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第30話
一階の処置室の隣、温泉室に大きな浴槽が運ばれてきた。
「遅くなって、すみませんでした。特注に切り替えたら時間がかかっちゃいまして」
絃司が申し訳なさそうに泡沫に頭を下げた。
「特注なのか。確かに、立派な湯桶だ」
泡沫が感心した顔で、運び込まれた桶を眺めた。
温泉室の三分の二を占める大きさの湯桶は、木造りだ。匂いからして檜だろう。楕円形の湯桶には釘が使われていない。
「一週間で、こんなにデカい桶、作れるんだなぁ」
風呂サイズの木桶の製作期間がどれくらいか知らないが、思っていたよりずっとしっかりした浴槽が届いた。澪も驚きだ。
「泡沫先生の診療所に置くのに、半端なものは出せませんので。湯守先生も半端な仕事はしたくないでしょうから。私も手を尽くしました」
絃司の言葉に棘を感じた。澪の気にし過ぎではないはずだ。
「いつも、助かるよ。ありがとう」
泡沫が淡々と礼を述べる。絃司が感動で目を潤ませた。
「とんでもありません。これが私の仕事です。仕事でなくても、泡沫先生のためなら飛んできます」
「この前、もらった水無月も美味しかった」
「良かったです。今の季節は泡沫先生が好きな羊羹が、涼しげで綺麗なので。綺麗な泡沫先生にピッタリです」
「夏と言えば、絃司は忙しいだろう。怪異も活発に動く時期だ」
「私は医療器材の卸問屋ですから。そこまで忙しくはありません」
「この仕事だけじゃなくて、あっちの仕事も」
「どうぞ、御気遣いなく。浴槽の設置が終わったら、稼働の確認に来ますね。次はシュークリームがいいですか。泡沫先生が好きなカスタードの」
「甘味は、そこまで好きではないよ」
澪は、泡沫と絃司の会話を遠巻きに聞いていた。
(泡沫の奴、気付いていて躱してんな)
いつもの通り無表情だが、雰囲気が何となく困っている。
玄関で、ブザーが鳴った。患者が来たようだ。出ようとした澪を、泡沫が手で制した。
「湯桶の設置は、澪に任せる。俺は診察室にいるから」
口早に言いながら、泡沫が出て行った。
(逃げたな)
後ろから、不穏な気配を感じる。
「どうして貴方と二人きりにならないといけないんですか」
不機嫌な顔を隠しもせずに、絃司が舌打ちした。
「いや、まぁ……湯治は俺の専門だし、ここは泡沫の診療所だからな」
ふん、と鼻を鳴らして、絃司が設置を始めた。
「設置といっても、この浴槽の場合、置くだけですからね。洗浄機はボタンを押せば消毒薬も水も出ますので、使って覚えてください」
何とも雑な説明だ。似たような機材を十三課で使っているから聞くまでもないのだが。それにしても、泡沫との態度の落差が激しすぎる。前にも思ったが、いっそ清々しい。
絃司が台車に載せてきた大きな湯桶を掴む。
「重いだろ、俺も手伝うよ」
言い終えないうちに、絃司が湯桶を持ち上げて部屋の真ん中に置いた。
「何ですか?」
「いえ、何でもないです」
澪は口を引き結んだ。普通の人間だったら、大人が四人程度で運ぶ重さだと思う。
(御庭番だし、忍びだし、フィジカル強めだとは思っていたけど、怪力系なのか)
怪異に準ずる術者の能力は多岐にわたる。聞いたこともないような能力など、腐るほどある。絃司の能力はまだよくわからないが、澪が敵う相手ではなさそうだ。
(刺激しないようにしよう)
澪は心の中で誓った。
「部屋の真ん中に置きたいと、話されていましたよね。この辺りでいいですか」
湯桶の位置を確認しながら、絃司が問う。
「え? あぁ、そうだな」
ちゃんと両脇のスペースをあけて、澪が通れるくらいの隙間がある。湯を捨てるための排水溝が桶の背面から繋がっている。段差用の踏み台も木だから、使い勝手が良さそうだ。
(態度は悪いが、仕事はできるな)
