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第23話
午後になっても泡沫は帰って来なかった。代わりに、招かれざる客が来た。
「怪異医療器材アケラです……って、泡沫先生は御不在ですか?」
「朝から外に行ってるよ。まだ帰ってねぇよ」
診察室の椅子に掛ける澪を、絃司が冷めた目で眺めた。
「朝から? 外に行く時には声をかけて欲しいと、あれほど言っているのに。どうして一人で」
絃司がブチブチと独り言ちる。スマホを取り出すと、しきりにタップし始めた。
「どこに行ったか、聞いていますか?」
「いいや、聞いてないね」
絃司に、じっとりと睨まれた。
「貴方が聞いておいてくれれば、追いかけられたのに」
「そこまでしなくていいだろ、ガキじゃないんだから」
行き先をしつこく聞かれたり、追い回されるのを泡沫は嫌いそうだ。
「そういう問題じゃないんですよ。出先で狩られたらどうするんですか」
青筋を立てる勢いで、絃司が電話をし始めた。
「そう簡単に狩られる男でもねぇだろ」
銃に臆さない男を心配する気になれない。初めて会った時は、澪のほうが狩られた。
(追い詰めたつもりが追い詰められて、捕まった訳だしな)
よく考えれば、今だって軟禁状態だ。
シュン、と空気を裂く音がした。顔のすぐ脇を、ナイフのような刃が通り過ぎていった。
「そうではないと言っているでしょう。泡沫先生の希少性を理解できない馬鹿医者なんですか」
絃司の目が座っている。これ以上はマズいと思った。
「はいはい、すみませんでした。けど俺には、どうすることもできません。アイツの番号、知らねぇし」
ずっと一緒にいるから、聞こうとすら思わなかった。
「使えない雑魚には期待していません。本当に十三課の職員なんですか」
吐き捨てて、絃司がメールを打ち始めた。電話には出ないらしい。
「お前、泡沫の前で猫被りすぎだぞ。めちゃくちゃ失礼な奴じゃん」
「貴方相手に丁寧な態度を取る必要がないので。この場に泡沫先生はいませんから」
すっぱりと言い切られた。いっそ清々しい。
絃司の視線が澪に流れた。
「本当に、こんな男の何処が良いんでしょう。泡沫先生は貴方の何に期待しているんでしょうね」
「八瀬童子で怪異医師っていう、肩書じゃねぇの」
絃司が、わざとらしいくらい盛大に息を吐いた。
「明楽の人間でさえなければ、私が餌になるのに」
心底悔しそうに、絃司がじっとりと澪を睨んだ。
「別に、餌になってやればいいんじゃねぇの。なんで明楽の人間はダメなの」
絃司が、開きかけた口を閉じた。
「……泡沫先生がしない話を、私からはできません」
悔しそうに歯噛みする絃司を、遠巻きに眺めた。
「まぁ、そうなんでしょうね」
理由はわからないが、絃司の忠誠心は恋心だけではないようだ。というのは、話の端々で感じる。
「知らないのも罪であると、私は思いますけどね」
そんな言い方をされても困る。現状、澪には知りたくても知る術がない。
「そう思うなら、ちょっとくらい教えてよ。俺も知りたいと思ってんだ。泡沫の観察日記、宝暦年間だけ抜けてんだよ」
絃司の顔色が変わった。悔しさが抜け落ちて、表情が消えた。
「まさかとは思いますが、それ以外は読んだんですか?」
「江戸初期から令和まで、全部読んだよ。部屋にあるんだから、読めるだろ」
絃司の顔が見る間に驚きに染まる。考え込むように俯いた。
「あの泡沫先生が、日記を読ませたのか」
呟いた絃司が顔を上げた。
「思えば、家に泊め置いている餌は、私が知る限り初めてですね」
絃司がずかずかと診察室の奥に歩を進めた。澪の前に立つと、診察台に腰掛けた。
「日記を読んだのなら、明楽の名はたくさん出てきたでしょう」
「出てきたねぇ。江戸中期以降は、明楽家が泡沫を守っているみたいだった」
