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第8話
一階は診察室だと聞いていた。澪はこの日、患者が入っている姿を初めて見た。
「兎の、一角獣?」
白衣姿の泡沫の膝の上で、白い兎が震えている。痩せこけた白い兎の額には、長く立派な角がある。
「日本の妖怪としては、馴染みが薄いよな」
一角獣自体が海外に多い妖怪だ。
「日本においては、妖怪より怪異に近い」
「あぁ、そういう……都市伝説系が近いのか」
自然現象から生まれた古来の妖怪ではない。口裂け女や人面犬、八尺様といった怪異は、人々の認識が支えになる。忘れ去られた瞬間に怪異は弱り、姿を消す。
「一角獣は怪異ではないけど、流行があったかもなぁ。アニメとかキャラ的なもんかね」
「その手の存在だろう。海外においては歴史のある幻獣だ。結びつけば存在は固定されるが、力は弱る」
泡沫が兎の背を撫でる。妖力が零れて流れ落ちた。姿が透けそうなほど脆弱だ。
「こういう子は、どうするわけ?」
「どうにもしようがない。看取るしかないだろう」
兎を撫でる泡沫の手つきは優しくて、切ない。壊れそうな体に触れるのを躊躇う指が、泣きそうに震えている。
澪は兎に手を伸ばした。触れそうで触れない位置で、背中に手を翳す。
(随分、弱っているな。水の流れが滞って、澱んでいる。けど、核が光っている)
体の最奥に、命の核がある。核が光を失えば、この一角獣は存在ごと消えるのだろう。核はまだ光を失っていない。
「死ぬほど弱ってはいなそうか。だったら……」
澪は周囲を見回した。
「なぁ、桶のようなもん、あるか? あとお湯……水でもいい」
「桶なら、処置室にあるが。何をする気だ?」
訝しい顔をする泡沫を、澪は振り返った。
「俺は八瀬童子だぜ。温泉を作るに決まってんだろ」
診察室の隣の、処置室に入る。水場に丁度良い桶を見付けた。たっぷりと水で満たすと、簡易ベッドの上に置く。
「木桶に直接、水を注いで、湯を沸かせるのか?」
兎を抱えて、泡沫が処置室に入ってきた。
「まぁ、見とけって」
澪は桶の水の上に手を翳した。
(核を活気づけるための薬種、湯温は三十六度、じっくり浸かって、芯から核の光を取り戻す)
澪の手から薄紅の光がハラハラと水の中に降り零れた。眩い光が水に溶ける。ただの水が湯に変わり、薄紅の液体から霊力が湯気のように上がった。
「……よし。準備できたぞ」
振り返ると、泡沫が呆気にとられて桶の湯を眺めていた。
「嫌じゃなけりゃ、入ってみな。きっと元気が出るぜ」
澪は一角獣の頭を撫でた。兎が、澪に向かって前足を伸ばした。
「お、入るか。どれどれ、後ろ脚から、ゆっくりなぁ」
泡沫の腕から一角獣を受け取り、後ろ脚を湯に浸す。ピクリと、兎の足が跳ねた。
「熱いか?」
一角獣が澪の手を舐めた。
「平気そうか。んじゃ、ゆっくり全身、浸かろうな」
足から下半身を馴染ませながら、ゆっくりと湯に沈めていく。顔だけを桶の縁に載せて、全身が薄紅の湯に浸かった。呼吸状態や肌の色、核の光を確認する。
「角が、消えていく」
泡沫が呟いた。
兎の長かった角が、見る間に短くなった。ボールペン一本分はあろうかといった角が、消しゴムほどの長さに収まる。凝集した妖力が核に流れて、光を強くした。
「問題なさそうだな。三十分ぐらい浸かれば、消えない程度には核の光を取り戻せると思うぜ」
泡沫が唖然として、一角獣と澪を見比べた。
「一体、どうして。核の光は、ほとんど消えかけていたのに」
「こいつ自身が、消えたくないって思ったからだろ」
泡沫が目を見開いた。
確かに、泡沫の腕の中にいた時の一角獣の核は消えかけていた。
「人の概念から生まれた怪異でも、大元は歴史ある幻獣だからな。核さえ元気にしてやれば、存在は消えない。妖怪の核も、人間の霊元も、神様の神核も、活気を取り戻すのが八瀬童子の温泉だ」
水質、温度管理から薬種までを扱う八瀬童子の十八番といえる。怪異の医師である澪だが、一家相伝の秘術に関しては、医術より自信がある。
「……湯守の血は、さすがだな」
泡沫が素直に感心している。普段は偏屈だから、何となく調子が狂う。
「そりゃ、まぁな」
泡沫が兎をじっと見詰める。桶の縁に顎を乗せて微睡む様が、可愛らしい。
「カピバラみたいだな」
泡沫の言葉に、澪は吹き出した。つられて、泡沫が笑った。
(なんだ、普通に笑えんだ)
他意なく笑う顔は普段より幼い。二十歳前後の青年に見えた。
「確かに、似てる。可愛いな」
大人しく湯に浸かる兎を見守りながら、澪は泡沫の笑顔にほんの少しだけ、見惚れた。
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