一週間前の採寸の時は小刀を突き付けられて脅されたが、あの時も仕事はしていた。
「これでいいよ。使い勝手が良さそうだ。ありがとな」
絃司が小さく鼻を鳴らした。さっきよりは、幾分か空気が柔らかくなった。
「洗浄機は部屋の隅に置いておきます。他に必要なものがあれば今の内に、どうぞ」
包んできた紙を台車に片付けながら、ついでのように聞かれた。
「そうだな。本とかも、頼めるか」
「何の本が欲しいんですか。人魚関連ですか?」
「そうそう。幻獣生態大全みたいな感じの、人魚専門の解剖学や生理学の本が欲しいんだ」
チカっと、目の前で何かが光った。次の瞬間には、澪の首元に白刃が突き付けられていた。
「どういうつもりですか。泡沫先生を解剖する気じゃ、ないですよね」
「そんなわけないだろ。泡沫のことになると短絡すぎるぞ、お前」
「だったらどうして今更、体の中身なんて知りたがるんですか」
絃司が目を見開く。殺意で部屋の空気がビリビリと震えた。
「解剖だけじゃなくてさ、生理学や病態なんかも、わかることは全部、知りてぇんだ。人魚って文献は多いけど、系統により違う生き物みたいに色々変わるだろ」
海水系と淡水系で分けただけでも、体の大きさから形、知能や生理機能まで、全く違う。
「どうして急に、調べようなんて思ったんです」
「急ではねぇよ。体液の種類によって、泡沫の反応が変わるんだ。特に血液は、精液や唾液とは違うからさ。どう作用するのか、知りてぇなって」
詳細な作用がわかれば、対策が打てる。
澪を眺めていた絃司が、息を飲んだ。
「ちがう」
ぽつりと、絃司が零した。突き付けた小刀を、絃司の手が力なく降ろした。
「え? 違うって、何が」
「そういう考え方をしているうちは、正解には辿り着けませんよ。この間も話したでしょう。呪いはもっと、因縁めいた話だと」
確かに効いた。あの言葉は、かなり印象的だった。
「絃司は何か、知っているのか? 知っているなら、教えてくれ。俺は、泡沫の人魚の呪いを解きたい」
「泡沫先生と賭けをしたんでしょう。今でも、人に戻したいと思っていますか」
絃司の言葉に、ドクリと心臓が下がった。
人に戻れば泡沫の体は、崩れて朽ちる。
(半妖として生きてきた年月の長さを、人の身では支えきれない)
人に戻った瞬間に、泡沫は死ぬしかない。
「泡沫には、不死の人魚の殺し方を探す賭けを持ち掛けられた。だから俺は、人に戻す方法を探すと答えた」
小刀を握る絃司の手が、ピクリと震えた。
「死なせたくないから、人に戻すと答えたんだ。人に戻せば死ぬというなら、俺はそれとは別の、泡沫を生かす方法を探す」
絃司の目が、大きく見開いた。
「どうして、それを……日記を、読んだんですか」
「源之助の記載がある宝暦の日記な。実は今、俺が持っている。けど、泡沫には内緒にしておいてくれよ。あれだけ厳重に隠していたんだ。他人に読まれたくなんか、ないだろ」
きっと、泡沫自身も目に入れたくなかった。だから隠したのだろう。手放すこともできなくて、仕方なく厳重に封じたのではないかと思った。
絃司が唇を噛んだ。小刀を仕舞うと、澪の腕を掴んだ。
「来てください」
澪の腕を引っ張り、診療所の玄関に向かう。
「おい、どこに行くんだよ」
絃司が振り返った。その視線は診察室に向いていた。
「泡沫先生、追加の湯桶の打ち合わせのため、湯守先生をお借りします。車にいますので、何かあれば声をかけてください」
閉じた扉に向かい、絃司が声を張った。
「わかった。気が済むまで選んでいて、いいぞ」
扉越しに泡沫の声が返ってきた。心なしか、嬉しそうに聞こえる。
澪は絃司に手を引かれたまま、診療所の玄関を出た。
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