26 / 31

第26話

 完全に意識を失った泡沫を浴槽から引き上げる。尾ひれが人の足に変わった。  服を着せて部屋のベッドに寝かせる。穏やかな顔で寝息を立てる泡沫に一先ず、安堵した。  ベッドサイドに座って、泡沫の寝顔をぼんやりと眺めた。 「お前は、どういうつもりで俺を求めてんだよ」  鼻を摘まんだら、泡沫が嫌そうに顔を顰めた。それでも寝こけるのだから、人魚化は相当に疲れるのだろう。 (姿形は同じだった。だけど、あの目は明らかに、妖怪だった)  あんな風に人から離れて、理性を失って、人魚という妖怪に変化していくのだろうか。  得も言われぬ怖気が背筋を走った。 「……日記を、探すか」  今なら診察室の引き出しを開けられる。澪は立ち上がると、一階の診察室に向かった。    診察室は静かだった。窓から夕暮れの茜が差し込んでいる。  机の上に準備された練りきりに添えられた煎茶が、すっかり冷めていた。 「あとで二階に持って上がるか」  澪は机の引き出しに手を掛けた。ごくりと息を飲んで、引き出しを開く。  引っ張った引き出しは、思ったより軽かった。 「何も、ない?」  半分ほど開けた引き出しの中には、何も入っていなかった。安心したような、残念なような心持になる。 「まぁ、そうだよな。わかり易すぎるか」  そうは言いつつも、念のため引き出しを開き切った。奥のほうで、カタリと音がした。空の引き出しに手を突っ込んで、奥を探る。冷たい感触が指先に触れた。  手繰り寄せて、取り出す。掌に収まる程度の真鍮の鍵だった。 「これ……普通の鍵じゃねぇな」  微かに術の気配がする。澪は鍵を摘まむと、指先から水を滴らせた。鍵全体を水で包んで、気配を慎重に感じ取る。 (この気配は……地下の浴槽か)  浴槽の底に、独特の気配が濃くこびり付いているのを感じていた。てっきり泡沫の妖力だと思っていた。 「これじゃ、俺にとっては見付けてくれって言ってるのと同じだぜ、泡沫」  水を介して感じ取る気配は、澪にとっては五感で触れているのと同じだ。 「あれは封印術の気配だったのか」  弾いた鍵を空中で掴む。鍵を握り締めて、澪は地下の浴槽に向かった。  地下の浴槽には、湯を張ったままだった。 「抜かなくて、良かったな」  すっかり冷めた湯に、指を浸す。霊気を流し込むと、隅々まで巡らせた。反対の手に握った鍵に水を流して纏わせながら、感触を確かめる。 (この鍵と同じ気配を纏った場所……うまく感じ取れないな)  鍵や対になる鍵穴は、隠すための道具だ。そういった物には隠した者の心理が移り込みやすい。水は人の心情を暴き易い媒体なのだが。 「温泉を準備している時も、違和感はなかったもんな。だったら」  澪は指先から朱色の霊気を滴らせた。 「異端の術を暴け」  水面が、小さく跳ねた。跳ねた雫が渦を巻き、徐々に大きさを増す。浴槽の底から、球状の水が浮き上がった。澪の手の中で、水球が弾けた。 「おっと」  手の中に落ちてきたのは、鍵と同じ真鍮製の箱だった。  浴槽の水面が元に戻り、穏やかに揺れた。 「ちょっと強引だったか。でも、ビンゴだ」  箱に備わっている鍵穴と鍵を見比べる。ぴったりと合いそうだ。 「ここまで厳重に隠すのは、どういう心境だろうな」  泡沫にとってこの浴槽は、命を繋ぐための場所でもあるだろう。そんな大事な場所に、鍵と結界、二重の護りを施すのは、どういう意図か気になった。 「隠した自分すら、その気配を感じないくらいに結界を施して、すぐには開かないように別の場所に鍵を保管――忘れたいのかな」  どうしてか、澪の胸が軋んだ。 「馬鹿だな。こんな風に特別扱いしたら、かえって忘れられないだろ」  この箱の中には恐らく、かつて泡沫が特別扱いした男の記述が眠っている。少しだけ、気分が悪い。  澪は真鍮の鍵を箱の鍵穴に差し込んだ。ここまで隠したい泡沫の秘密を暴くのは、気が引ける。だがそれも、気分の悪さで掻き消えていた。  ――ガチャリ  作り物のような音がして、箱が開いた。中には、部屋にあるのと同じ装丁の本が入っていた。泡沫の生態観察日記だ。  箱の中から日記を取り出す。一冊しか入っていなかった。表紙に書かれた年号を凝視する。 「宝暦六年から、明和元年まで。八年分が、一冊か」  澪は日記に手を伸ばした。  ゆらり、と空気が揺れた。日記が纏う気が徐々に濃くなって、光を帯び始めた。 「なんだ、これ」  慌てて日記を離そうとした。澪の手を、何かが掴んだ。 『やっと、開いた』  男の声が耳に流れ込む。心臓が下がって、息が詰まった。 (なんだ、これ。誰かの……感情?)  待ち望む心が、流れ込んでくる。  息が浅くて、眩暈がする。目の前が点滅しながら暗くなっていく。誰かが、澪の手を引いた。意識だけが、どこかに連れて行かれる。 『さぁ、行こう』  声が出ない。掴まれた手を振り払うこともできない。澪は誘われるまま、意識を日記の中に落とした。

ともだちにシェアしよう!