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第16話

 塞神の翁を看取った後の泡沫はいつもと変わりなく過ごしていた。喧嘩したことも何となく流れて、いつも通りだ。  澪はといえば、抜けている宝暦年間の日記を探していた。澪が寝泊まりしている部屋は勿論、泡沫の部屋も実験室も診察室の 奥の書庫も探した。なのに、見付からない。 「ここまで見付からないってことは、間違いなく隠しているよな」  偶然、抜けていたワケではなさそうだ。 「紛失の可能性も……やっぱりないだろ。そういう性格じゃねぇよ、泡沫は」  部屋も診察室も地下の浴槽も常に綺麗に掃除されている。生活習慣がきっちりしているのは、一緒に暮らしていればわかる。 (あとは、捨てた可能性だけど。人生に未練塗れの奴が、過去の自分を捨てるとは思えない)  塞神の翁と話している泡沫を見ていて、思った。 「泡沫は、死にたがっている訳じゃない。迷子になっているだけだ」  どう生きるべきかわからなくて、終わらせたがっている。澪にはそんな風に見えた。 (だったら絶対、死は答えじゃない)  少なくとも今の泡沫にとっての正解ではない。だからといって、澪に泡沫の迷いを払えるかなんて、わからない。 (でも、知りたい。宝暦の泡沫に何があったのか)  宝暦、明楽、源之助。バラバラのピースでしかない情報が知れれば、答えが出せる気がした。 「澪、夕飯ができた」  部屋の扉をノックして、泡沫が顔を出した。最近は返事をする前に泡沫が扉を開ける。 (今更、隠すこともねぇから、いいけどな)  何のかんのと、三日に一回くらいはセックスしている。恥ずかしい姿なんか、互いに見せ合っている。性欲も羞恥も同時に喰われている気分だ。 「ありがと。どこで食う?」 「澪の部屋でいいか」 「おー」  読んでいた文献を閉じて、テーブルを片付ける。 「その文献、読むの何度目だ?」  テーブルに皿を並べながら、泡沫が横目に問う。 「三回……五回目? もう忘れちゃったな」 「何回読んでも、同じだろう」  差し出された茶碗を受け取る。 「んー、同じだけど、そうでもないかな」  もしかしたら、読めていない日記がどこかに紛れているかもしれない。という一縷の希望もある。だがそれ以上に、泡沫に対する澪のイメージが変わったからだ。 「見方が変わると、内容も変わって感じたりするだろ」  泡沫の肩がピクリと跳ねて見えた。 「……そうか」  差し出された味噌汁を受け取る。 「いただきます」  手を併せて、泡沫が食事を始めた。その顔を、澪は味噌汁を啜りながら眺めた。  何でもないように食事をする泡沫は、無口だ。普段から多弁ではないが、いつもなら食事をしながら、どうでもいい話をしてくるのに。 (この感じ、絶対日記を隠してる。しかも、俺に読ませる気もねぇな)  自分から殺し方を探せと言っておきながら核心を伏せる。如何にも泡沫らしい。 (しかも、多分、意地悪とかじゃねぇんだよな。怖いから、だよな)  塞神の翁の言葉を思い出す。 『誰より死を望むお主が、誰より死を恐れている』  あの言葉が、泡沫の本心なんだろうと、澪は思っていた。 「……明日」  泡沫が小さく、口を開いた。 「出入りの業者が来る。欲しいものがあれば、発注できるから、書き出しておいてくれ」 「出入りの業者? そんなのがいるのか?」 「ここは診療所だからな。必要な物品を揃える業者くらい、いる」 「いやまぁ、そうだろうけど」  澪の感覚だと、泡沫の病院は潜りだから、その辺もグレーなのかと思っていた。 (けどまぁ、患者層は割とクリーン寄りか)  時々、人喰いの妖怪を見掛けるが、診療所で暴れるわけではない。一角獣や塞神の翁など、無害な患者も多い。 (しかも、結構丁寧な診察してんだよな、コイツ)  見立ても腕も、悪くない。十三課で通用するくらいの知識もある。 「わかった。考えておくよ」  澪は、ちらりと泡沫を覗いた。 「あのさ」  泡沫が、ビクリと肩を揺らした。 「……なんだ」  いつも通りに聴こえる声とは裏腹に、目が怯えている。 「こんなところで一人で医者やってるより、十三課に来れば? 楽に仕事、できるんじゃないか?」  泡沫の目から脅えが消えた。ムッスリと不機嫌な表情になった。 (あ、いつもの顔だ)  その表情に安堵する自分も大概だと、澪は思った。 「断る。俺が特殊係に下ったら、医者より被験体にされるだろ。今の世でも人魚の半妖は珍しい」 「そりゃまぁ、珍しいけど。