19 / 23

第19話 海沿い電車と、この場だけの手

朝の海は、昨日より少しだけ静かだった。 保養所の食堂には、焼き魚と味噌汁の匂いがしている。窓の外では、海が白く光っていた。夜の線香花火の小さな火も、燈真の声も、寝たら少しは薄まると思っていた。 まったく薄まっていない。 依央は箸を持ったまま、向かいの席の久我燈真を見ないようにしていた。 (可愛すぎ。反則。朝になっても残ってる。何あれ。線香花火より長持ちしてる。普通、寝たら落ち着くだろ。俺の心臓、保養所の朝食まで引っ張るな) 燈真は普通の顔でご飯を食べている。 その普通さが、逆に腹立つ。 昨日、あんなことを言った人間の顔ではない。いや、燈真ならそういう顔をする。短く刺して、何でもないみたいにいる。ひどい。 晴臣は隣で、千紘の皿をちらちら見ていた。 「千紘さん、魚、骨あります?」 「あるよ。でも大丈夫」 「取ります?」 「晴臣くん、自分の食べて」 「はい」 千紘は少し笑って、自分の魚をきれいにほぐす。 晴臣はそれを見て、なぜか感心している。 「きれい……」 「魚の話だよね?」 「全部です」 「晴臣くん」 依央は味噌汁を飲みながら、内心でつっこんだ。 (朝から彼氏が全開。白石先輩も慣れてきてる。強い。俺は線香花火の一言でまだ死んでるのに、あっちは朝から魚で甘い。恋人、朝に強すぎ) **** 朝食のあと、四人は海沿いの小さな駅へ向かった。 保養所の最寄り駅から出る路面電車は、海を横に見ながら走る。古い車両で、窓が大きく、座席は少し固い。けれど、外には青い海が広がっていた。 「うわ、海近っ」 晴臣が窓に張りつきそうになる。 「子どもか」 依央が言うと、晴臣は振り返った。 「いや、これは見るだろ。千紘さん、見てください」 「うん、きれいだね」 千紘は晴臣の隣に座って、窓の外を見ていた。二人の肩が、自然に触れている。晴臣は気づいているのかいないのか、少しだけ背筋を伸ばしていた。 依央は向かいの席でそれを見た。 晴臣と千紘は、手を繋ごうとして繋ぐのではない。 座る時、歩く時、電車が揺れた時。どこか自然に近い。指先が触れても、お互いに驚かない。照れはする。でも、その照れさえもう二人のものになっている。 (恋人って、こういう距離なのか) 依央は思ってしまった。 その瞬間、燈真が隣に座った。 狭い座席のせいで、肩が近い。 依央は慌てて窓の外を見た。 (見るな。横を見るな。昨日の今日で隣はきつい。海沿い電車、情緒出しすぎ。俺の処理能力を超えるな) **** 電車がゆっくり動き出す。 海が窓いっぱいに広がった。 日差しが反射して、車内に白い光が揺れる。潮風が少し入り込み、依央の前髪をかすかに揺らした。 晴臣が窓の外を指す。 「千紘さん、あそこ船!」 「本当だ」 その時、電車が少し揺れた。 千紘の手が、晴臣の手に軽く触れる。晴臣はすぐに支えるように手を添えた。自然すぎて、声を出す隙もない。 千紘は小さく「ありがとう」と言い、晴臣は「いえ」と言う。 それだけ。 それだけなのに、依央は見てしまった。 そして、隣の燈真も同じところを見ていた。 ほんの一瞬。 燈真の視線が、晴臣と千紘の重なった手元に落ちる。 依央はそれに気づく。 (見た。久我くんも見た。手元。恋人の距離。はい、見ましたね。これは俺の勝ちでは? 何に勝ったか分からんけど、久我くんも意識した。勝った。たぶん勝った) 依央は少しだけ余裕を取り戻した。 横目で燈真を見る。 燈真は外を見ている。 その横顔はいつも通りに見える。でも、たぶんさっきの手元を見ていた。見ていたはずだ。 依央は内心で勝手に勝利宣言を立てた。 (よし。今日の俺、少し持ち直した。昨日の線香花火で撃たれたけど、ここで情報回収。久我くんも手を意識している。つまり、これは攻め時) その瞬間、燈真が言った。 「花宮」 「はい」 「この場だけは、手つなぐか」 依央の勝利宣言は、海に落ちた。 「……はい?」 燈真は外を見たまま、短く続ける。 「揺れるし」 「揺れるし?」 「榎本たち、自然にやってるし」 「そこ見てたんですか」 「うん」 依央は息を吸った。 (負けた。早い。勝利、秒で終了。久我くんも意識した、で勝ったと思った俺が甘かった。誘ってきた。向こうから。しかもこの場だけって何。限定っぽくしてくるな。海沿い電車の手、何それ。ロマンが強い) 依央はちらっと前を見た。 晴臣と千紘は、こちらを見ていなかった。 いや、見ているかもしれない。けれど、囃し立てる気配はない。千紘は窓の外を見て、ほんの少しだけ微笑んでいる。