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第36話

 意識が水に揺れるように揺蕩う。  泡沫の素直な微笑が、こっちを向いている。最初は無表情で、何を話してもツンと顔を逸らしていたのに。笑顔を見せてくれるようになったのは、いつからだろう。 (いつから……? この感情は、誰だ?)  誰かが澪の意識に入り込んで話しているような違和感だ。自分の感情と誰かの感情が、重なる。 『素直じゃない所が可愛くて、素直になるともっと可愛らしいんだ』  目の前に黒い影が現れた。 『其方もよく、知っているだろう』  黒い影が人の形に変わっていく。朗らかに笑む男は、髷を結っていた。 (あぁ、あの男が、源之助か)  大きな体に、太い腕。刀を振るうに十分な筋肉だ。あの腕で幾度も泡沫を悪漢から救ってきた。 (その上、料理上手で心優しいとか、どんだけスパダリなんだよ)  あれはきっと、日記と泡沫の中に残っていた、源之助の感情の残滓だ。正確に言うなら、泡沫が作り上げた源之助という呪いだ。 『其方のお陰で、泡沫はやっと俺という呪いを手放す気になった。ありがとう、澪』  源之助が、澪の手を掴んだ。 『これからは澪が、泡沫の隣で笑って、寄り添ってやってくれ』  源之助の影が触れて、感じ取った。この気配は泡沫の妖気だ。 (泡沫に纏わりついていた影は、泡沫が作り出した幻影だった)  忘れる自分を恐れた泡沫が作り出した幻影、そこに乗った感情の残滓もまた、泡沫の感情だ。 (悪いものであるはずが、ねぇよな)  どれだけ祓おうとしても、祓えないわけだ。  隣から、泡沫の心が流れ込んできた。 『愛していた、だから離れた。わかっているんだ』  源之助の家族を慮って、死の際にも葬儀にも、立ち会わなかった。源之助の顔を覚えている者がなくなった頃、泡沫はようやく源之助の墓参りに行けた。 『共に過ごしたのは、たったの半年。あの半年が、俺の総てだったよ。けれど、もう違うんだ』  源之助の墓標に立つ泡沫が、後ろを振り返った。 『死は俺を置いていく。俺だけが取り残される。お前も俺を、置いていくのか?』  泡沫の目が、澪を真っ直ぐに見詰めている。 (その台詞は、誰に向かって言っている? 源之助か、それとも俺か?)  澪は無意識に、泡沫に向かって手を伸ばした。 (今はもう、どっちだっていいんだ。これから飽きるほど一緒にいて、こっちを向かせるつもりだから)  泡沫の目が、泣き出しそうに歪んだ。 『置いていかれるのは、嫌だ。一人にしないでよ。死ぬまで傍にいてよ』  泡沫の目から涙がこぼれる。透明な雫が、キラキラ輝く宝石になった。 (感情が乗った人魚の涙は、宝石になる。泡沫の心が、形になる)  涙の雫すらも高値で取引される。それが人魚という生き物だ。 「置いていかない。誰にもやらない」  泡沫の手を掴んで、引き寄せた。胸に倒れ込んだ泡沫の体を、拘束するように抱いた。 「俺だけの泡沫にする。腹を括って、良いよな。嫌だと言っても離してやれないぜ」  その問いかけは泡沫より自分にしている最終確認だった。 『澪に、縛られていたいんだ』  腕の中の泡沫が、涙目で笑んだ。 「置き去りになんか、しねぇよ。その代わり、泡沫も腹を括れよ。人魚の永遠を終わらせる。お前の中の不死の人魚を殺す覚悟だ」  ここはまるで幻想の中みたいだ。本物の泡沫にどれだけ伝わっているか、わからないけれど。 「幻の中で虚勢を張っても、格好つかねぇな」  自嘲しながら吐き捨てる。それでも澪は、腕の中の泡沫を離さなかった。

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