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第27話

 パラパラと本のページが捲れる音がする。 『この日記を読む人を、ずっと待っていた。泡沫ではない、誰か』  声が聞こえる。男の声だ。 (俺は今、どこで、どうなって)  自分の体が立っているのか寝ているのかもわからない。ただ、意識だけがフワフワと浮遊している。 『それが貴方で、良かったと思うよ。この日記から泡沫の心に触れて』  日記の記述が、頭の中に直に流れ込んできた。 『宝暦六年、初夏。  怪異にとり憑かれる奇病に侵された男が診療所を訪ねてきた。腕に巻き付いているのは邪魅、意思を持たない陰気の塊だ。 人魚の鱗を粉にした飲み薬で、簡単に直せた。男は大層喜んだ。礼をしたいが金がない。代わりに診療所の仕事を手伝うという。 「俺はこう見えて、怪異を斬り伏す刀を扱う。用心棒でも助手でも、好きに使ってくれ」  そう言って快活に笑う。 「ならば、奇病も自分で斬れば良かっただろう」 「己の体は刻めぬよ。だから、助かった。この恩は忘れぬ」  当然のように、当たり前の答えを返された。 「俺の名は明楽源之助、御庭番を務める旗本の三男坊だ。こう見えて器用な質だ。きっと役に立つぞ」  面白そうだから、置いてみることにした。発作を止める餌くらいにはなるだろう』 「明楽、源之助」  澪は息を飲んだ。塞神の翁や絃司の言葉が蘇る。 (やっぱり源之助が、泡沫の特別な男、ターニングポイントか)  日記のページが捲れる。澪は続きに意識を走らせた。 『あれから三日。  源之助が本当に住み着いた。俺が人魚の半妖だと話しても、源之助は驚かなかった。明楽家は御庭番の中でも怪異に関わるお務めを一手に請け負う家系なのだそうだ。 「二人の兄は優秀でなぁ。長兄は怨霊を退治しそびれて、命を落とした。次男の善次郎兄上が敵を討った。本家は善次郎兄上が継いでいる。俺に分家を立てて盛り上げよというが、才がないからな。いっそ武家など捨てて、町人として生きたいものだ」  悲壮感もなく、源之助が豪快に笑った。 「才なら、あるだろ」  溢れる霊力も、剣技も、怪異を見抜く目も、人並み以上だ。  源之助が来てから、半妖の血に誘われてくる人喰い妖怪が減った。襲ってきても、源之助が撃退してくれる。存在するだけで魔を退ける。太陽のような男だと思った』  源之助は、明るく朗らかで、懐が大きい男のようだ。  日記を読んでいるというより、泡沫の思い出を見せられているようだ。それが何だか気分が悪い。 『以前より体の関係がある男が訪ねてきた。  俺にとっては人魚になり切らないための餌だ。俺が無理矢理に侵されていると勘違いした源之助が、追い払った。 「大事ないか、泡沫」  大層慌てた様子で、源之助は俺の体を案じた。  男の精液を喰わねば体が完全な人魚になる。人魚になれば終始水に浸かり、人の血肉を欲する低能な妖怪に成り下がると話した。  顔色を変えた源之助が、真面目な面持ちで切り出した。 「ならば、俺の精を喰らえ。泡沫が望むなら、毎日でも抱いてやる」  それからは、源之助だけを喰らった。今までに喰った例がないほど、甘美で痺れるような精だった』 『源之助が来てから、毎日が楽しい。見える空の色までが輝いている。あの男は不思議だ。 共に飯を食い、眠り、隣にいるだけなのに。心が、解ける』 『源之助が住み付いてから、一月が過ぎた。診療所ではすっかり馴染みの顔になった。患者も源之助を頼りにしている。 俺も心強い。源之助が隣にいるのが当然になった。 「もう、他の男を喰うなよ。泡沫は俺の精だけを喰っていろ」  睦み合いの最中、源之助が約束のように、そう囁く。源之助だけいればいい。他の男はもういらない』  息が止まるかと思った。  源之助が、澪と全く同じ台詞を吐いていた。 (だから泡沫はあの時、泣きそうな顔で俺を拒否したのか)  源之助を思い出したからなのか。思い出の中の台詞を穢されたようで嫌だったのか。  