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第15話

 診察室の机の上にタオルを敷いて、桶を置く。その中に澪は手を翳した。 (花の匂いを醸す、浅湯。湯温は三十七度くらいがいい。花弁を散らして、華やかに、美しく――)  役割を終えた塞神の翁を送るにふさわしい湯を。  澪の指の先から雫が滴る。薄い青を帯びた湯が、桶の中に溜まっていく。もう片方の手から七色の花弁がハラハラと舞い落ちた。 「おぉ、何とも美しいのぅ」  塞神の翁がうっとりと桶の湯を眺めた。 「さぁ、どうぞ。塞神様」  小さな塞神の体を持ち上げると、泡沫が湯に浸からせた。纏っていた服が湯に溶けて、肌が顕わになる。揺れる花弁を肘置きにして、塞神の翁が四体を伸ばした。 「何と気持ちの良い湯であろうなぁ。心も体も癒されるなぁ」  頬を上気させて、塞神の翁が寛いだ息を吐いた。 「こちらも、どうぞ」  泡沫が日本酒をスプーンに一匙、掬った。その酒を赤い花弁に流しいれた。  塞神の翁が、ぱっと顔を明るくした。 「殊更に風流じゃの。どれどれ……」  自分の顔よりも大きな花弁を両手に持って、傾ける。喉を鳴らして酒を飲み干した。 「ぷはー、良いのぅ。まるでこの世の極楽じゃて」  満足そうに笑む塞神の翁に、泡沫がもう一匙、酒を傾けた。 「どうぞ」 「ありがとうなぁ、泡沫」  酒を受けながら、塞神の翁がしみじみと言った。 「礼を、言うのは、俺のほうです。この場所に住まうのを許してくださった。貴方様がいたから、俺は……」  泡沫が顔を逸らした。息が、幾分か震えている。  塞神の翁が眉を下げて泡沫を見上げた。 「在り方が変わるだけ、居る場所が変わるだけじゃ。我等にとっては大きな変化ではないよ」 「それでも、俺は……傍にいてほしかった」  泡沫の声が小さく、心細く響いた。  塞神の翁が花弁を置いて、泡沫の指を握った。 「何百年経っても泣き虫で淋しがりの、困った泡沫坊じゃ」 「坊じゃ、ないです」  涙をのみ込んだ声が細く掠れる。 「たかが四百年程度、坊じゃよ。儂が何千年、辻を守ってきたと思う」 「何千年でも、何万年でも、別の辻でも、守ればいいんだ」  泡沫らしくない、子供じみた言い方だ。塞神の翁が困ったように笑んだ。 「やれやれ、我儘坊じゃ。儂らが消えるのは、人の死とは違うのじゃ。いい加減、休ませておくれ」  子供の頭をあやすように、塞神の翁が泡沫の指を優しく撫でる。 「どう……違うんですか?」  思わず問い掛けていた。 (しまった。邪魔しないようにと思っていたのに)  澪は自分の口を手で覆った。塞神の翁がニコリと笑んだ。 「我等は自然より生まれた神、役目が終われば元の自然に還る。姿が変わるだけじゃ」 「そんなのは、詭弁だ。自然に還れば、こうして話すこともできないのに」  泡沫の目から涙が一滴、零れた。桶の中の花弁に落ちる。花弁が湯の中に沈んだ。 「困ったのぅ、泡沫坊や。誰より死を望むお主が、誰より死を恐れるのだから」 「そんな、こと」  泡沫が涙を拭った。 「別れが悲しいのは未練があるからじゃ。悲しいうちは、生きるが良い。無理に閉じてはいけないよ。我等は、そういう存在じゃ」  塞神の翁の小さな手が、泡沫の指を包む。指の先にしか触れないほどに小さいのに、泡沫の総てを包んでいるみたいに大きく感じた。 (そうか、塞神様にはもう、未練がないんだ)  だから、こんなにも清々しく、笑って逝ける。