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第21話 夏祭り、浴衣、縁日の距離

白鷺坂駅前の夏祭りは、夕方からすでに人でいっぱいだった。 駅前通りには提灯が並び、屋台の明かりが少しずつ濃くなっている。焼きそばの匂い、甘いりんご飴の匂い、遠くから聞こえる太鼓の音。浴衣姿の人たちが行き交うたび、夏の夜がひらひら揺れて見えた。 依央は駅前の時計台の下で、浴衣の袖をそっと直した。 白地に淡い水色の柄。甘すぎないけれど、ちゃんと目を引く。帯は涼しげな薄青。髪もいつもより少しだけ整えている。 男子校の姫として、かなり正解。 かなり正解、のはずだった。 (やば。落ち着かない。浴衣、思ったより落ち着かない。歩き方も袖も全部いつもと違う。しかも久我くんに見られる。見たいって言われた。いや、俺が着たかっただけ。そういうことにしておく。晴臣方式) 人の流れの向こうから、晴臣が先にやって来た。 その隣に、千紘がいる。 薄い青灰色の浴衣姿で、いつもの清楚さが夜の提灯に溶けていた。晴臣はもう完全に顔がゆるい。 「千紘さん、やばい」 「晴臣くん、さっきからそれしか言ってない」 「語彙が」 「花宮くんの言った通りだね」 千紘が依央を見て、ふわっと笑った。 「花宮くん、浴衣、すごく似合ってる」 「ありがとうございます。白石先輩も、晴臣が終わるの分かります」 「花宮くん」 晴臣が小声で言う。 「もう終わってる」 「知ってる」 「依央も似合ってるぞ」 「幼馴染の雑な褒め、どうも」 「雑じゃねえし」 その時、燈真が人の流れの向こうから歩いてきた。 黒っぽい甚平に近い涼しげな服装で、いつもより少しだけ夏祭りらしい。派手ではない。けれど、夜の屋台の明かりの中に立つと、学校で見るよりずっと近く感じる。 依央は思わず視線をそらしかけた。 その前に、燈真の目が依央を見た。 一瞬、止まる。 顔、浴衣、袖、帯。 それから、ちゃんと目が戻ってくる。 「似合ってる」 依央は固まった。 「……早くないですか」 「言っといた方がいいと思って」 「誰に教わったんですか」 「見たから」 「答えになってません」 「似合ってる」 燈真はもう一回、同じことを言った。 依央の中で、何かが跳ねた。 キュン♡ (待って。最初から来た。しかも二回。久我くん、学習してる。俺が欲しい言葉を最初に出すな。こっちの心臓が不利。浴衣で勝つつもりだったのに、開幕で撃たれた) 依央はどうにか笑顔を作った。 「ありがとうございます」 「うん」 「久我くんも、似合ってます」 燈真は少しだけ目を伏せた。 「そっか」 それだけなのに、依央は見逃さなかった。 (今、ちょっと照れた? 照れたよな。よし。少し取り返した。浴衣戦、まだ終わってない。終わってないけど、俺の方が先に撃たれてる。配点おかしい) 晴臣がにやにやしかけたところで、千紘がそっと袖を引いた。 「晴臣くん、屋台見に行こう」 「はい」 晴臣はすぐに千紘の隣へ戻った。 えらい。 たぶん千紘がえらい。 **** 四人は屋台の並ぶ通りへ歩き出した。 最初に晴臣が金魚すくいを見つけた。 「やろうぜ」 「晴臣、いきなり小学生」 「夏祭りは小学生に戻っていい日だろ」 「そんなルールある?」 千紘が笑って、晴臣の横にしゃがむ。 依央も隣に座った。 「俺、こういうの得意そうに見えるでしょ」 晴臣が言う。 「見えない」 「即答やめろ」 依央はポイを受け取り、金魚の動きを見た。 姫として、ここは美しくすくいたい。 水面に袖がつかないように気をつけながら、すっと狙う。 破れた。 「早」 晴臣が言った。 依央は静かにポイの残骸を見つめる。 (え。今の何。俺の姫力、水に溶けた? 金魚、動き読めない。男子校の姫、金魚には効かない。