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第20話 花壇の水やりと、浴衣を着るか問題

夏休みの白鷺坂高校は、昼を過ぎると少しだけ静かになる。 部活の声は遠く、蝉の声は近い。校舎の影に入っても、空気はまだ熱を持っている。花壇の土は乾き気味で、雑部の今日の仕事は、正門横と旧校舎前の花壇に水をやることだった。 依央はジャージの袖をまくり、ホースの先を持っていた。 「暑い」 晴臣が隣でタオルを首にかけながら言う。 「夏なので」 「依央、そういう正論やめろ。暑さが増す」 「晴臣のやる気が少ないから、花も困ってる」 「花にまで評価されるの嫌なんだけど」 燈真は蛇口の方でホースを調整している。 「出す」 「はい」 水が勢いよく流れ、依央の手元でホースが少し跳ねた。 花壇の土に水が染みていく。濡れた土の匂いが、夏の空気に混ざった。 (花壇の水やり。地味。かなり地味。でも、海のあとだと、この地味さが逆に落ち着く。いや、落ち着いてない。海沿い電車の手、まだ残ってる。線香花火の反則も残ってる。俺の夏、記憶の荷物が多すぎ) 依央はホースの水を花の根元へ向けた。 燈真が隣へ来る。 「強い」 「え?」 「水」 「あ、はい」 依央が少し手元を下げると、水の勢いがやわらいだ。 燈真の指が、一瞬だけホースに触れる。 依央は平気な顔を作った。 (手元、近い。はいはい、近いですね。もうこのくらいで大崩れはしません。俺は成長した姫。……でも触れたのは分かった。分かるな。だる) 晴臣が花壇の縁に座りかけて、依央ににらまれた。 「座らない」 「まだ座ってない」 「座る顔してた」 「顔で全部バレる学校じゃん」 「晴臣は顔に出すぎ」 「お前も最近出てるけどな」 依央はホースを晴臣へ向けた。 「水圧チェックする?」 「しないです」 燈真が少し笑った。 その笑い方を見て、依央はわざと花壇へ視線を戻した。 (見ない。今の笑い方、見ない。俺は花に水をやる。心には水をやらない。勝手に育つから) **** 花壇の水やりが半分ほど終わった頃、晴臣が急に咳払いをした。 「そういえば」 依央は嫌な予感がした。 「何」 「花火大会、行くことになった」 「へえ」 「千紘さんと」 依央は水を止めた。 燈真も少しだけ顔を上げる。 晴臣は顔を赤くしながらも、なぜか誇らしげだった。 「何、その顔」 「言わされた感はあるけど、言ったら言ったで嬉しい顔」 「自己分析が細かい」 「千紘さん、浴衣着るって」 晴臣はそこで完全にだらしない顔になった。 依央は静かに言った。 「晴臣」 「はい」 「語彙、先に供養しておく?」 「まだ生きてる」 「当日まで持つ?」 「分からん」 燈真がぼそっと言う。 「無理そう」 「久我まで!?」 依央は笑いながらも、少しだけ胸の奥がざわついた。 花火大会。 浴衣。 千紘が晴臣に見せるために着る。 海の買い物の時、千紘が晴臣の顔を思い浮かべながら水着を選んでいたことを思い出す。 誰に見られたいか。 その言葉が、土に染みた水みたいに、じわっと戻ってきた。 (白石先輩、あの時、晴臣のこと考えてた。水着も、花火の浴衣も。そういうの、いいなって思った。……思ったけど。俺は別に。別に、久我くんに見られたいとか、そういう) ホースからぽたぽたと水が落ちる。 晴臣がにやっとした。 「で、お前たちは?」 依央は顔を上げた。 「俺たち?」 「花火大会。行くの?」 「俺たちは別に」 燈真は興味がなさそうに花壇を見ている。 その横顔を見て、依央は少しだけ喉が詰まった。 誘うなら、今だ。 でも理由がいる。 理由。 雑部として。地域行事として。人の流れ。駅前の確認。花壇ではないけど、学校周辺の活動ということで。 (苦しい。理由が全部苦しい。でも、誘いたい。何で? 知らん。花火大会だから。夏だから。浴衣だから。……久我くんが行くなら、俺も行きたいから。うわ、今のは消せ) 依央はホースを置いて、どうにか普通の顔を作った。 「久我くん」 「何」 「花火大会、行きます?」 燈真が依央を見る。 「花宮は?」 「俺は、まあ」 「まあ?」 「雑部として、地域行事の確認も必要かなって」 晴臣が吹き出した。 「花火大会を?」 依央は晴臣を見ない。 「人の流れとか」 「無理あるな」 「晴臣は黙って浴衣の幻覚見てて」 「もう見てる」 「見てるな」 燈真は少しだけ依央を見たまま、短く言った。 「花宮が行くなら」 依央は返事に詰まった。 「……来るんですか」 「うん」 「本当に?」 「花宮が誘った」 「誘いましたけど」 「なら行く」 その声は、何でもないみたいに静かだった。 でも、依央の中では全然何でもなくない。 (来る。久我くん、来る。花宮が行くなら、で来る。何それ。地域行事の確認、どこ行った。もう確認するの俺の心臓じゃん。終わった) 晴臣は満足そうに腕を組んだ。 