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第18話

 処置室の隣は、広い空き部屋だ。倉庫代わりに使っていたが、綺麗に片付いていた。 (泡沫が片付けてくれたのか。相変わらず律儀というか、几帳面というか)  昨日今日で、いつの間にと思う。 「やはり、物がなくなると広いですね。かなり大きな浴槽が入りますよ。熊くらいの大きさの患者なら、余裕で治療できます」  絃司の目がキラキラしている。 (明楽くんにとっては商機だろうから、そりゃ心躍るか)  決して安い買い物ではない。初動を請け負えば、メンテナンスや買い替えなどでも参入できる。ここは押さえておきたいところだろう。 「奥に備え付けも考えたんだけど、やっぱり既製品を真ん中に置くほうがいいかなと思ってね」  部屋の真ん中に立って、手を開く。 「これくらいかなぁ。両脇を俺が歩けるくらい隙があれば、いいかな」 「湯沸し器などは必要ですか?」  絃司がパッドを取り出して、メモを取る。 「いや、水も湯も、湯温管理も指一本でできちゃうから、浴槽だけあればいいよ」  澪は人差し指を立てた。その先から、温水をちゅっと吹き出した。 「さすが、八瀬童子ですね。勉強不足で申し訳ありません」  絃司がぺこりと頭を下げる。 「いやいや、八瀬童子の生態って、一般には不明瞭でしょう。名前を知っているだけで、及第だよ」  八瀬童子は数が少なく、十三課が独占状態で囲っている。特殊性と希少性から、その生態を公には伏せている。駆逐されないよう守るための処置でもあった。 「これからは湯守先生に付いて、しっかりと勉強させていただきます」  絃司の肩がワクワクしている。顔はやる気満々だ。 (手出しできない八瀬童子に関わる機会だもんな。嬉しいよな)  こういう空気が、澪はあまり好きではない。 「では早速、採寸いたしますね」  メジャーを取り出して、絃司が部屋の中の測定を始めた。 「なにか、手伝おうか?」  澪でもメジャーの先を持って立っている程度はできる。絃司がニコリと笑んだ。 「お気持ちだけいただきます。こう見えて私も、怪異に関わる医療者ですので」  握ったメジャーの先が、ひとりでに飛び出した。伸びた先で、ピタリと止まった。 「おお。綺麗に止まった」  澪は感心して声を上げた。 「明楽は江戸時代、御庭番として怪異に関わる事柄の一切を引き受けるお家柄でした」  絃司が何気なく説明する。  澪の心臓が、ドクリと下がった。 「明治以降は資産家、投資家を経て、怪異医療に関わっていますが。その実、御庭番のような仕事は今でも続けているのですよ」  絃司の手が器用にメジャーを操る。採寸をする足が、澪に歩み寄った。 「御庭番のような、仕事って」  公儀に仕えるというのなら、今の世なら国だ。十三課と関わりがあってもよさそうなものだが、聞いたことがない。 「国に奉仕する立場にはありませんが、決して仇なす存在ではありません。十三課諜報部の花笑家とは、懇意ですから」 「あぁ、なるほど。草系ね」  どうやら明楽家は御庭番をやめた後、忍びに転向したらしい。背後の取り方が、やけに巧い。気が付いたら後ろに回った絃司の手が、澪の腹に小刀を突き付けていた。 「下手に動かないでくださいね。湯守先生が怪我をしたら、泡沫先生が悲しみますので」 「そう思うなら、その物騒な刃物、下げようよ」  絃司が変わらぬ爽やかな笑みで、澪の腹に小刀を押し当てた。 「まさかとは思いますが、泡沫先生を傷付けるために潜り込んだのではないですよね。そこが確認できれば、すぐにでも物騒な刃物を下げてお詫び申し上げます」  絃司の声が耳元で物騒な言葉を吐き捨てる。丁寧な言葉遣いが余計に怖い。 「そういうつもりはないよ」 「ではなぜ急に、十三課が泡沫先生に関与し出したのですか? 希少な人魚を取り込むおつもりで?」  澪は腹に付きつけられた小刀を見下ろした。 (明楽家は泡沫の後ろ盾、なんだよな)  明楽の家が関わるようになってから、泡沫の生活は劇的に変わった。身売りしていた生活から、医者として独り立ちして、安定していった。  今の世でも繋がりがあるのだろう。明治以降の日記に度々、名前が書いてあった。 (泡沫が呼び捨てしてた。親しげだったもんな)  胸の奥が、ほんの少しだけモヤモヤする。 「明楽の人間は、泡沫の味方なんだよな」  そうであれば、澪が警戒する必要はない。 「ずっと泡沫を守ってきたんだよな」 「江戸時代からずっと、明楽家は泡沫先生を守ってきました。そのお役目を私が引き継ぎました」 「副社長?」  澪の問い掛けに、絃司は応えなかった。 「泡沫先生を傷付けようというなら、私が許さない。この場で刈り取ります」  じりじりと小刀が腹に食い込む。少し力を入れたら服の下の皮膚が破けそうだ。 (役目っていうか。私心のほうが強そうに感じるけどな)  澪は小刀を握る絃司の手に、手を掛けた。 「傷付ける気はねぇよ。少なくとも泡沫より俺のほうが泡沫を大事にできる自信があるね」 「大層な自信だ。今すぐ、刻んで差し上げたいですね」  絃司の刃の傾け具合が洒落にならなくなってきた。澪は必死に小刀を食い止めた。 「俺は泡沫を生かすために、ここにいるんだよ。たとえアイツが生きることを望まなくてもな」  掌から熱湯を噴射する。 「くっ」  絃司が小刀を離した隙に腹に肘を入れる。分厚い筋肉に肘が飲み込まれた。 「えっ」  引き抜くこともできなくて、動けない。絃司の手が澪の腕を握った。 「不意打ちの熱湯の直後に走っていれば逃げられたのに。判断ミスですね」 「お前に攻撃される理由がねぇけど。十三課は泡沫を捕縛するつもりなんかねぇよ」 「では何故、貴方がここにいるのですか? 今まで誰も、泡沫先生に見向きもしなかったのに」 「俺が聞きたいのも、そこなんだけど。誰も見向きもしない半妖の人魚を守り続けるのは、何故だ。見付けたのは、明楽家の先祖か?」  後ろから羽交い絞めにしたまま、絃司が澪を見下ろした。 「貴方は何も知らないんですね」 「知らねぇよ。だから、知りてぇんだろ」  絃司の乾いた目が、澪を見詰める。 「泡沫先生は、貴方に何も語らないのか」  呟いた声は、さっきまでとは含む色が違った。絃司が悔しそうに唇を噛んだ。 「私からは、教えませんよ。貴方なんかに泡沫先生は渡さない」  絃司が澪の体を放り出した。体勢を崩して、澪はその場に膝をついた。 「いってぇ」 「体術も使えなそうですし、今は許してあげますよ。精々、餌になってください。害になると判じた瞬間に、刈り取ります」  落とした小刀を拾い上げ、絃司が腰に仕舞った。代わりにメジャーを取り出す。 「それじゃ、浴槽の採寸の続き、しましょうか。湯守先生」  真面目な青年の爽やかな笑顔だ。澪はげんなりした。 「なんで同じように仲良くできると思うんだよ。どういう神経なの?」 「仲良くできますよ。泡沫先生に心配かけたくないでしょう」  当然のように絃司が言い切る。呆れを通り越して感心した。 「はいはい。採寸しましょうかね」  半ばやけになって、澪は立ち上がった。

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