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第14話
診察室に入ったが、誰もいなかった。泡沫が診察室の机に向かう。とりあえず着いていった。
「患者は、これから来るのか?」
診察室を見回す。やっぱり誰もいない。
「ここにいる」
泡沫が机の上を指さした。
「おーい、ここじゃ、ここ」
机の上で、親指ほどの翁が手を振っている。
「あー……びっくりした。神様ですか」
空気に溶けるのではないかと思うほど姿が透けている。それでも神力は感じ取れた。
「お主、神を感じ取れるか。普通の人間ではないのぅ。鬼の匂いが、わずかにするかな」
翁が、クンクンと嗅ぐ仕草をした。
「彼が先ほど話した八瀬童子です、塞神 様」
泡沫が澪を紹介した。
「塞神……様か」
道の辻に住む災いを塞ぐ神、それが塞神だ。
「この近くの里山にあった辻を守っていらした神様だ」
「宅地開発というやつでの。里山が拓かれて、辻がなくなった。儂の役目が終わったのじゃよ」
塞神の翁が穏やかに語る。チクリと、澪の胸が痛んだ。
(役割を終えた、か。何千年、何万年……どれだけ長い時間、その辻を守ってきたのだろう)
姿が透けるほどに神力は脆弱だ。胸の奥に灯る核が、崩れ始めているのが見える。
(存在意義から消えたんじゃ、俺にも、どうにもしようがない)
一角獣の兎のように活気付けてやれない。看取るしかない神様だ。
「お主が八瀬童子か。道理で鬼の匂いがするわけだなぁ。近郊で噂になっておるぞ。質の良い湯を提供してくれる医者が、泡沫の元に入ったとな」
「新入社員的な扱いかぁ」
良いのか悪いのかわからないが、噂になるほどとは、驚いた。
「泡沫も良かったのぅ。お主の中の人魚の呪いが、洗い流せるやもしれぬぞ」
「どうでしょう。俺のは、ただの呪いとは違いますからね」
泡沫が翁に向かい苦笑する。
「呪い……」
澪は思わず呟いた。呪いという発想は、澪の中になかった。
(そうか、呪いか。だとしたら、肉を喰らうだけじゃなく、血液や唾液でも呪いを受けるのかもな)
だったらそう、話してくれればいい。
(言わないってことは、違うのかな)
小さなモヤモヤが、澪の中に募った。
「泡沫の中の呪いが早く癒えるよう、儂は祈っておるよ」
塞神の翁が小さな手を泡沫の指に乗せた。
「長いこと、見てきたからのぅ。それこそ江戸の昔、源之助 が健在であった折から……」
「塞神様、昔話はよしましょう」
泡沫が困った風に話を止めた。
「源之助?」
初めて聞く名前だ。観察日記にも文献にも、そんな名は出てこなかった。
「彼の者はなぁ、人嫌いな泡沫が唯一、心を許した……」
「ただの知り合いだ。遠い昔の話だよ」
塞神の翁の話を、泡沫が遮った。
「それより塞神様、どのような湯をご所望ですか。澪は、どんな湯でも自在に整えてくれますよ」
塞神の翁が眉を下げて泡沫を見詰めた。
「そうよな。儂には時がない。湯を急ぎ整えてもらおうか。花湯が良いかの」
小さな手が、泡沫の指をトントン叩く。泡沫が澪を見上げた。
「頼めるか、澪」
「あぁ……準備、してくるよ」
処置室に入った澪は桶を手にした。
(呪い、源之助……江戸の昔。もしかして、俺が読めなかった宝暦の日記じゃないのか)
ドクンドクンと、心臓が重く鼓動を刻む。
「宝暦の頃、何があったんだ」
呟いた言葉があまりに不穏で、余計に鼓動が重かった。
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