被験体は、ねぇと思うけどなぁ」  十三課には、世間では珍しい類の存在がうじゃうじゃいるし、職員として働いている。 (解剖したがる人はいなくはないと思うけど。それは言わないでおこう)  何せ変わり者が多いから、泡沫の懸念を完全否定できない。 「泡沫が思っているより、ずっと安全な場所だとは、思う」  少なくとも治療室勤務なら、命の危険はない。 「須能忍が苦労してきたのは、知っている。昔の特殊係に比べれば、今はずっとマシなんだろうな」 「うちの班長、知ってんの?」  それはかなり意外だ。 「特殊係は有名だからな。何度か会ったこともあるよ。だからあの男は、澪を俺の元に寄越したのだろう」  何となく、今まで痞えていたものが落ちた気がした。 (俺の勘が間違っていなければ、か。かなり核心を突いた勘だったわけだ)  忍からの潜入捜査命令は、泡沫を救え、で間違いないらしい。 (十三課にお人好しが多いのは、班長がお人好しだからなんだろうな)  特殊係に所属しない、或いはできない者たちも見捨てない。内にも外にも人望が厚い人だ。 「ま、無理にとは言わねぇけど。泡沫はこういう場所で、一人で医者やってるほうが似合うかもな」  組織の中で窮屈に仕事する姿は、想像ができない。 「一人が、似合うか」  泡沫が掠れる声で呟いた。 「あ、そうだ。処置室と書庫の間に使ってねぇ部屋、あるだろ。あそこに浴槽、置いていいか。体がデカい患者用にさ」  この家は空きスペースが多い。泡沫が一人で使っているから当然なのだろうが、遊ばせておくのは、勿体ない。 「構わないが、スパでも作るつもりか」 「湯治ってやつな。俺の薬湯なら、ある程度の怪我や病気は治せるから。本当は地下の浴槽くらいデカいと良いんだけど」  地下の浴槽は泡沫がツインテール姿で泳げるくらい広い。あの規模なら、一度にかなりの数の患者を入れられる。 「だったら、開放するか。俺も時々しか使っていないから」 「それはダメだ。あの浴槽で泳いでいる泡沫を見るの、俺が好きだから。あそこは泡沫の場所にしとこうぜ」  ツインテ―ルが水を纏って鱗に光が反射する姿は、とても綺麗だ。他の誰かが入って、あの場所を穢してほしくない。 「……は?」  泡沫が、箸で摘まんだヒレカツをポロリと落とした。 「しばらくは、処置室の隣を温泉室にしようぜ。明日、あの部屋のサイズの浴槽を発注しよう。小さい患者用の桶も、もう少し種類が欲しいなぁ」  一角獣や塞神の翁のようなサイズ感の患者も少なくない。今の桶は間に合わせで使っているから、専用の桶が欲しい所だ。 「……お前は、いつまでいるつもりなんだ」 「ん? 何?」  声が小さくて聞きそびれた。澪は、身を乗り出した。澪の額を、泡沫の手が押し返した。 「桶ばかり増やせるか。大型とそれ以外で、絞っておけ」  押し返した指で、デコピンされた。 「わかってるよ。数があればいいわけじぇねぇからな。予算もあるだろうし」  額を摩りながら、澪は唇を尖らせた。 「予算は、気にしなくていい。患者には大層人気だ。最近は、澪の薬湯目当てに来る患者も増えた」  妖怪や神様の間でも、口コミは広がるのが早いらしい。 (患者から金を取っている風に見えねぇけど。自分の鱗を売って、金を作っているのかな)  人魚の鱗は万能薬以外にも、美術品としての収集家がいる。オークションの開始値が一億という珍品だ。それも泡沫にとってはゴミらしい。生きている限り際限なく生え変わるのだろうから、そうかもしれないが。 (あんまり、いい気分はしねぇな)  泡沫の体が売られていると思うと、変なモヤモヤが胸に広がる。 「俺も、澪の薬湯に入ってみたい」  泡沫が珍しくリクエストしてきた。 「いいぜ。地下の浴槽に、作ってやろうか」 「あぁ、頼む」  泡沫が、微笑んだ。  澪の胸が、ドキリと震えた。見たことがないくらい、柔らかい笑みだった。 (ドキって、なんだ。何に、ドキドキしてるんだ、俺は)  その顔を可愛いと思う自分に、戸惑った。見惚れそうになった視線を外す。どこを見ていいかわからなくて、目が泳いだ。 「ヒレカツって、やっぱり醤油だよな」  仕方なく、澪は醤油差しを手に取った。 「食の好みは合うな。俺も揚げ物はソースより醤油が美味いと思う」 「ん、そうだね」  味までよくわからなくなりそうで、澪は懸命にヒレカツをもぐもぐ噛んだ。 (日記の話は、やっぱりできなかったな)  頭の片隅に、本当に聞きたかった疑問がこびり付いていた。

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