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第3話

 警察庁公安部特殊係十三課。  怪異を取り扱う唯一の国家機関だ。怪異と直接対峙する物騒な部署から清祓担当、諜報・暗殺など組織図は多岐にわたる。  湯守澪が所属するのは解析・回復担当。いわゆる治療室で、怪異に関わる医師を担っている。  だから、潜入捜査なんて物騒な仕事が自分に回ってくるなんて、思っていなかった。 『人間の失踪事件が続いている。俺の勘が間違っていなければ、澪が適任だ。任されてくれるか』  特殊係十三課班長の須能忍から降ろされた任務だ。  男ばかりが失踪し、一月程度で無傷で発見される事件が続いた。怪異を疑った警視庁からの持ち込み案件だった。 (歯切れの悪い班長の言葉の意味が分かった気がする。しっかり捕まったからな)  麻酔銃も偽装の逮捕状も、澪の仕込みは全部、バレていたのだろう。諜報部署のプロだったら、こうもあっさり捕まったりしなかった筈だ。 (まさか、死なない人魚だったとは。銃を突き付けても、そりゃ動じねぇわな。別にいいけど)  結果として、泡沫の懐に潜り込むことには成功したわけだが。  澪は、改めて自分の姿を視える範囲で確認した。大きなベッドに寝かされた状態で、手足に枷をかけられ鎖でベッド柵に固定されている。ご丁寧に体感までベッドに縛り付けられている。 「俺はこれから、何をされるわけ?」  ベッド下で澪に背を向けて座る泡沫に、恐る恐る声をかけた。 「今のところ、何もしないが」 「そのうち何かするって理解で、あってる?」  泡沫がのっそりと振り返った。 「何かを期待しているのか? さっきより善くなれる媚薬を盛ってやろうか」  怪しく笑む泡沫に、本気で怯える。 「結構です。素直に暴露すれば、今だって、まだちょっと疼いてるよ」  勢いで口付けて、更に舌を深めたその後からの記憶がない。目が覚めたら雁字搦めにされていた。意識が戻ってから、下腹の奥に残る疼きが辛い。 「しばらく耐えれば、抜ける。楽にしてやってもいいが、始末が悪いんでな」  泡沫の細い指が、澪の股間をそろりと撫でた。ゾワリとした痺れが背筋を駆け抜けた。 「くっ……」  丸まる澪の足の指を、泡沫が何気なく眺める。 「今の状態で俺が触れると、意識が飛んでも射精し続ける。無意識に自慰をされても面倒だから、大人しく縛られておけよ」  淡々と流れた説明に、怖気が走った。 「この鎖も、もしかして抑制か……」  体の動きを制御するだけでなく、媚薬の薬効を弱める効果もあるのだろう。微量の妖力を感じる。 「廃人になりたければ、抱かれてやる。媚薬を抜きたいなら、何も考えず寝ていろ」  泡沫がまた、前に向き直った。 (何も考えずと言われても)  澪は部屋の中を見回した。鉄パイプのベッドと簡易のテーブル、たくさんの本や資料が並んだ大きな本棚が壁を占拠している。戸を開け放った隣の部屋には狭いキッチンがある。一見すると、アパートの一室のようだ。 「ここって、お前の家?」  入ってきた時の建物はコンクリートの二階建て、廃屋のような家だった。 「ここ百年程は、俺の家だ。今のところ見付けたのは、お前だけだよ」  紙を捲る音がする。本を読みながら澪の質問に答えているらしい。 「なるほどね」  澪が見付けたのではなく、泡沫に誘い込まれたのだろう。 (変わった結界だとは思ったけど、高度な空間術だったか)  守る結界と隠す空間術は、基本から違う。結界を装った空間術を行使できるのは、かなりの手練れだ。 (……大人しく、寝とこう)  現時点で、泡沫を欺いて逃げる術が見付けられない。澪は目を瞑った。 (そもそもの目的は潜入だ。期限までに戻らなければ、十三課が助けに来てくれるだろ)  連続失踪事件との関連性と、犯人と目される男の素性調査が目的だ。不死の人魚と知れただけで、半分は目的が達成された。 (生態を考えれば、男ばかりの失踪も泡沫の餌の確保だろ……不死の人魚の殺し方、か)  人間の男たちは、泡沫の食事のために誘拐され、適当に解放されたのだろう。