晴臣は気づいているのか、気づいていないふりをしているのか、海へ向いたままだ。 優しい。 変に茶化されない分、余計に心臓に悪い。 「久我くん」 「何」 「この場だけ、というのは」 「この電車」 「限定が細かい」 「嫌ならいい」 依央はすぐに返せなかった。 嫌ではない。 それが一番まずい。 昨日の昼、燈真は「見られすぎ」と言った。夜には「可愛すぎ」「反則」と言った。今朝は普通の顔でご飯を食べていた。そして今、海沿いの電車で、この場だけ手を繋ぐかと言っている。 久我燈真という地味男は、夏休みに入ってから攻撃の種類が増えすぎている。 (嫌じゃない。嫌じゃないけど、ここで手を出したら、俺は何? 事故じゃない。足元でもない。水でもない。人混みでもない。電車の揺れ? いや、それは一応ある。でも、俺が選ぶことになる。うわ。きつ) 「……揺れるなら」 依央は小さく言った。 「安全のために」 「うん」 「この場だけ」 「うん」 「雑部として」 燈真が少しだけ依央を見た。 「電車、雑部?」 「今は合同親睦中なので」 「そっか」 信じていない声だった。 依央は、そっと手を出した。 燈真の手が、すぐ隣でそれを受け取る。 指先ではなく、手のひら。 雨上がりとも、プールとも、駅前の路地とも違う。 電車の揺れと、海の光と、隣の体温が混ざった手。 依央は窓の外を見た。 (はい、繋いだ。繋いでる。海沿い電車で。何これ。恋人っぽい。いや、この場だけ。安全のため。揺れるから。雑部……いや雑部は無理ある。俺の言い訳、線路から落ちてる) 燈真の手は、いつもより少しだけ力が弱い。 強く掴むわけではない。 でも、離さない。 電車が揺れるたび、手のひらの熱が少しだけ変わる。 前の席で、晴臣が窓の外を指している。 「千紘さん、次の駅、神社近いらしいです」 「おみくじ、引く?」 「引きます」 「晴臣くん、結果に一喜一憂しそう」 「します」 「言い切った」 その会話が、いつもより少し遠く聞こえた。 依央は自分の手元を見ないようにした。 見たら、たぶん終わる。 だけど、窓に映った。 海の光を受けたガラスに、並んで座る自分と燈真が薄く映っている。 その下で、手が繋がっている。 依央は一瞬、呼吸を忘れた。 (また映すな。ガラス、仕事しすぎ。これ、完全に恋人のやつじゃん。いや、違う。この場だけ。電車限定。安全。……でも、見た目が終わってる。俺の言い訳、車内アナウンスで否定されそう) 燈真が小さく言った。 「花宮」 「はい」 「顔」 「海が眩しくて」 「窓、反対」 「反射です」 「そっか」 依央は唇を結んだ。 燈真はそれ以上何も言わない。 ただ、手は離さなかった。 電車を降りる時、依央は少しだけ迷った。 この場だけ。 電車限定。 なら、ここで離すべきだ。 そう思った瞬間、燈真の指がゆっくり離れた。 手のひらが空く。 依央は、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまった。 (うわ。離れた。いや、約束通り。電車終わった。正しい。正しいのに、何でちょっと寂しいんだよ。だる。自分が一番だるい) **** 駅から神社までは、海沿いの坂道を少し歩く。 潮風が強くなり、坂の下には青い海が見えた。晴臣と千紘は自然に並んで歩いている。晴臣が車道側を歩き、千紘がそれに気づいて少し笑う。 依央はその後ろを歩きながら、まだ自分の手を意識していた。 手を繋いでいたのは、ほんの数駅分。 でも、残る。 燈真は隣で、何もなかったように歩いている。 本当に何もなかったのか。 そう思って横目で見ると、燈真の指先がほんの少し曲がっていた。 さっきまで依央の手を握っていた手。 依央は気づいてしまう。 (もしかして、久我くんも残ってる? いや、分からん。自意識。自意識だけど、今の手、ちょっと変じゃない? 俺だけじゃない? え、やば) 「花宮」 「はい」 「足元」 「見てます」 「見てない」 「手元は見てません」 「聞いてない」 依央は詰まった。 燈真が少しだけ笑った。 (くそ。今のは俺が悪い。手元って自分で言った。バレる。全部バレる。海風、助けて) **** 神社は、小さな岬の上にあった。 石段を上がると、海が見下ろせる。赤い鳥居の向こうに、青い空と白い雲が広がっていた。 晴臣は賽銭箱の前で、妙に真剣に手を合わせている。 依央が隣に立つ。 「何お願いしてんの」 「言ったらだめなやつ」 「珍しく真面目」 「俺だってたまには」 千紘は少し離れたところで、静かに手を合わせていた。その横顔が穏やかで、晴臣はまた見とれている。 