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第29話
泡沫が人魚化しそうになってから、二日が過ぎた。
診察台に横たわる泡沫の体を隈なく観察していく。
「水の中のほうがいいんじゃないか。尾ひれも観察できる」
「ダメだ。水に溶けた媚薬に俺がやられる。人魚姿になると泡沫も盛るから、診察どころじゃねぇだろ」
下腹に手を添えてトントンと軽く叩く。その手を胸にずらしていく。
「二人して盛って、止まらなくなるな」
泡沫がおかしそうに笑う。普通に可愛く笑うから、澪は思わず手を止めた。
「澪は美味いから、仕方ない」
泡沫の手が澪の頬を撫でる。その手つきが、やけに艶っぽい。ちょっと腹が立った。
触れる手を握って、顔を近付ける。深く口付けて、舌を絡めた。泡沫の舌をじゅるりと吸い上げて、口を離した。
「美味いか」
「……美味いな」
泡沫が微妙に顔を逸らした。耳の先が、幾分か朱く見える。
(こういうキスしても、源之助を思い出してんのかな)
鋭い怒りが頭を突き抜けた。泡沫の体にタオルをかけると、澪は診察台を離れた。
「体は、問題なさそうだ。やっぱり、精を喰わねぇと人魚化リスクが高いんだな。三日に一回くらいがいいの?」
椅子にどっかりと腰掛ける。
「前は一週間くらい、平気だったんだけどな。澪は……五日以上、開けないほうがいいらしい」
「へぇ、相手によって違うんだ」
「……ん、そうだな」
衣服を整える泡沫が、顔を隠しているように見える。
(源之助とは、どのくらいの頻度で、してたんだろ)
不意に浮かんだ疑問を、頭を振って追い出した。
(さすがに意識し過ぎだ。考えんな、俺)
自分の気持ちを自覚してから、源之助の影が消えない。
(この世にいない男に嫉妬とか、どんだけ器が小さいんだよ)
きっと源之助ならこんな些末な嫉妬はしないのだろう。そう考える己が憎らしい。
「肩は、平気か?」
「ん? 俺の肩か?」
「噛みついたから。それなりに深かっただろ」
立ち上がった泡沫が、澪の前に立った。細い指が、澪の肩口を撫でる。
ドキリと、心臓が跳ねた。
「あ……あぁ、湯の中だったからな。薬種も解けていたから、すぐに治ったよ」
実際はまだ痕が残っている。肩を食い破られるかと思うほど深い噛み傷だった。湯の中でなかったら、死んでいたかもしれない。
「すまなかった。さすが、八瀬童子だな」
泡沫の顔が近付く。髪が澪の鼻先を掠めた。唇が、澪の首筋に触れた。
(え……キス、された)
何の意味もない、ただのキスだ。精を喰うのでも、命を繋ぐのでもない。
澪は呆然と泡沫を見上げた。
「澪の血を啜ったから、人肉を喰いたい衝動が収まった。意識も何とか、戻ったよ」
「俺の、血……」
肩に噛みついた泡沫を、澪は思い返した。人魚になりかけた泡沫は、澪の血を吸って、いつもの泡沫に戻った。
(つまり、人魚化が止まった。血は精液と同じか、それ以上の効果があるのか)
精液や唾液は、泡沫にとって人魚化しないための薬のようなものだ。
血液にそれ以上の効能があるのなら、血液が突破口になるかもしれない。
(源之助の血液を、泡沫は試していない。実験してみる価値はある)
多くのヒントが記された宝暦の日記の中で、唯一書かれていなかった要素だ。
(今なら、俺で試せる)
それが澪にとり、何より嬉しかった。
「澪の薬湯も、心地良かった。お前は時々、指先から湯を流し出すだろう。あれは、何からできているんだ」
泡沫が澪の指に自分の指を絡めた。艶めいた指先が、澪の肌を滑る。
「何って、水だろ。俺にとっては術の一つだからな。薬湯を出すか、薬種を出すかの違いだけで」
自分の中にある水や薬を流し出す。それだけだ。
「素材は血液ではないのか? あの水は、澪の体液と言えるんじゃないか」
醸し出す湯を体液と言われると、澪のほうが気後れする。
「その発想はなかったな。泡沫も大概、医者臭い発想するんだな」
「三百年近く、医者をしているからな」
当然のように言い切られた。
「そうね、大先輩ね」
呟きながら、考えを巡らせた。
「けど、俺が作る湯は血液や体液とは違うと思うぜ。俺たち八瀬童子は、生まれながらに霊元に水玉が備わっている。だから、水玉由来じゃねぇの?」
霊元とは、霊能の根幹。霊能を操る人間にとり心臓のようなものだ。
「水玉か。水を司る神が与える神宝だな。だから八瀬童子は鬼であり、半妖なのか」
泡沫が妙に納得している。
「また澪の湯に浸かりたい。今度はちゃんと、湯を感じたい」
見下ろす泡沫の目に、見惚れた。
「また、作るよ。泡沫のための薬湯」
「よろしく、頼むよ」
泡沫が微笑んで、絡める指を深めた。
(この瞳が、ちゃんと俺を見ているって、勘違いしたくなるな)
澪を見詰める泡沫の瞳に映るのは、きっと違う男だ。思い上がった勘違いなんかしたくないのに。泡沫が自分を見てくれる日が来るのを、気付けば願っていた。
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