35 / 42
第35話
夕食の後、冷やしておいた桃を切った。
「甘い」
「美味い」
澪と泡沫の声が被った。二人は顔を見合わせた。泡沫の顔が感動している。
「桃源郷の桃って、こんなに美味いのか」
実そのものが大きいし、瑞々しい。口に入れた瞬間に、甘みが溢れる。常世ではお目に掛かれないくらい、美味しい桃だった。
「桃って、魔除けや邪払いの意味もあるだろ。もしかして、めちゃくちゃ貴重なんじゃ……」
兎がさりげなく渡すから、普通に受け取ったが。もしかしたら、澪が考えるよりずっと希少な食べ物なのかもしれない。
「それだけ澪に感謝しているということだろう。有難く受け取ればいい」
桃を食みながら、泡沫が微笑む。どこか嬉しそうだ。
「それは、嬉しいけどさ。今度、花湯のサービスしとこ」
薬湯もいつもより濃くしてやろうと思った。
「そういや、今日の風呂はどうする? また薬湯にするか?」
「頼めるか。同じ薬種がいい」
「穢れを祓う薬湯か? 他にも何か、混ぜてやろうか?」
「できるのか?」
「当然。どんな湯でも作ってやるよ。温泉のエキスパートに任せろ」
泡沫に作っている穢れを祓う薬湯は、先祖が大海人王子を癒した、八瀬童子の原点だ。魂の穢れを祓い、活気付ける効果がある。
「だったら……」
切った桃を咥えて、泡沫が澪に迫った。
「なにっ、あわ……ぅん」
咥えた桃を澪の唇に押し当てる。舌で押し込まれて、桃を飲み込んだ。
そのまま、唇を激しく吸われた。泡沫の手が、澪の肩を押す。いとも簡単に押し倒された。
「薬湯に……俺の媚薬を、混ぜよう。お前が俺を愛するような湯にできる」
泡沫が澪の上に馬乗りになった。見下ろす目が蕩けている。
「どうしたんだ、泡沫」
まるで酒にでも酔ったようだ。
「フワフワして、とても気分がいい。このまま、澪に抱かれたい」
降りてきた泡沫の唇が、澪の首筋に落ちる。甘く食まれて、痺れが走った。ふんわりと、甘い匂いが漂った。
「酒の匂い……? 飲んでないよな。あれ?」
自分の口からも、アルコールの匂いがする。
「もしかして、桃? 俺は酔ってないのに。なんで泡沫だけ」
桃源郷の桃は、特別なのだろうか。などと考えていたら、目の前に暗い影が降りた。泡沫を見上げる。泡沫の背中に、温泉室で見たのと同じ影が乗っていた。
「なん、だ……これ」
真っ黒な影が泡沫の背から垂れこめている。泡沫だけでなく、澪まで飲み込もうと伸びてくる。
「好きだよ、澪。澪に、愛されたい」
泡沫の口から言葉がぽろぽろと零れ落ちる。普段は絶対に言わないような言葉だ。
「これも、桃の作用なのか?」
泡沫が、切なく目を歪ませる。
(俺と源之助を重ねている? それも少し、違う気がする)
真っ直ぐに澪を見下ろす泡沫の瞳が、潤んでいる。その中には、澪の顔が映り込んでいた。
「澪といると、幸せなんだ。澪の血は、澪の湯は、俺の呪いを解いてくれる。知らなかった俺を見付けてくれる。澪となら、知らない明日を迎えられる気がする」
泡沫の瞳から、透明な雫が流れ落ちた。澪の顔を濡らした雫が、オーロラの光を反射する宝石になって、ポロポロと澪の上に落ちる。
「忘れて、いいのか? 子孫までも縛った俺が、別の男を好いて、幸せに、なろうだなんて」
泡沫の目が辛そうに歪んだ。その顔を見て、はっきりわかった。
「人魚の呪いは、お前自身がお前を縛る枷だったんだな、泡沫」
源之助との逢瀬は泡沫にとり、もうずっと大昔から幻想だった。生きてきた中で一番幸せで、最も辛かった現実だ。それを最愛という呪いにしたのは、泡沫自身だった。
「その黒い影、綺麗さっぱり消してやる」
澪は泡沫に手を伸ばした。流すたびに宝石に変わっていく涙を指で拭う。親指の腹で、泡沫の唇を撫で上げた。
「大事な言葉は、届く距離で言うよ。だからさ、泡沫。今は俺に全部、委ねろ」
頭の後ろに手を添えて、泡沫に顔を近付ける。震える唇に口付けた。
指先から展開した水が、泡沫の背中にこびり付く影を覆い包む。
「澪、俺は」
言葉も飲み込んで、唇に深く噛みついた。
真っ黒い影が、水と一緒に二人を隠した。
ともだちにシェアしよう!