ただ一つの心残りがあるとすれば、泡沫なのだろう。  塞神の翁が澪を振り返った。 「意地っ張りで淋しがりやな我儘坊を頼むぞ、澪」  塞神の翁が困った顔で笑った。この優しい神様に、こんな顔をさせてはいけないと思った。 「任せてください。そういう約束ですから」  澪は塞神の翁に向かい、頷いた。 「どういう約束だ」 「人に戻して、生かす約束……賭けだったか」 「不死の人魚の殺し方を見付ける賭けだ」 「そんなつもりねぇって、最初から言っているだろ」 「意固地め。いい加減、折れればいいのに」 「それはお前だろ。医者が殺しに加担なんか、できるかっての」  呆れた気持ちで泡沫を眺める。どうにも今日の泡沫は子供っぽい。 「ふふ、澪がいれば、泡沫は大丈夫そうじゃの」  微笑んだ塞神の翁が、花弁を持ち上げた。 「どれ、次をもらおうかの」 「やっぱり神様は酒が好きですね。どうぞ」  スプーンに酒を満たして花弁の杯に注ぐ。 「それはもう、目がないのぅ。良い風呂で美味い酒を味わう。格別な贅沢じゃ」  塞神の翁が嬉しそうに酒を煽る。 「儂は役目を全うし、還るのだから。華やかに楽しく、見送っておくれ」  花弁を持ち上げ、塞神の翁が酒を催促する。澪はスプーンで酒を流し入れた。 「それなら、俺らも飲むか」  診察室の中を見回す。コップになりそうなものを探していたら、泡沫が盆を取り出した。 「準備してある。日本酒、飲めるか?」 「あぁ、酒は何でもいけるぜ。百薬の長だからな」  泡沫が注いでくれる猪口を受け取る。今度は澪が泡沫に酒を注ぐ。猪口をカチンと合わせて乾杯した。 「塞神様も」  花弁の杯と猪口をぶつける。 「良いの、酒が更に美味くなるのぅ」  泡沫とも乾杯して、塞神の翁がまた酒を煽った。泡沫と澪も同じように酒を含んだ。 「美味い酒だなぁ、水みたいだ」 「大鳥神社の御神酒を分けてもらった」 「なるほどねぇ、神様の酒か」  名のある神の酒でも、塞神の翁を常世に留めて置けない。それを悲しいと思う澪は、やはりまだこの世に未練があるのだろう。 (未練なんか、あって当然だ。俺は達観するほど生きてない。泡沫だって、きっとそうだ)  何百年生きようと、未練が消えるにはきっと足りない。澪は猪口に酒を注ぎ足すと、一気に飲み干した。 「あまり飲み過ぎるな。塞神様のための酒だ」 「まだ二杯目だぜ。尽きるほど飲まないって」  泡沫が澪から徳利を取り上げた。 「ふふ、お主らは仲が良いのぅ」  花弁に凭れ掛かって、塞神の翁が微睡む。酒で上気した頬が朱に染まっている。 「塞神様、湯温はどうです? 熱くも温くもできますよ。花の薬種を足しますか?」  桶の湯を指でかき混ぜる。塞神の翁がウトウトと舟を漕いだ。 「んー……心地良いよ。良い湯じゃなぁ。可愛い子らと飲む酒も美味い。最高に良い思い出ができたものだなぁ」  塞神の翁の体が透ける。輪郭が空気に揺らめいて、湯気と一緒に浮かび上がった。 「塞神様……!」  手を伸ばそうとした泡沫を、澪は止めた。  塞神の翁の体が、ゆらゆらと揺らめく。やがて輪郭がなくなって、湯気と同じになった。ふわりと浮かび上がった湯気が、診察室の空気に溶けた。  その様を、澪と泡沫は黙って見詰めていた。 「……逝って、しまわれた」  ぽつりと零した泡沫の声だけが、診察室の空気を小さく揺らした。

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