どちらにしても、胸が軋んだ。 『この関係は、何と呼ぶのか。恋仲と呼べるのか。いずれは分家を立て、明楽家を盛り立てる源之助は、嫁をもらって子孫を繋ぐ。  愛人でもいい。源之助が、俺を見てくれるなら、それでいい。けれどいっそ、武家など捨てて俺を選べばいいと、心の底では願っている。 「愛している。離れない、泡沫」  源之助が、診療所に残ると告げた。明楽の家を捨て、俺を選ぶと。それは本当に源之助の幸せなのか。俺は源之助から、奪ってはいないか。 「俺も源之助を、愛している」  もし源之助が本当に俺を望んでくれるなら、源之助と同じ人間になりたい。同じ人生を歩み、共に死ねたら、どれだけ幸せだろう』 (俺は、泡沫に何を言った? 人に戻すなんて、方法も知らないのに)  それはまるで、澪が提案した賭けと同じだ。 「俺は、かつての泡沫の希望を、無神経に掘り返しただけ、だったのか」  軋んだ胸に冷たいものが流れた。 『いつものように睦み合っただけだった。なのに、体の一部が朽ちて、崩れた。体が人に戻りかけているのだと、本能で感じた。  百五十年以上を生きたこの身は、人に戻ればたちまちに朽ちるのだ。 「どうして、急に」  自分が発した言葉の答えは、本能が知っていた。愛した者と心が通い合うと、人に戻る。朽ちないためには代償が必要だ。本能が、代償を差し出せと叫んでいる。 「これは、なんだ」  源之助の腕に、人魚の鱗が浮き上がっていた。俺の人魚の呪いが、源之助に流れ込んだ。俺の本能が、源之助を代償に選んだ。 「ダメだ、嫌だ!」  生が続く苦しみも、半妖の生きづらさも、総てを源之助に押し付ける。それだけは嫌だった。 「このまま共にいれば、俺は人に戻り、朽ちて死ぬ。頼むから、俺を人に戻して、殺してくれ」  代償は差し出さない。源之助を人魚にはしない。  源之助が息を飲んだ。大きな手が俺の体を抱いた。 「死なせたくない。たとえ半妖でも俺は、泡沫に生きていて欲しい。共に生きられなくても、朽ちて消えてほしくない」  この瞬間、源之助の温もりは、この手から去った』 「朽ちて、崩れる」  人に戻すと言った時、それでいいと快諾した泡沫の本心をやっと理解した。  泡沫にとって人に戻るのは、死ぬことと同じだった。 「心が、通ったら? 代償だって?」  息が止まって、頭が思考を放棄しそうだった。   『源之助は明楽家に戻り、分家を立てた。嫁を取って子を作り、家を盛り立てた。明楽の家は子々孫々まで、泡沫を守り続けると約束した。  ただし、精だけは喰えない。人魚の呪いが移り込んだ明楽の血筋と交われば、呪いがいつ体を蝕むか知れない。  俺はまた、生きるために男を漁り、精を喰らう身に戻った。  あの時、源之助に抱かれたまま死ねたら、どれだけ幸せだったろう。俺を愛して、俺が愛した男の腕の中で死ねたなら、それで良かった。この先に、生きる意味も希望も、ありはしない。ただ息を吸うためだけに生き続ける。無為な生だ』  言葉が出なかった。泡沫の言葉の端々に、表情や仕草の一つ一つに、ヒントが隠されていたのだと思った。それらを繋ぎ合わせれば、もしかしたら新たな答えが導けるのかもしれない。  けれど今は、そんなことを考えられない。 「俺は、いつの間に泡沫のこと、こんなに愛していたんだよ」  気持ちが溢れて、止められない。ただ泡沫が愛おしくて仕方がない。  だからこそ、自分の罪深さを呪う。  澪が泡沫に無自覚に示してきた愛は、まるで源之助を辿るようだった。それは泡沫にとり、どれだけの地獄だっただろう。 「俺が今までしたこと全部、泡沫の過去をなぞって……泡沫を傷付けただけじゃねぇか」  泡沫が唯一愛した男と同じ言葉を何度も吐いた。だから、泡沫は泣いたのだ。  澪は見えない拳を硬く握った。 「死なせない、絶対に。俺は源之助みたいに、離れたりしない」  理屈も勝算もない。誓いだけが、澪の胸を熱くした。

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