まるで守るのが当然であるかのように、護衛も生活の上での援助も惜しまない。それは令和の今にも続いている。
「守っているんですよ。明楽の人間には、泡沫先生を守る義務がある」
「義務?」
絃司が一度だけ、唇を噛んだ。
「だけど、餌にはなれない。明楽の血筋は、人魚因子を持っているからです」
ドクリと、心臓が跳ねた。あまりに急なカミングアウトに、思考が止まった。
「え……? じゃぁ、明楽の人間も、半妖、なのか?」
絃司が首を振った。
「因子を持っているだけでは、体は人魚になりません」
「劣性ってことか」
医療的な簡単な仕分けだ。人魚因子が能動であれば優性になり、泡沫のように人魚化する。
「泡沫先生と深く交われば、因子が優性に傾く可能性が高くなる」
「いや、でも。可能性は限りなく低いだろ」
劣性の人魚因子が優性に変質するのは、遺伝子配列が変わるレベルの変化だ。
「刺激を受けて変化する可能性は、ゼロではありません。怪異とは、そういう現象でしょう」
「それは……」
否定はできないと思った。泡沫が人魚の肉を食って半妖になった現象がまさに、遺伝子レベルの変化だ。
「何度も深く交われば、人魚因子は体液を介して入り込む。特に血液や涙といった、薬効を含む人魚の体液を含めば、因子を得る可能性も上がります」
澪は息を飲んだ。血を舐めた時の泡沫の取り乱しようを思い出していた。
『俺には、どうにもしてやれない』
あの時の泡沫の言葉の意味を、ようやく理解した。
「そんなの、文献には書かれていなかった」
この家にある人魚に関わる文献は、何度も読んでいる。澪自身、怪異医師としての知識だってある。
「劣性では症状がない。見逃されやすい状態です。それこそ、経験しなければ知りえません」
「経験……明楽の人間に、経験した奴が、いるんだな」
絃司が目を逸らした。
「恐らく、泡沫先生はその話を貴方に知られたくないのでしょうね。だから日記を隠したのでしょう。とても、悔しいです」
「悔しいって、なんで」
絃司が目を細めた。さっきのような、あからさまな敵意ではない。だが、好意的では決してない。
「そういうところが、腹立たしいですよ」
思いっきり舌打ちされた。益々、訳が分からない。
絃司が立ち上がった。
「教えられる情報は、伝えました。あとは自分で努力してください。これ以上は、泡沫先生を裏切る行為になります」
診察室の扉に向かう絃司を、澪は追いかけた。
「ありがとう、助かった。けど、なんで教える気になったんだ?」
どう考えても絃司は、澪に良い感情を抱いていない。協力的になった理由が、よくわからない。
扉の前で、絃司が立ち止まった。
「少しだけ、期待する気になりました。泡沫先生の人魚の呪いが、解けるかも知れないと」
呪いという言葉が引っ掛かった。かなり聞き覚えがある。
「塞神様も話していた。呪いって、何なんだ。人魚因子とは違うのか?」
絃司が、顔だけ澪を振り返った。
「呪いは……もっと因縁めいた話ですよ。貴方は医者だから忘れているかもしれませんが。私たちは、そもそもそういう世界の住人でしょう。怪異は日常で、当然に存在する隣人です」
澪は口を引き結んだ。確かに絃司の言う通りだ。
(俺は、もしかしたら、捉え方から間違っているのかもしれない)
人魚の呪いは泡沫の体より心を縛る鎖なのかもしれないと思った。
「処置室の隣の部屋に、桶を運んでおきました。特大の桶は来週にはお届けします」
絃司が診察室の扉を開けた。
「これだけ話してあげたのだから、泡沫先生の希望、叶えてくださいね。ただし、傷付けたら私が貴方を殺します」
物騒な宣言をして、絃司が帰って行った。
「呪い、か」
絃司が出て行った扉の前から、澪はしばらく動けなかった。
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