終わった) 燈真が隣で、何も言わずにポイを取った。 水面を見る。 一回。 二回。 小さな赤い金魚が、あっさり器に入った。 依央は燈真を見た。 「久我くん」 「何」 「金魚にも強いんですか」 「たまたま」 「たまたまでその低燃費は腹立ちます」 「いる?」 燈真が器を少し差し出す。 金魚が水の中で小さく揺れている。 依央は一瞬、受け取るか迷った。 「……自分で取りたかったです」 「じゃあ、もう一回」 「次、破れたら久我くんのせいにします」 「何で」 「隣で成功するから」 燈真は少し笑った。 その笑い方が、屋台の光でやわらかく見えた。 **** 次は射的だった。 晴臣は千紘にいいところを見せようとして、一発目から外した。 「今のは調整」 「晴臣くん、頑張って」 「はい、頑張ります」 千紘の応援で、晴臣は逆に力んでいた。 依央は銃を持ち、的を見た。 ここは落ち着いていきたい。 浴衣で射的。絵としては悪くない。むしろ強い。 そう思った瞬間、燈真が少し後ろに立った。 「肩」 「え」 「力、入ってる」 燈真の手が、依央の肩の近くに来る。 触れるか触れないか。 距離が近い。 背中に、燈真の気配がある。 「肘、もう少し下」 声が耳に近い。 依央は的を見ているはずなのに、全然見えていない。 (無理。射的の的、消えた。久我くんの声が近い。後ろにいる。浴衣の時に後ろはだめ。これ、射的じゃなくて俺が撃たれてる) 「花宮」 「はい」 「的、そこじゃない」 「見えてます」 「銃、少し上向いてる」 「わざとです」 「何を狙ってる?」 依央は黙った。 燈真が小さく笑う。 依央は息を整えて撃った。 弾は的の横を抜けた。 晴臣が笑いそうになり、千紘に見られて止まった。 「惜しい」 燈真が言う。 「惜しくないです」 「もう一回?」 「やります」 次は、燈真に何も言われないように構える。 けれど、背中の気配が残っていて、結局また少し外した。 (射的、だめ。久我くんが後ろにいると全部だめ。俺の集中力、浴衣の袖より薄い) **** そのあと、りんご飴の屋台へ向かった。 赤くつやつやした飴が、提灯の明かりを受けて光っている。依央が一本取ると、晴臣がすぐに言った。 「似合うな」 「りんご飴が?」 「浴衣とりんご飴。姫っぽい」 「晴臣に言われると雑」 「褒めてるって」 千紘も小さく笑う。 「花宮くん、写真みたい」 依央は軽く笑って受け流した。 こういう視線には慣れている。 褒められることも、似合うと言われることも、昔からある。 でも、燈真が少し黙っているのが気になった。 横を見ると、燈真は依央の持つりんご飴を見ていた。 いや、違う。 りんご飴と浴衣姿の依央を、まとめて見ていた。 ほんの少しだけ、言葉が遅れている。 依央は内心で固まった。 (見てる。今、久我くん、普通に見てる。りんご飴? 浴衣? どっち? どっちでもやばい。何か言え。いや言うな。言ったら死ぬ) 「赤」 燈真が言った。 依央は思わず聞き返した。 「赤?」 「似合う」 短い。 かなり短い。 でも、燈真の目が少しだけ逸れていた。 依央はりんご飴を持つ手を下げた。 「……ありがとうございます」 「うん」 (耐えた。今の耐えた。偉い。俺は成長している。でも顔が熱い。りんご飴のせい。赤のせい。久我くんのせい。全部のせい) **** 屋台通りは、夜が深くなるほど人が増えた。 花火の時間が近づいているせいか、人の流れが駅前から河川敷の方へ向かっている。 晴臣と千紘は少し前を歩いていた。晴臣は人の流れに気をつけながら、自然に千紘の近くを歩いている。千紘も、はぐれないように袖を少しだけ晴臣の方へ寄せている。 依央はそれを見て、また少しだけ意識してしまう。 恋人の距離。 自然な近さ。 その時、人の流れが急に押し寄せた。 依央の足元が少し乱れる。 浴衣の裾がいつもより動きにくい。 