依央はそれを見て、少しだけ笑った。 自分も手を合わせる。 願い事は、すぐには出てこない。 海合宿が楽しく終わりますように。 雑部がいい感じに続きますように。 晴臣と千紘がちゃんと笑っていられますように。 そこまで浮かんで、燈真の顔が出てきた。 依央は目を閉じたまま、少しだけ眉を寄せる。 (久我くんとのことは、何をお願いすればいいんだよ。進みたい? いや、どこへ。落としたい? まだ言う? 手、また繋ぎたい? ……それは、ちょっと思った。ちょっとだけ) 隣で、燈真が手を合わせる音がした。 依央は目を開けられなかった。 お参りのあと、四人でおみくじを引いた。 晴臣は小吉だった。 「微妙!」 千紘が笑う。 「いいじゃない。焦らず進め、って書いてある」 「焦ってないです」 「晴臣くん、さっき引く前に深呼吸してた」 「してました」 「焦ってる」 晴臣は紙を折りながら、少し照れていた。 千紘は末吉だった。 「待ち人、近くにあり」 晴臣が一瞬で反応した。 「近くにいます」 「晴臣くん」 「すみません」 でも千紘は少し嬉しそうだった。 依央は自分のおみくじを開いた。 小吉。 願望、焦らず少しずつ叶う。 待ち人、急がず近づく。 依央は紙を見つめた。 (何この地味に刺さる文。急がず近づく? 今の俺に言う? 神社、空気読みすぎ。やめろ) 燈真が横からのぞく。 「小吉」 「見ないでください」 「見えた」 「久我くんは?」 燈真は自分のおみくじを見せた。 吉。 縁、近きところにあり。 依央は無言になった。 燈真も少し黙った。 海風が、紙を揺らす。 「……近いですね」 依央が言う。 燈真は短く返した。 「うん」 「神社って、たまに雑ですね」 「そう?」 「近いとか、急がずとか、そういうの」 「花宮、気にしてる?」 「してません」 「してる顔」 「海風です」 「また?」 「万能なので」 燈真は少しだけ笑った。 晴臣と千紘は、少し離れた場所でおみくじを結んでいた。二人とも、こちらを見ても何も言わない。ただ、千紘が依央に気づいて、やわらかく微笑んだ。 見守られている。 茶化されていない。 それが、少しだけ胸に残る。 **** 帰りの坂道では、もう手は繋がなかった。 けれど、依央はさっきの「この場だけ」が、手のひらに残っているのを感じていた。 この場だけ。 電車だけ。 そのはずなのに。 (この場だけ、って言ったのに、全然この場だけじゃない。残ってる。まだ手にある。久我くんのせい。いや、俺も手を出した。出したんだよな) 坂の途中で、海が大きく見えた。 青い。 眩しい。 夏は、まだ始まったばかりだった。 晴臣が前から振り返る。 「依央ー、駅まで競争する?」 「暑いから嫌」 「姫、体力!」 「姫は涼しげに歩く」 「さっき電車でめっちゃ固まってたくせに」 依央は一瞬で晴臣を見た。 「見てた?」 晴臣は目をそらした。 「ちょっとだけ」 「晴臣」 「でも何も言ってないだろ!」 千紘が晴臣の袖をそっと引いた。 「晴臣くん、そこまで」 「はい」 晴臣がすぐ黙る。 依央は千紘へ小さく頭を下げた。 「ありがとうございます」 千紘は微笑むだけだった。 燈真が隣でぼそっと言う。 「見られてたな」 「久我くんが言わないでください」 「この場だけだったし」 「その言い方、ずるいです」 「そう?」 「そうです」 燈真は少しだけ笑った。 依央は、また胸の奥が熱くなるのを感じた。 昨日、みんなに見られる海で、燈真だけを気にした。 夜、線香花火で、燈真の言葉に撃たれた。 今日は、恋人の手を見て、燈真とこの場だけ手を繋いだ。 ひとつずつ、夏が変な方向へ進んでいる。 (落とす側、どこ行った。いや、いる。まだいる。たぶん。だいぶ奥の方にいる) **** 駅に着くと、電車が来るまで少し時間があった。 ホームの向こうには海が見える。 依央は手すりに寄りかかり、風を受けた。 燈真が隣に立つ。 「花宮」 「はい」 「楽しい?」 依央は少しだけ考えた。 昨日も今日も、心臓には悪い。 かなり悪い。 でも、楽しいかどうかで言えば。 「……楽しいです」 燈真は、少しだけ目元をゆるめた。 「ならいい」 その短い言葉に、依央はもう大崩れしなかった。 ただ、ちゃんと受け取ってしまった。 (ならいい、か。うん。今のは、受け取る。悔しいけど、普通にうれしい) 海沿いのホームに、夏の風が吹く。 遠くで電車の音が近づいてくる。 依央は自分の手を、そっと握り直した。 この場だけだったはずの熱は、まだ消えていなかった。

ともだちにシェアしよう!