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第19話 海沿い電車と、この場だけの手
朝の海は、昨日より少しだけ静かだった。
保養所の食堂には、焼き魚と味噌汁の匂いがしている。窓の外では、海が白く光っていた。夜の線香花火の小さな火も、燈真の声も、寝たら少しは薄まると思っていた。
まったく薄まっていない。
依央は箸を持ったまま、向かいの席の久我燈真を見ないようにしていた。
(可愛すぎ。反則。朝になっても残ってる。何あれ。線香花火より長持ちしてる。普通、寝たら落ち着くだろ。俺の心臓、保養所の朝食まで引っ張るな)
燈真は普通の顔でご飯を食べている。
その普通さが、逆に腹立つ。
昨日、あんなことを言った人間の顔ではない。いや、燈真ならそういう顔をする。短く刺して、何でもないみたいにいる。ひどい。
晴臣は隣で、千紘の皿をちらちら見ていた。
「千紘さん、魚、骨あります?」
「あるよ。でも大丈夫」
「取ります?」
「晴臣くん、自分の食べて」
「はい」
千紘は少し笑って、自分の魚をきれいにほぐす。
晴臣はそれを見て、なぜか感心している。
「きれい……」
「魚の話だよね?」
「全部です」
「晴臣くん」
依央は味噌汁を飲みながら、内心でつっこんだ。
(朝から彼氏が全開。白石先輩も慣れてきてる。強い。俺は線香花火の一言でまだ死んでるのに、あっちは朝から魚で甘い。恋人、朝に強すぎ)
****
朝食のあと、四人は海沿いの小さな駅へ向かった。
保養所の最寄り駅から出る路面電車は、海を横に見ながら走る。古い車両で、窓が大きく、座席は少し固い。けれど、外には青い海が広がっていた。
「うわ、海近っ」
晴臣が窓に張りつきそうになる。
「子どもか」
依央が言うと、晴臣は振り返った。
「いや、これは見るだろ。千紘さん、見てください」
「うん、きれいだね」
千紘は晴臣の隣に座って、窓の外を見ていた。二人の肩が、自然に触れている。晴臣は気づいているのかいないのか、少しだけ背筋を伸ばしていた。
依央は向かいの席でそれを見た。
晴臣と千紘は、手を繋ごうとして繋ぐのではない。
座る時、歩く時、電車が揺れた時。どこか自然に近い。指先が触れても、お互いに驚かない。照れはする。でも、その照れさえもう二人のものになっている。
(恋人って、こういう距離なのか)
依央は思ってしまった。
その瞬間、燈真が隣に座った。
狭い座席のせいで、肩が近い。
依央は慌てて窓の外を見た。
(見るな。横を見るな。昨日の今日で隣はきつい。海沿い電車、情緒出しすぎ。俺の処理能力を超えるな)
****
電車がゆっくり動き出す。
海が窓いっぱいに広がった。
日差しが反射して、車内に白い光が揺れる。潮風が少し入り込み、依央の前髪をかすかに揺らした。
晴臣が窓の外を指す。
「千紘さん、あそこ船!」
「本当だ」
その時、電車が少し揺れた。
千紘の手が、晴臣の手に軽く触れる。晴臣はすぐに支えるように手を添えた。自然すぎて、声を出す隙もない。
千紘は小さく「ありがとう」と言い、晴臣は「いえ」と言う。
それだけ。
それだけなのに、依央は見てしまった。
そして、隣の燈真も同じところを見ていた。
ほんの一瞬。
燈真の視線が、晴臣と千紘の重なった手元に落ちる。
依央はそれに気づく。
(見た。久我くんも見た。手元。恋人の距離。はい、見ましたね。これは俺の勝ちでは? 何に勝ったか分からんけど、久我くんも意識した。勝った。たぶん勝った)
依央は少しだけ余裕を取り戻した。
横目で燈真を見る。
燈真は外を見ている。
その横顔はいつも通りに見える。でも、たぶんさっきの手元を見ていた。見ていたはずだ。
依央は内心で勝手に勝利宣言を立てた。
(よし。今日の俺、少し持ち直した。昨日の線香花火で撃たれたけど、ここで情報回収。久我くんも手を意識している。つまり、これは攻め時)
その瞬間、燈真が言った。
「花宮」
「はい」
「この場だけは、手つなぐか」
依央の勝利宣言は、海に落ちた。
「……はい?」
燈真は外を見たまま、短く続ける。
「揺れるし」
「揺れるし?」
「榎本たち、自然にやってるし」
「そこ見てたんですか」
「うん」
依央は息を吸った。
(負けた。早い。勝利、秒で終了。久我くんも意識した、で勝ったと思った俺が甘かった。誘ってきた。向こうから。しかもこの場だけって何。限定っぽくしてくるな。海沿い電車の手、何それ。ロマンが強い)
依央はちらっと前を見た。
晴臣と千紘は、こちらを見ていなかった。
いや、見ているかもしれない。けれど、囃し立てる気配はない。千紘は窓の外を見て、ほんの少しだけ微笑んでいる。晴臣は気づいているのか、気づいていないふりをしているのか、海へ向いたままだ。