「花宮」 燈真の手が、依央の腕を軽く引いた。 体が燈真の方へ寄る。 すぐ近く。 肩が触れそうな距離。 「こっち」 「大丈夫です」 「離れるな」 低い声だった。 依央は息を止めた。 「迷子対策ですか」 「うん」 「俺、迷子になりません」 「人、多い」 「それはそうですけど」 燈真は人の流れを見ている。 でも、手は依央の腕から離れない。 強く掴んでいるわけではない。威圧もない。ただ、そこにいろと言うみたいに、近くへ置かれている。 依央は、どうにか平静を保とうとした。 (迷子対策。そう、迷子対策。浴衣で人混み、危ないから。久我くんは周りを見てるだけ。いつもの判断力。……でも、これ、ちょっと違くない? 俺が見られるの嫌とか、そういうのも入ってたりする? いや、自意識。自意識だけど、さっきから距離近い。離れるなって何。好きなのかも、とか思うな。思ったら終わる) 燈真がこちらを見た。 「何」 「いえ」 「顔」 「人混みの熱気です」 「暑い?」 「暑いです」 「なら、こっち」 また少し、燈真の方へ寄せられる。 依央は言葉を失った。 (だから、近い。こっち、が近い。暑いなら離すんじゃないの? 何で寄せるの? 久我くん、距離の計算どうなってる? 俺の心臓にだけ厳しい) 前を歩く晴臣が一度振り返った。 依央と燈真の距離を見て、口を開きかける。 千紘がにこっと笑って、晴臣の袖を引いた。 晴臣はすぐ前を向いた。 えらい。 やっぱり千紘がえらい。 依央はそれを見て、少しだけ助かったような、もっと恥ずかしいような気持ちになった。 人混みを抜けると、少しだけ広い通りに出た。 燈真の手が離れる。 離れた瞬間、依央は自分の腕がさっきまで熱かったことに気づいた。 「……ありがとうございます」 「うん」 「迷子対策として」 「うん」 「ですよね」 燈真は少しだけ間を置いた。 「それだけじゃないかも」 依央は固まった。 「……はい?」 燈真はもう前を向いている。 「何でもない」 「久我くん」 「花火、そろそろ」 「今の置いていくんですか」 「うん」 「ひどい」 燈真は少しだけ笑った。 依央は、もう完全に処理できなかった。 (それだけじゃないかも? 何それ。何を置いていった? 迷子対策だけじゃないって何。好きなのかも? いやいやいや、飛びすぎ。落ち着け。まだ夏祭り。まだ花火前。俺の脳内だけ先に打ち上がるな) **** 河川敷へ向かう道は、提灯の明かりから少しずつ暗くなっていく。 遠くで、花火前のアナウンスが聞こえた。 晴臣と千紘が少し前で並び、依央と燈真がその後ろを歩く。 依央は浴衣の袖を握った。 今日、燈真は最初から似合ってると言った。 射的で近くに立った。 りんご飴の赤を似合うと言った。 人混みで、離れるなと言った。 それだけじゃないかも、とも言った。 (夏祭り、怖い。海とは違う。水着より布は多いのに、心臓への攻撃は増えてる。浴衣、恐ろしい) でも、嫌ではない。 むしろ、胸の奥が少し浮いている。 それが一番、まずい。 晴臣が前から振り返る。 「依央、花火始まるぞ」 「分かってる」 「顔、ちょっと楽しそう」 「夏祭りなので」 「そういうことにしておく」 依央は晴臣をにらんだ。 「むかつく」 晴臣は笑って、千紘の隣へ戻った。 燈真が隣で言う。 「楽しそう」 「久我くんまで」 「違う?」 依央は少しだけ黙った。 そして、小さく息を吐いた。 「……違わないです」 燈真は、少しだけ目元をゆるめた。 「ならいい」 その言葉を、依央は今度もちゃんと受け取ってしまった。 夜空の向こうで、最初の花火が上がる音がした。 まだ光は見えない。 でも、夏の続きが、すぐそこまで来ていた。

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