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第31話

 家の前に停まっている白いバンの後部座席に押し込まれた。続いて乗り込んだ絃司が、車に鍵をかけた。助手席から黒い鞄を引っ張り上げる。営業職が持っていそうな、よくある大きな鞄だ。  奥のほうから大学ノートを取り出すと、絃司が澪に差し出した。 「泡沫先生の記録です」  ドクンと心臓が震えた。 「明楽家は代々、泡沫先生を守りながら、その生態を観察し続けてきました。記録の総ては本家に保管されています。これは、特に大事な部分だけを俺が拾い上げた、要約です」 「明楽家には、そんな役割もあったのか」  澪はノートの背表紙を見詰めた。 「役割というほど大袈裟な仕事ではありません。泡沫先生が語ってくださる話や、明楽の人間が気付いた事実を書き留めた、その程度の内容です」  確かにそれは、人魚というより泡沫の生態観察だ。 「どうして明楽家は、そこまで泡沫を守ろうとするんだ」  源之助はきっと、本気で泡沫を愛していた。だからこそ、泡沫が生きている限り守りたかったのだろう。だとしても、自分の子孫を犠牲にする行為だと、澪は思う。 「貴方と同じですよ」 「は……?」  絃司がノートのページを捲った。 「泡沫先生を死なせたくなかったから。自分にできる守り方をしたんです」  開いたページを、絃司が指さした。 『まるで捨てるように泡沫を置いてきた。傍にいれば俺が泡沫を殺す。だったら、守れる距離で、守れる場所から、泡沫を守る』  これはきっと、源之助の言葉だろう。聞かなくてもわかった。 「人魚は富と材、長寿の象徴であり、成功の守り神とされているのを、知っていますか」 「まぁ、一般論としてな」  人魚信仰のある神社などでは、そういう祀り方をされている。 「泡沫先生は、明楽家にも富と材、成功をもたらしてくれました。一方的に守っている訳ではないんですよ。報酬は得ています」  泡沫の鱗が浮かんだ。売れば一枚、一億はくだらない怪宝が、地下のプールにごっそり溜まっている。あの鱗を数枚、渡すだけで報酬には充分だろう。 「……源之助は、後悔したかな」  澪の口から、素直な疑問が零れた。離れる決断をした自分を、後悔したのだろうか。 「さぁ、私は源之助ではないから、わかりません」  絃司の指が、ノートのページを捲った。 「少なくとも、忘れたい相手だったら、子々孫々守れなんて遺言は、残さなかったでしょうね」  絃司の指が、文字をなぞる。半妖を保つために精液を必要とする。と書かれている。 「この辺りの記述は、日記にもありましたか?」 「あったよ。餌を探すのに、泡沫は苦労している様子だったし、危ない目にも遭っていた」  源之助と別れた後は、何度も人魚になりかけていた。他の男に抱かれるのが、辛かったのだろう。 (最初に読んだ時も、しんどい内容だったけど。源之助の記述を読んだ後だと、余計に痛いな)  絃司の指に導かれるようにして、澪の目が文字を追いかけた。 「何か、気が付きませんか」 「何かって、何だよ」  意味深な問いかけに、澪はノートを何度も読み返した。 「……血液に関する記述がないな。精液や唾液は、書かれているのに」  そういえば、他の年代の泡沫の日記でも、見なかった。 「私が知る限り、泡沫先生が自ら血液を求めた例は、過去にないんです」 「……え? でも、俺は何度か、舐められているけど」  最初に会った時も、唇を噛まれて血を舐められた。つい最近も、人魚化しそうになって、血を啜られた。 (いや、もしかして……泡沫自身もよくわかっていないのか?)  澪の作る湯が血液と同じなのかとか、そういえば聞かれた。 「泡沫は、俺の血や薬湯に、何かを感じているのか」  澪の呟きを聴いて、絃司が小さく息を吐いた。 「湯守先生は、見た目の通り、鈍そうですよね」 「はっきり言うね、お前」 「はっきり言わないと、気が付かないでしょう。鈍いんだから」  反論しそうになった言葉を、ぐっと飲み込んだ。ここで喧嘩しても、良いことはない。 「そうやって衝突を避ける人って、他人に興味がない人が多いですよね」 「ハイハイ、そうですね。悪いかよ」  段々、苛々を隠す気がなくなってきた。 「コミュニティに属して生きる以上、大事な社会人スキルだと思いますよ。湯守先生は、医者としては優秀な方なんでしょうね。医学的視点が常に優先するくらい、仕事人間だ」 「何が言いてぇの、お前は」  いい加減、まどろっこしくなってきた。 「もっと泡沫先生という人間に興味を持っていたら、見えるヒントは違うってことです」 「泡沫という、人間……」 「でもそれは、私じゃダメなんですよ。貴方じゃないと、ダメなんです」 「何でだよ。別にお前だって……お前のほうが俺よりよっぽど、泡沫を知っているだろう」  泡沫と出会って、まだひと月も経っていない。絃司はもう何年も泡沫と付き合いがあるはずだ。 「私の血液じゃ、泡沫先生の疼きを止められない」  絃司が、ぐっと唇を噛んだ。 「それはお前が明楽の人間だからだろうけど。