優しい。
変に茶化されない分、余計に心臓に悪い。
「久我くん」
「何」
「この場だけ、というのは」
「この電車」
「限定が細かい」
「嫌ならいい」
依央はすぐに返せなかった。
嫌ではない。
それが一番まずい。
昨日の昼、燈真は「見られすぎ」と言った。夜には「可愛すぎ」「反則」と言った。今朝は普通の顔でご飯を食べていた。そして今、海沿いの電車で、この場だけ手を繋ぐかと言っている。
久我燈真という地味男は、夏休みに入ってから攻撃の種類が増えすぎている。
(嫌じゃない。嫌じゃないけど、ここで手を出したら、俺は何? 事故じゃない。足元でもない。水でもない。人混みでもない。電車の揺れ? いや、それは一応ある。でも、俺が選ぶことになる。うわ。きつ)
「……揺れるなら」
依央は小さく言った。
「安全のために」
「うん」
「この場だけ」
「うん」
「雑部として」
燈真が少しだけ依央を見た。
「電車、雑部?」
「今は合同親睦中なので」
「そっか」
信じていない声だった。
依央は、そっと手を出した。
燈真の手が、すぐ隣でそれを受け取る。
指先ではなく、手のひら。
雨上がりとも、プールとも、駅前の路地とも違う。
電車の揺れと、海の光と、隣の体温が混ざった手。
依央は窓の外を見た。
(はい、繋いだ。繋いでる。海沿い電車で。何これ。恋人っぽい。いや、この場だけ。安全のため。揺れるから。雑部……いや雑部は無理ある。俺の言い訳、線路から落ちてる)
燈真の手は、いつもより少しだけ力が弱い。
強く掴むわけではない。
でも、離さない。
電車が揺れるたび、手のひらの熱が少しだけ変わる。
前の席で、晴臣が窓の外を指している。
「千紘さん、次の駅、神社近いらしいです」
「おみくじ、引く?」
「引きます」
「晴臣くん、結果に一喜一憂しそう」
「します」
「言い切った」
その会話が、いつもより少し遠く聞こえた。
依央は自分の手元を見ないようにした。
見たら、たぶん終わる。
だけど、窓に映った。
海の光を受けたガラスに、並んで座る自分と燈真が薄く映っている。
その下で、手が繋がっている。
依央は一瞬、呼吸を忘れた。
(また映すな。ガラス、仕事しすぎ。これ、完全に恋人のやつじゃん。いや、違う。この場だけ。電車限定。安全。……でも、見た目が終わってる。俺の言い訳、車内アナウンスで否定されそう)
燈真が小さく言った。
「花宮」
「はい」
「顔」
「海が眩しくて」
「窓、反対」
「反射です」
「そっか」
依央は唇を結んだ。
燈真はそれ以上何も言わない。
ただ、手は離さなかった。
電車を降りる時、依央は少しだけ迷った。
この場だけ。
電車限定。
なら、ここで離すべきだ。
そう思った瞬間、燈真の指がゆっくり離れた。
手のひらが空く。
依央は、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまった。
(うわ。離れた。いや、約束通り。電車終わった。正しい。正しいのに、何でちょっと寂しいんだよ。だる。自分が一番だるい)
****
駅から神社までは、海沿いの坂道を少し歩く。
潮風が強くなり、坂の下には青い海が見えた。晴臣と千紘は自然に並んで歩いている。晴臣が車道側を歩き、千紘がそれに気づいて少し笑う。
依央はその後ろを歩きながら、まだ自分の手を意識していた。
手を繋いでいたのは、ほんの数駅分。
でも、残る。
燈真は隣で、何もなかったように歩いている。
本当に何もなかったのか。
そう思って横目で見ると、燈真の指先がほんの少し曲がっていた。
さっきまで依央の手を握っていた手。
依央は気づいてしまう。
(もしかして、久我くんも残ってる? いや、分からん。自意識。自意識だけど、今の手、ちょっと変じゃない? 俺だけじゃない? え、やば)
「花宮」
「はい」
「足元」
「見てます」
「見てない」
「手元は見てません」
「聞いてない」
依央は詰まった。
燈真が少しだけ笑った。
(くそ。今のは俺が悪い。手元って自分で言った。バレる。全部バレる。海風、助けて)
****
神社は、小さな岬の上にあった。
石段を上がると、海が見下ろせる。赤い鳥居の向こうに、青い空と白い雲が広がっていた。
晴臣は賽銭箱の前で、妙に真剣に手を合わせている。
依央が隣に立つ。
「何お願いしてんの」
「言ったらだめなやつ」
「珍しく真面目」
「俺だってたまには」
千紘は少し離れたところで、静かに手を合わせていた。その横顔が穏やかで、晴臣はまた見とれている。
依央はそれを見て、少しだけ笑った。
