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第19話
絃司が帰ってから、澪は診察台にうつ伏せに転がっていた。
「どうした? 採寸、そんなに疲れたのか?」
泡沫が珍しく労うような声をかけてきた。
「疲れたっていうか……うん」
一瞬、本気で殺されるかと思いました、とは言えない。
絃司はと言えば、泡沫の前では爽やか営業スマイルで終止上機嫌な様子で帰って行った。
(とんでもねぇ猫被りだ。十三課にだってあんな食わせ者、そういねぇぞ)
あの若さで感心する。
(けど、アイツ……本気で泡沫のこと、好きなんじゃねぇのかな)
泡沫を心から愛している者がいるのなら、それだけで泡沫は救われるのではないだろうか。死にたいなんて、終わろうなんて考えなくなるのではないか。
そう思ったら、チクリと胸が痛んだ。
(チクって、何だ。良いことじゃねぇか)
自分が何に反応しているのか、いまいちわからない。
(……絃司は、泡沫が人魚じゃなくなっても、変わらず好きでいるかな)
人魚だから好きなのか。泡沫が何者でも愛しているのか。聞いてみたいが、聞くのが悔しい。
「泡沫、あのさ」
突っ伏したまま、澪は泡沫に声を掛けた。
「なんだ」
「……好きな人、いる?」
診察室の机に向かっていた泡沫が、振り返った。
「調子が悪いなら、二階に上がって休め。悩みがあるなら、聞いてやるぞ」
割と本気で心配そうな声だ。澪は思わず顔を上げた。
「何で本気で心配モードなんだよ。俺はどこも悪くねぇし、悩んでもいねぇよ。いや、悩んではいるかもしれねぇけど」
主に泡沫のことで悩んでいます、とは、やっぱり言えない。
「突然、思春期のような問いかけをしてくるから。悪いものでも食わせたかと心配になった」
泡沫が顔色も変えずに話す。本気なのか冗談なのか、わからない。
「ここに来てからお前の作る飯しか食ってねぇけど。普通に美味いよ。むしろ健康だよ」
「そうか、良かったな」
泡沫がまた机に向き直った。背中をぼんやり眺める。
「日記、書いているのか?」
澪の問い掛けに、泡沫は応えなかった。
「患者も来そうにないし、上がってもいいぞ」
泡沫がこういうことを言い出すのは、気まずい時だ。澪の問い掛けは正解らしい。
「今でも自分の観察日記、続けているんだな」
やっぱり泡沫は、返事をしない。けれど、手元は動き続けている。
澪は、のっそりと起き上がった。診察台に座る。
「日記がさ、足りなかったんだよ」
さらさらとペンが滑る音が、止まった。
「宝暦から明和にかけての、恐らく数冊、足りない。だから、読めてねぇんだ。お前にとって大事な記述があったんじゃねぇの?」
沈黙が、診察室に流れた。窓の外で名前も知らない鳥が鳴く声が響いた。
「さぁ、覚えていないな」
机に向いたたまま、泡沫が顔を上げた。窓の外を眺める表情は、澪の位置からは見えない。
「ないってことは、失くしたか、捨てたんだろ」
「他の日記は全部、揃っているのに?」
泡沫がまた口を噤んだ。書いた日記を時系列に並べて保管している男が、一部を失くしたり捨てたりするだろうか。
(あの日記はまるで、泡沫の心だ。自分の心を捨てたりできるのか。お前は、そういう男じゃないだろ)
出会ってから、たったの二週間だ。泡沫がどんな男かなんて、澪は知らない。それでも、知らないからわかる泡沫も、澪の中にはいる。
(抱いているからわかるお前も、俺の中にいるんだよ)
三日とあけずに肌を重ねるからこそ聞こえる悲鳴がある。
澪は立ち上がり、泡沫の肩に手を掛けた。泡沫の肩が、小さく震えた。
「今夜、抱いていいか」
わざと吐息がかかるように耳元で囁いた。
「まだ、必要ない。明日以降でいい」
「俺が、抱きたいんだ」
泡沫の耳朶を食んで、舐め上げる。
「そういう、つもりでするのは……いらない」
泡沫の声が上擦った。
「お前ばっかり喰うのは、狡いだろ。たまには俺を気持ち良くするために、抱かれてよ」
自分は何を言っているのだろう。泡沫とのセックスに快楽を求めたことなんかないのに。
耳を舐めても肩を抱いても逃げない泡沫が、もどかしい。
「嫌なら、撥ね退けろ」
澪の視線が自然と泡沫の手元に向いた。泡沫が、書いていた日記を閉じた。
「わかった。今宵はお前のために抱かれてやる。だから……もう、やめろ」
涙ぐんだ震えた声が、泡沫の口から零れた。その声に、やけに胸が満たされた。
(変だな、俺。感じている泡沫なんて、もう何度も見ているのに)
腕の中で澪の愛撫に体を震わせる泡沫が、欲しくて堪らない。
(人魚の媚薬は、感じないのにな)
涙目の横顔を眺める。泡沫の手が机の引き出しをやけに押し付けているのが印象的だった。手元を流し見ながら、泣きそうな泡沫の唇を吸い上げた。
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