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第37話
胸が苦しい。体が重い。
「ぅ……」
息を吐いたら、唸り声が聞こえた。どうやら自分の声らしい。
(なんだ、一体、何が)
ようやく重い瞼を開ける。澪の胸の上で、泡沫が寝ていた。
「……え?」
泡沫の顔の周りには、キラキラと輝く透明な宝石が散らばっていた。
(泡沫、泣いたのか)
まるで幻の中と同じだ。少し動いたら、涙の雫がころりと転がった。
「セックスした後だって、こんなに抱き付いたりしねぇだろ」
たとえ肌を重ねた後だって、自分の部屋のベッドに潜るくせに。泡沫の体を抱き寄せて腕枕する。頭を撫でながら、その額にキスをした。
(こんな仕草、恋人みたいだな)
心の中のぼやきは、まだ口に出しては言えない。
「……澪になら、縛られたい」
腕の中の泡沫が、ぽつりと零した。幻の中で聞いたのと同じセリフだ。
「泡沫、今、何て」
泡沫の手が伸びて、澪の胸倉を握り、引き寄せた。
「腹なら、括った。もう迷わない」
「その話、さっきの幻の中で……いや、あれは、影の中だったのか」
だとしたら、あの幻想自体が、泡沫の中だった。
(あれは泡沫が俺に見せた、泡沫の心か)
泡沫がテーブルを指さした。テーブルには、宝暦の日記が置かれていた。
「どうして……」
澪の心臓が、大きく跳ねた。徐々に鼓動が速くなる。
「仕掛け直された封印術に、俺が気付かないとでも思ったのか」
「それは、そうだな」
慌てるよりも、ほっとした。日記を読まれたと知っても、泡沫が取り乱している様子がない。むしろ、詰められているのは澪のほうだ。
「勝手に読んで、黙っていて、ごめん」
気まずくて、澪は目を逸らした。
「この家にある本、どれを読んでもいいと、俺はお前に言った。見付けて読むのは、お前の自由だ」
泡沫が澪を見上げる。その瞳が光を帯びて見えた。
「じゃぁ、聞いてもいいか」
澪はのっそりと身を起こし、泡沫に覆い被さった。パラパラと、涙の宝石が転がる。
「何でも聞け。ちゃんと答える」
泡沫の真っ直ぐな瞳があまりに綺麗で、目が眩みそうだった。
(俺たちが想い合っていたら、伝え合った瞬間に、きっと)
体が崩れるのだろう。源之助と愛し合った時と同じように。
(だったら俺は、源之助とは違うやり方で、泡沫を愛する)
澪にしかできないやり方で、未来を繋ぐ。
「この先も、俺に付き合ってくれるか」
泡沫の手が伸びて、澪の顔を包んだ。唇が、ふわりと重なった。
「お前なんて、まるで好みじゃない。好きになるなんて、思っていなかった」
「は……?」
澪の首に腕を絡めて、泡沫が澪を引き寄せた。
「でも、澪だった。澪じゃなきゃ、ダメだった」
泡沫の唇が、深く重なった。ちゅっと水音を残して、唇が離れる。
「気が付いたら愛していたよ。俺はもう、澪がいないとダメらしい」
ぼろっと、何かが崩れる気配がした。嫌な予感がして、後ろを振り返る。泡沫の足が黒ずんで崩れかけている。
「待て……ちょっと、待て。今はそれ以上、言うな」
崩れそうな足に延ばした澪の手を、泡沫が握った。
「腹を括るのだろう。澪の気持ちも、俺に教えてくれ」
近付いた顔が切なく歪む。
澪は、ごくりと息を飲んだ。
ぼろっと、泡沫の体が崩れる音がした。その音がやけにリアルで、重い。
「俺は……」
愛しているなんて言葉にしたら、泡沫の体はもっと崩れる。
(泡沫が人に戻る。泡沫が、死ぬ……)
ぞくり、と強い恐怖が体中を支配した。
泡沫の顔を掴んで、唇を重ねる。吸い上げた舌が、痺れた。
「今、俺が何かを言ったら、お前の体がどうにかなるかもしれない。それでも、いいのか」
泡沫の唇が、わずかに震えた。澪は目を見開いた。
(少し前の泡沫だったら、色の無い目で無表情に受け流していたはずだ)
今は、死ぬのが怖くなったような表情だ。その顔を見た瞬間、決意できた。
「たとえ体が崩れても、お前の愛がほしいよ、澪」
泡沫の目の端から、ほろほろと雫が零れた。尾ひれと同じ、オーロラ色の宝石となって、転がった。
(人魚の涙は、強い感情の塊)
転がる宝石を横目に、目を潤ませる泡沫を見詰めた。
「わかった。泡沫の希望を叶えてやる」
背中に腕を回すと、その身を抱き寄せる。胸をピタリと併せて、唇を覆った。
「愛してる、泡沫」
泡沫の耳に、確かに言葉を注ぎ込んだ。
「あぁ……やっと、愛する人の腕の中で、終われる」
息を吐いて、泡沫が目を瞑った。足先の皮膚が黒炭のように真っ黒になって、崩れ始めた。
「まだ、終わらせてやらねぇよ」
呟いて、澪は胸の奥に意識を集中した。
「……澪?」
「泡沫、唇、離すなよ」
隙間なく重ねた唇から、いつもよりずっと濃い霊力を、泡沫の中に流し込んだ。
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