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第34話

 今日も澪の湯治は患者が多かった。最近は兎の一角獣がお土産を持ってきてくれる。今日は桃源郷の桃を差し入れてくれた。 「十三課でも、そうそうお目に掛かれねぇよな。どんな味がするんだろ」  澪は籠の中に桃を入れた。窓際に置いて、手を併せた。 「塞神様が喜んでくれた花湯、みんなも楽しんでくれていますよ。今日は桃をもらいました」  目を開けて、窓の外を眺める。 「一緒に食べたかったな」  最期に澪の薬湯を存分に楽しんでくれた塞神が、澪の胸にずっと住み付いていた。 (きっと、死ぬまで忘れねぇんだろうな。自分が八瀬童子で良かったって実感したのは、初めてだった)  思い出すと、今でも涙腺が緩む。潤んだ目を手で拭った。  後ろで、カタリと物音がした。 「泡沫、片付け、もうすぐだ。あとは桶を干すだけ……」  振り返っても、誰もいない。澪は首を傾げた。 「気のせいか?」  不思議に思っているうちに、温泉室の扉がノックされた。 「澪、まだかかるか? 片付け、手伝うぞ」  返事を待たずに、泡沫が部屋に入ってきた。 「洗ったから、干すだけだ。もう終わりだよ」  桶に入れた桃を泡沫に差し出した。 「兎の一角獣が分けてくれた、桃源郷の桃だ。冷やして食おうぜ」 「桃源郷の……?」  泡沫の顔が険しくなった。 「あの世に近い場所の食べ物など食って、大丈夫なのか?」 「大丈夫だろ。黄泉の食べ物じゃねぇんだし」  黄泉の食べ物を食べると黄泉の住人になる、というのは日本神話では有名だ。 「日本神話には黄泉や冥府はあるけど、天国や極楽はねぇからな。桃源郷なんて、それこそ中国由来だし、大丈夫なんじゃねぇの?」  桃源郷は、遠い異界というより身近で平和な幽世だ。 「なんだ、それは。発想が滅茶苦茶だ」  泡沫がおかしそうに笑った。 (あ、可愛い)  泡沫は最近、無防備に笑うようになった。力の抜けた笑みは、年齢より幼く見える。 (二十歳で成長が止まったとはいっても、四百歳なんだよな)  自分よりずっと年上なのだと思うと、不思議な気分だ。 「あの兎が持ってきてくれたんだから、大丈夫だよ。泡沫に随分、懐いていただろ」  死にかけた時、泡沫を頼って膝の上で小さく丸まっていた姿を思い出す。 「最近は、澪のほうが仲良しだ。湯治にばかりやってくる」 「そりゃ、病気も怪我もしていなければ、診察じゃなくて湯に浸かりに来るだろ」  澪が診療所で一般に開放しているのは、活力増進作用のある湯だ。日により香りを変えて、花や音楽などの演出をしている。幻獣たちはスーパー銭湯感覚で湯に浸かりに来る。 「俺のほうが仲良しだったのに、狡い」  泡沫が小さく零した。横顔が拗ねている。 「狡いって、お前、かわ……っ」  可愛いことを言うな。出そうになった台詞を慌てて飲み込んだ。 「なんだ」  拗ねた顔が澪を睨む。どこか甘えを含んだ視線だ。 (最近、泡沫が可愛く見えて仕方ない。これも呪いかな)  会ったばかりの頃は無表情で、何を考えているかわからなかった。今は、想っていることが何となくわかる。 「次に兎が来た時は、泡沫を呼ぶよ。きっと喜ぶから」 「別に、そんな気遣いは……俺が様子を見に来て、ついでに手伝いくらいしてやればいいだろ」  ぶちぶちと文句でも言うように、泡沫が自分から湯治の手伝いを申し出た。 「助かるよ。最近はよく手伝ってくれるもんな」  笑いを噛み殺しながら、澪は泡沫の肩を叩いた。泡沫がバツの悪そうな顔で澪をねめつけた。 「患者が増えたからな。お前の隣は心地良いのだから、仕方ない」  小さな泡沫の声に、澪の手が止まった。 「今のって……っ!」  言葉の意味を問おうとした澪は、言葉を飲んだ。泡沫の肩に、黒い影が浮かび上がっていたからだ。 (何だ、この影。人の形をしている?)  人を象ったような大きな影が、泡沫の背中に張り付いた。 『離れたくない。忘れるな、何百年経っても、ずっと』  泡沫に纏わりつく影から、声が聞こえた。 「まさか……泡沫!」  澪は影に向かって手を伸ばした。指先に浄化の湯を纏わせる。ほんの少し触れただけで、影が溶けるように消えた。 「どうした、澪」  泡沫が不思議そうに澪を振り返った。 (泡沫には、聞こえていなかった?)  それどころか、見えてすらいないのかもしれない。 (今のは、源之助? 感情の残滓か)  日記に残っていたのと同じ影だろうか。澪の胸の奥が、ざわりと騒いだ。 「桶は立てかけておけばいいだろう」 「え? あぁ、それでいいよ」 「これで終わりだ。桃を持って上がろう」  泡沫が桃の入った籠を手にする。その背中に影はない。 「そうだな」  部屋から出ようとする泡沫の背中に、さりげなく触れる。何の気配も感じない。 (日記からも、悪い気配はしなかった。毛派はないのに、影と声だけが、こびり付いている)  そっと、温泉室を振り返る。  黒い影が横切ったような気がしたが、部屋の中には何もいなかった。扉を閉めて、澪は泡沫と共に二階に戻った。

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