殺してもいないから、十三課の捕縛対象にはならない。 「主食は精液か……人肉を喰わなきゃ死ぬって訳でもないんだな」  澪は、ぽそりと呟いた。 「食わない程度で死ねれば、苦労しない。精液を喰わないと妖怪化が進んで、人肉を欲するようになる」  澪は目を開けた。泡沫の声は淡々として変わらない。なのに、違って響いた気がした。 (男の精を喰うことで、ギリギリ人の理性を保っている半妖……ってことか)  生まれた時から八瀬童子の血と霊能を引き継ぐ澪とは違う。古来から続く鬼の血で苦労した記憶が、澪の中にはない。 「なんで……死にてぇの」  本を捲る泡沫の手が止まった。沈黙が、部屋の中に漂う。台所の蛇口から、ぴちゃりと水滴が落ちる音がやけに大きく聞こえた。 「人は、死ぬものだろう。命の終わりは、死だ」 「人魚の半妖だもんな。元は人間か。人魚の肉でも喰ったの?」  澪のような生まれつきの半妖でないのなら、自ら望んだか、抗えない事情があったのか。 「……そんなところだ」  泡沫の短い返事を深堀する気になれなかった。 (無理やり人魚の肉を喰わされたなら、人への渇望や望郷は、俺にわかるわけもない)  日本において、人魚伝説は根強い。実際に捕縛された人魚の数も多く、残る資料も多い。つまり、妖怪の側にも人の側にも被害者が多いということだ。 (似たような患者は、少なくねぇもんな)  そういう被害者を、澪は医者として何度も診てきた。多くは人魚の血肉に適応できずに死に至る。救う方法はない。それくらい、人魚の呪いは強い。だが時々、順応して不死を得る者がいる。  改めて、須能忍が澪を適任として送り込んだ理由を理解した。 「男の精を喰わずに済んだとしても、死にたいか?」  泡沫の顔が、上向いた。まるで水の中から息を乞う姿に見えた。 「子を成すでもない、愛を確かめるでもない。生きるために誘惑し、肌を重ねて、腹の中に吐き出された快楽と欲を喰らう。ただそれだけのことを、三百年以上繰り返した……もう、終わっていいだろ」  泡沫の顔が、また下を向いた。しかし、本のページは止まったままだ。  部屋の静寂が、やけに乾いている。二人の呼吸だけが微かに湿っていた。 「そっか、死にたいんじゃなくて、人に戻りたいのか」  澪の独り言のような言葉に、泡沫は答えなかった。 「お前が提案した賭け、本格的に乗ってやるよ」  澪は両手足に霊力を籠めた。指先から流れ出た水が、枷を腐食させる。崩れた枷を静かに外して起きあがった。 「存外、簡単に抜けられるのだな」 「そりゃまぁ、水質管理から水の扱いまでを得意とする八瀬童子の末裔ですから」  天海人皇子を癒した風呂を起源に、近代まで皇室お抱えの温泉管理をしてきた一族の霊能は伊達ではない。 「ただし、俺が見付けんのは不死の人魚の殺し方じゃなくて、人に戻す方法だ。これでも医者なんでね。積極的に命の芽を摘むほど、落ちぶれちゃいないんだ」  手首を摩りながら、泡沫を眺める。 「お前のモラルも信条も、俺には関係ないが……それでいい」  泡が静かに本を閉じた。 「十三課に居場所を連絡しておけ。用件さえ済めば、帰してやる」 「話して、いいのか」  意外な返事に思わず聞き返した。 「どうせ、お前の目的は俺の根城の潜入だろう。そうさせるために、わざと公に人間を攫った」  そんな気はしなくもなかったが。  十三課を動かすために、あえて軽微な事件を連続して起こしたのだろう。 (自分を殺せる術者を送り込ませるために、だろうな)  じわりと、澪の胸の奥に泡沫への興味が滲んだ。 「俺は泡沫を死なせる気はねぇよ」  泡沫が小さく息を吐いた。 「お前の理想と俺の希望は合致する。そのうちにわかるさ」  泡沫の顔が、穏やかに笑んでいた。さっきまでの殺伐とした声でも顔でもない。それが、かえって気味が悪くて心に引っ掛かった。

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