そういう協力じゃなくてもさ。泡沫の気持ちに寄り添うことは、できるだろう」  絃司が目を細めて澪を睨んだ。 「あ、いや……今のは、無神経だったな。悪い」  恐らく本気で泡沫を愛している絃司にとっては、辛い現実だ。 「血液で泡沫先生に変化を与えるのは、貴方だけですよ。源之助ですら、恐らくしていない。そういう記述はなかったでしょう」 「そう、だな。確かになかった」  宝暦の日記の中には、書かれていなかった。 「血液に固執する考えも、善し悪しだとは思いますが」  小さく息を吐きながら、絃司が鞄から銀色のケースを取り出した。中に並ぶ煙草を取り出して、火をつけた。 「泡沫先生は煙草が嫌いなので、ここに来る時は吸わないんですけどね。内緒にしておいてください」 「匂いでバレるだろ。俺も一応、医者なんだけどね」 「貴方のお小言なんかどうでもいいし、嫌われようと構いません」 「あ、そう」  絃司が白い煙を吐き出す。カフェラテのような匂いが車内に漂った。細巻の葉巻のようだ。 「泡沫先生から、死にたいって言葉を、聞いたことありますか?」  煙と共に絃司が質問を吐き出した。 「死にたい、は……」  澪は泡沫の言葉を思い返した。 『不死の人魚の殺し方を見付ける』  最初からそう言われたから、死にたいのだろうと思い込んでいた。けれど。 「ないかもな。終わりたいとは、何度か聞いた」 「そうなんです。泡沫先生は、自分から死にたいとは、言わないんです」  絃司が、煙草の灰を携帯灰皿に落とした。 「きっと、終わらせたいんだと思うんです。生きるために好きでもない男に抱かれ続ける生活を」  絃司の目が淋しげに俯いた。  澪の頭に、源之助が過った。  男に抱かれるたび、泡沫の目には源之助の幻想が映っていたのかもしれない。自分を抱く男を源之助に重ねて、これは自分を愛した源之助だと言い聞かせて、耐えていたのかもしれない。そうでもしないと、正気を保てなかったのかもしれないと思った。 (それじゃ、泡沫は生きている限り源之助を忘れられねぇな)  澪は、ぎりっと奥歯を噛んだ。 「源之助の幻想に縛られ続ける、呪いみたいだな。泡沫が自分で自分を縛っている呪いだ」  本当は、そんな風には考えたくない。泡沫が愛した男を呪いと呼んだら、泡沫自身があまりに不憫だ。  けれど、縛られているのも、事実だ。 「やっと気が付きましたか。源之助は泡沫先生にとって、呪いですよ。もう二度と会えない、かつての最愛という呪いです」  絃司が言葉と一緒に紫煙をくゆらせる。  澪は絃司の横顔を見詰めた。 「泡沫先生は源之助が自分から離れた理由を理解している。だからこそ忘れられなくて、苦しいんです。本気だからこそ、呪いなんです」  絃司の目が煙草の先を見詰める。細い煙がゆらりと昇っては、消えていく。煙に隠れた絃司の表情が切なく歪んでいた。 (お前も同じなんだな、絃司)  生まれた時から絶対に愛してはいけないと定められた相手を好きになった。結ばれてはいけない、決して結ばれない相手だ。 (そんな愛は、苦しいな)  澪は、自分の手をぐっと握った。 「っあぁ……負けたくねぇな」  澪は車のシートに背を預けた。 「お前にも、源之助にも、負けたくねぇよ。俺も泡沫が好きだからさ」  どうしたら泡沫に自分を見てもらえるだろう。源之助以上になれるだろう。そんなことばかり考える。 「やっと自覚したんですか、遅いですね」  呆れたように吐き捨てて、絃司が煙草をふかした。 「え? 絃司は、俺の気持ちに気付いてたの?」 「初めて会った時から気付いていました。だから私は、最初から貴方が嫌いです」 「うわぁ、こわぁい」  初対面はかなり愛想がよかったはずだ。その直後に小刀を突き付けられたが。  絃司が心底嫌そうな顔で仰け反った。 「湯守先生の気持ちは、どうでもいいですけど。泡沫先生の希望を叶えるよう、努力してください」 「本当に清々しいほど泡沫しか頭にないね、お前」 「当然でしょう。貴方に気を遣う理由がありません」 「でも、ノートくれただろ」 「それは泡沫先生のためです。貸しただけですから、返してくださいね」  煙草をもみ消しながら、ニコリと微笑まれた。  澪は、手の中の大学ノートを見詰めた。 (終わらせるのは、命じゃない。泡沫の辛い日々だ。そのために、泡沫の呪いを解かないと)  絃司が教えてくれた大事な事実を、胸に刻む。 (忘れさせるのは無理でも、泡沫が前を向けるように隣にいてぇな)  自分の気持ちを改めて自覚する。この想いを軽々しく語るのは、絃司にも源之助にも失礼だ。 「ありがとな、絃司。源之助の呪いは、俺が解くよ」  柄にもなく、はっきりと言いきった。 「私が応援するのは、泡沫先生の未来に関わる事柄だけです。その呪いは手強いですよ。なにせ三百年ものですから」  二本目の煙草に火をつけて、絃司が煙を吸い込んだ。ふわりと浮いたバニラの香りが、背中を押してくれているようだった。

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