「よし」 「晴臣、何その顔」 「いや、いい流れだなって」 「実況するな」 「それで、依央は浴衣?」 依央は固まった。 「は?」 「千紘さんは浴衣。依央も着たら?」 「何で俺まで」 「男子校の姫だろ」 「その肩書き、こういう時だけ使うな」 晴臣はそこで、燈真の方を見た。 「お前も、依央の浴衣姿見たいよな」 空気が止まった。 依央はホースを握ったまま、晴臣を見た。 (晴臣。お前。何を。急に何を投げた。花壇に爆弾を置くな) 燈真は少しだけ依央を見た。 視線が、顔からジャージ、そしてまた顔へ戻る。 短い沈黙。 それから、燈真は言った。 「見たい」 依央は息を止めた。 「……見たい?」 「うん」 「俺の浴衣を?」 「うん」 「そんな即答あります?」 「だめ?」 だめではない。 だめではないから困る。 晴臣は横で、完全に勝った顔をしていた。 (何この流れ。いつの間にか浴衣で行くことになってる。見たいって言われた。久我くんが。海の時は水着を反則って言って、今度は浴衣を見たいって。俺、夏に何回撃たれるの? 耐久テスト?) 依央は水やり用のホースを見た。 花壇の土は、いい感じに湿っている。 自分の方がよほど乾いていない。変な汗が出ている。 「……別に、浴衣を着たかっただけなので」 晴臣が即座に言った。 「まだ誰も何も言ってない」 「先に言っただけ」 「強がり早いな」 「晴臣」 「はい」 「水圧」 「ごめん」 燈真は少しだけ笑っている。 依央はその笑い方が見えないふりをした。 でも、心の底では嬉しかった。 見たい。 そう言われたことが、信じられないくらい嬉しい。 (白石先輩が水着を選ぶ時、晴臣を思い浮かべてたの、ちょっと分かった気がする。見られたい相手がいる服って、こんなに面倒で、こんなに嬉しいのか。……久我くんだったら、見られたい。いや、今のはアウト。今のはかなりアウト) 残りの花壇に水をやりながら、依央は何度も浴衣のことを考えないようにした。 無理だった。 浴衣。 花火。 燈真が見る。 「見たい」と言った。 全部が頭の中で勝手に並ぶ。 (だめだ。花に水をやってる場合じゃない。いや、やるけど。花壇、今だけ俺の平静を支えてくれ。咲け。強く咲け) **** 作業が終わる頃、夕方の風が少しだけ涼しくなった。 晴臣はホースを片づけながら、満足そうだった。 「これで花火大会、四人か」 「晴臣と白石先輩、俺と久我くん、みたいに言うな」 「実際そうじゃん」 「違います」 「違うの?」 依央は答えに詰まった。 燈真が蛇口を閉める音がした。 晴臣はそれ以上つっこまず、タオルで首を拭いた。 依央は少しだけ迷ってから、晴臣へ近づいた。 「晴臣」 「何」 「……なんか、ありがとう」 晴臣は一瞬きょとんとした。 それから、すぐに得意げな顔になる。 「借りは返したぜ」 依央は眉を寄せた。 「かっこつけるな」 「海の時、千紘さん誘ってくれただろ」 「頼まれたから」 「今回は俺が押した」 「押し方が雑」 「でも効いた」 依央は言い返せなかった。 実際、効いた。 かなり効いた。 「別に、浴衣を着たかっただけだから」 晴臣はにやっと笑った。 「そういうことにしておく」 「むかつく」 「はいはい」 晴臣は楽しそうに笑う。 依央は少しだけ顔をそらした。 むかつく。 でも、ありがたい。 そう思ってしまったのが、さらにむかつく。 **** 燈真が片づけを終えて、二人のところへ戻ってきた。 「終わった?」 「はい」 「花宮」 「何ですか」 「浴衣、楽しみにしてる」 依央の心臓が、また跳ねた。 晴臣が横で吹き出しかけて、千紘がいないのに口を押さえた。 依央はどうにか外向きの顔を作る。 「期待しすぎないでください」 「無理」 「なぜ」 「見たいから」 依央はホースの巻き終わりを見つめた。 (久我くん、今日、学習しすぎ。最初から褒める方向に進化してる。やめろ。いや、やめないで。どっちだよ) 蝉の声が、少しだけ遠くなる。 夕方の光が花壇の水を反射して、きらっと光った。 依央はその光を見ながら、息を整える。 花火大会。 浴衣。 燈真が見たいと言った。 それだけで、夏の続きが急に近くなる。 (これは、雑部の地域行事確認。そういうことにしておく。晴臣にも、俺にも) でも本当は、もう分かっていた。 理由なんて、かなり苦しい。 それでも、行きたい。 燈真に見られるなら、浴衣だって、たぶん着たい。 依央はホースを持ち上げ、晴臣へ押しつけた。 「片づけ、晴臣」 「何で俺?」 「借りを返したなら、追加で働けるでしょ」 「それ借り返済後の追加請求じゃん!」 「幼馴染価格」 「また出た!」 燈真が横で静かに笑っている。 依央はその笑い方を見て、少しだけ口元をゆるめた。 夏の花壇に、ぬるい風が通る。 浴衣を着る理由は、まだ苦しいまま。 けれど、胸の奥だけは、もう少しだけ先へ行きたがっていた。

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