覚束ない足取りでベッドに近付き、宝物の山に身を沈めた。  俺の記憶は、そこで途切れた――。  ✩ ✩ ✩ 〈 side大和 〉 「発情期が来た」と渚から電話をもらった俺は、急遽オーナーに一週間の休みをもらい、安全運転に気を配りながら逸る気持ちを抑えて、家路を急いだ。  玄関のドアを開けると、ふわりと香るΩフェロモン。慌ててドアを閉め、鍵を掛けた。  あのデートの後から、俺は渚からΩフェロモンを感じる様になっていた。理由は判らない。それでも、渚の匂いが判る様になった事が嬉しかった俺は、渚を抱き締めた時はいつも、彼の首筋から香る匂いを嗅ぎ、吸った。渚は「くすぐったい」と言いながらも、嫌がる事なく好きにさせてくれた。ただ、渚には何も言ってない。匂いが判る様にはなっても、自分からαフェロモンが出ているかは自分では判らないから。  今では渚のフェロモンをはっきりと感じられるのに、俺のフェロモンに関して渚から何も指摘されない事が、俺を不安にさせた。  俺はゆっくりと渚の匂いを辿る様に進んだ。寝室のドアの前で立ち止まり、一つ大きく深呼吸をしてからドアを開けた。 「……っ!」  瞬間、強烈なΩフェロモンが全身を包み込んだ。  視線を巡らせて、愛しい人の姿を捜す。  (渚、何処に……?)  ベッドの上に山が出来ていた。目を凝らしてみる。  (俺の服……? もしかして……)  油断すれば呑み込まれそうになる理性を総動員して、服の山に声をかけた。 「渚……?」  呼びかけると、山がもぞもぞと動いた。  手を伸ばし、慎重に一枚一枚ずらしていくと…。  解ってはいたが、渚が現れた。裸の体にシャツ一枚を羽織った姿で。しかも、着ているのは俺の……。 「……大和?」 「うん。ただいま。巣を作ってくれたの?」 「ん……。でも、上手に……出来なかった……」 「そんな事ないよ。上手。ありがとう」  褒めながら頬を撫でると、渚は俺の手に頬を擦り寄せた。 「いい匂い……」 「っ!」  渚の呟きにはっとする。 「俺の匂い、判るのか……?」 「……うん。大好きな匂い……。俺のα……」  うっとりとしながら渚が呟く。 「……来て、大和………」 「っ! 渚っ……!」  俺の理性は崩壊した――。  ✩ ✩ ✩  俺達の発情が落ち着いたのは五日後だった。  つまり、五日もほぼ休みなしで性行為をしていたという事になる。  (……よく生きてたな、俺………)  発情期を誰かと過ごすのは初めてだった。交際していた頃は、発情期には会わない約束をしていたから。  (なんか清々しいな……)  今までは独りで自慰をしながらただ時間が過ぎるのを待つしかなかった発情期。落ち着いた後はただ虚しさと切なさが残るばかりだったのに……。  (αに抱かれたから……? ううん。違う。大和だからだ。愛する人に抱かれたから…)  絶え間なく抱かれ続けた後の体の怠さはあるけれど、嫌な怠さじゃない。愛された証だから。  俺はそっと項に手を伸ばした。鏡がないから直接は見えないけれど、指で触れれば凹凸かわ判る。  " 番の証 "が、そこにはある。  何日目だったかは判らないけれど、噛まれた瞬間は憶えている。 『渚、噛んでもいい?』 『うん。噛んで。大和だけのΩにして……』 『ありがとう。愛してるよ』  大和が俺の項に歯を立て牙を刺す様に噛み付いた瞬間、痛みと共に感じた幸せを、俺は忘れない。  ベッドに座って静かに涙を流している俺を、朝食を手に戻って来た大和が、手にしていたお盆をベッド脇のチェストの上に置き、ベッドに座って抱き締めた。 「どうした? どこか痛いのか? 無理させたからな」  謝ってくる大和に、俺は首を横に振る。 「幸せだなぁ……って思ったの」 「そっか。俺も幸せだよ」   俺達は顔を見合わせ、見つめ合い、 「「愛してる、俺だけの唯一」」 永遠を約束する『誓いのキス』を交わした――。    

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