自分も手を合わせる。
願い事は、すぐには出てこない。
海合宿が楽しく終わりますように。
雑部がいい感じに続きますように。
晴臣と千紘がちゃんと笑っていられますように。
そこまで浮かんで、燈真の顔が出てきた。
依央は目を閉じたまま、少しだけ眉を寄せる。
(久我くんとのことは、何をお願いすればいいんだよ。進みたい? いや、どこへ。落としたい? まだ言う? 手、また繋ぎたい? ……それは、ちょっと思った。ちょっとだけ)
隣で、燈真が手を合わせる音がした。
依央は目を開けられなかった。
お参りのあと、四人でおみくじを引いた。
晴臣は小吉だった。
「微妙!」
千紘が笑う。
「いいじゃない。焦らず進め、って書いてある」
「焦ってないです」
「晴臣くん、さっき引く前に深呼吸してた」
「してました」
「焦ってる」
晴臣は紙を折りながら、少し照れていた。
千紘は末吉だった。
「待ち人、近くにあり」
晴臣が一瞬で反応した。
「近くにいます」
「晴臣くん」
「すみません」
でも千紘は少し嬉しそうだった。
依央は自分のおみくじを開いた。
小吉。
願望、焦らず少しずつ叶う。
待ち人、急がず近づく。
依央は紙を見つめた。
(何この地味に刺さる文。急がず近づく? 今の俺に言う? 神社、空気読みすぎ。やめろ)
燈真が横からのぞく。
「小吉」
「見ないでください」
「見えた」
「久我くんは?」
燈真は自分のおみくじを見せた。
吉。
縁、近きところにあり。
依央は無言になった。
燈真も少し黙った。
海風が、紙を揺らす。
「……近いですね」
依央が言う。
燈真は短く返した。
「うん」
「神社って、たまに雑ですね」
「そう?」
「近いとか、急がずとか、そういうの」
「花宮、気にしてる?」
「してません」
「してる顔」
「海風です」
「また?」
「万能なので」
燈真は少しだけ笑った。
晴臣と千紘は、少し離れた場所でおみくじを結んでいた。二人とも、こちらを見ても何も言わない。ただ、千紘が依央に気づいて、やわらかく微笑んだ。
見守られている。
茶化されていない。
それが、少しだけ胸に残る。
****
帰りの坂道では、もう手は繋がなかった。
けれど、依央はさっきの「この場だけ」が、手のひらに残っているのを感じていた。
この場だけ。
電車だけ。
そのはずなのに。
(この場だけ、って言ったのに、全然この場だけじゃない。残ってる。まだ手にある。久我くんのせい。いや、俺も手を出した。出したんだよな)
坂の途中で、海が大きく見えた。
青い。
眩しい。
夏は、まだ始まったばかりだった。
晴臣が前から振り返る。
「依央ー、駅まで競争する?」
「暑いから嫌」
「姫、体力!」
「姫は涼しげに歩く」
「さっき電車でめっちゃ固まってたくせに」
依央は一瞬で晴臣を見た。
「見てた?」
晴臣は目をそらした。
「ちょっとだけ」
「晴臣」
「でも何も言ってないだろ!」
千紘が晴臣の袖をそっと引いた。
「晴臣くん、そこまで」
「はい」
晴臣がすぐ黙る。
依央は千紘へ小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
千紘は微笑むだけだった。
燈真が隣でぼそっと言う。
「見られてたな」
「久我くんが言わないでください」
「この場だけだったし」
「その言い方、ずるいです」
「そう?」
「そうです」
燈真は少しだけ笑った。
依央は、また胸の奥が熱くなるのを感じた。
昨日、みんなに見られる海で、燈真だけを気にした。
夜、線香花火で、燈真の言葉に撃たれた。
今日は、恋人の手を見て、燈真とこの場だけ手を繋いだ。
ひとつずつ、夏が変な方向へ進んでいる。
(落とす側、どこ行った。いや、いる。まだいる。たぶん。だいぶ奥の方にいる)
****
駅に着くと、電車が来るまで少し時間があった。
ホームの向こうには海が見える。
依央は手すりに寄りかかり、風を受けた。
燈真が隣に立つ。
「花宮」
「はい」
「楽しい?」
依央は少しだけ考えた。
昨日も今日も、心臓には悪い。
かなり悪い。
でも、楽しいかどうかで言えば。
「……楽しいです」
燈真は、少しだけ目元をゆるめた。
「ならいい」
その短い言葉に、依央はもう大崩れしなかった。
ただ、ちゃんと受け取ってしまった。
(ならいい、か。うん。今のは、受け取る。悔しいけど、普通にうれしい)
海沿いのホームに、夏の風が吹く。
遠くで電車の音が近づいてくる。
依央は自分の手を、そっと握り直した。
この場だけだったはずの熱は、まだ消えていなかった。
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