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第22話 花火の下、照らされた顔とキス未遂
最初の花火が、夜空の上で開いた。
どん、と腹の奥に響く音がして、河川敷へ向かう人の流れが少しだけ止まる。続いて、遅れて歓声が上がった。
「始まった!」
晴臣が前で声を上げた。
「晴臣くん、足元」
千紘が袖を少し引く。
「あ、はい」
「花火見たいのは分かるけど、転ぶよ」
「千紘さんに言われると、めちゃくちゃ気をつけられます」
「普段から気をつけて」
「はい」
依央は少し後ろで、そのやり取りを見ていた。
晴臣と千紘は、夏祭りの人混みの中でも自然だった。近いのに、焦っていない。袖が触れても、肩が寄っても、ちゃんとそこにある距離として受け取っている。
依央は浴衣の袖を軽く握った。
さっきから、胸の奥がずっと浮いている。
燈真に、似合ってると言われた。
しかも最初に。
見たいと言われて着てきた浴衣を、ちゃんと見られて、ちゃんと褒められた。
それだけで、足元が少し軽い。
(浮かれるな。分かりやすすぎる。浴衣を褒められたくらいでテンション上がってる姫、扱いやすいにもほどがある。でも嬉しい。むかつく。嬉しいのが一番むかつく)
燈真は隣を歩いている。
祭りの明かりが遠くなり、河川敷へ続く石段の方へ人が流れていく。燈真はさっきから、何も言わずに依央の少し横にいる。
近すぎない。
でも、離れてもいない。
人の流れが寄るたび、自然に依央の側へ立つ。
そのたびに、浴衣の袖が少しだけ揺れる。
(離れるな、って言ったあとから、距離が近い気がする。迷子対策。そう、迷子対策。人多いし。浴衣だし。……でも、それだけじゃないかも、とか置いていくから、俺の脳がずっと祭り状態なんだよ)
「花宮」
燈真が短く呼んだ。
「はい」
「段差」
「見えてます」
「見てない」
「見てます」
「花火見てた」
依央は言い返そうとして、石段の一段目に足を乗せた。
浴衣の裾が思ったより引っかかる。
「あ」
踏み外しかけた瞬間、燈真の手が伸びた。
腕ではなく、背中の少し上。支える位置が迷いなくて、体がすっと戻される。
近い。
一瞬で、燈真の胸元がすぐそばになる。
依央は息を止めた。
「危ない」
声が低い。
周りには人がいる。花火の音も、屋台のざわめきも、晴臣の声もある。なのに、その声だけがはっきり聞こえた。
依央は燈真の手が背中から離れるまで、動けなかった。
(今の反応、早。早すぎ。足元滑ったとかじゃなくて、踏み外しかけた瞬間に支えた。やっぱり久我くん、ただ者じゃない。地味男の顔して、こういう時だけ速度がバグる。しかも背中。支え方が自然。無理)
燈真は依央の足元を見た。
「裾、踏むなよ」
「……分かってます」
「今、踏みかけた」
「浴衣の構造上の問題です」
「構造」
「俺は悪くないです」
「うん」
その「うん」は、少しだけ笑っていた。
依央は頬が熱くなるのを感じた。
(支えられたあとに笑うな。いや、笑ってない。少しだけ。少しだけでも無理。浴衣で階段、危険すぎる。主に心臓が)
前を歩いていた晴臣が振り返りかけた。
千紘がそっと晴臣の袖を引いた。
晴臣は、ちらっとこちらを見ただけで前を向く。
今日はやたら千紘が強い。
助かる。
でも、見守られているのも分かる。
それがまた、ちょっとだけ恥ずかしい。
****
石段を上がると、河川敷の広場が見えた。
川沿いには人が集まり、夜空の上では次の花火が大きく開く。赤、青、白。光が川面に映って、揺れていた。
四人は少し端の方へ移動した。
晴臣と千紘は前の方で並んで立つ。晴臣は人の流れを気にしながら、千紘のすぐそばにいる。千紘はその近さを自然に受け取って、花火を見上げていた。
依央と燈真は、その少し後ろに立った。
空が鳴る。
光が広がる。
一瞬、燈真の横顔が花火に照らされた。
依央は、見てしまった。
昼の顔でも、学校の顔でも、旧校舎の顔でもない。
夜の光の中で、少しだけ輪郭がやわらかくなっている。いつもは読めない目元が、花火の明かりで一瞬だけ熱を持って見えた。
依央の胸が、変なふうに痛くなる。
(何これ)
花火が消えて、暗さが戻る。
でも、見た顔は消えない。
(恋?)
頭に浮かんだ言葉に、依央は自分で固まった。
(いや、違う違う違う。花火。浴衣。夜。雰囲気。そういうやつ。夏祭り補正。恋って単語を簡単に出すな。落ち着け俺。今の顔が無理だっただけ。……だけ?)
「花宮」
燈真がこちらを見る。
依央は慌てて視線を空に戻した。
「はい」
「花火、そっちじゃない」
「見てます」
「俺、見てた」
依央は止まった。
「……見てません」
「そう?」
「見てません」
「顔」
「花火が近くて」
「近いのは俺」
依央は呼吸を忘れた。
燈真の声は、からかい半分の軽さではなかった。
でも、重くもない。
ただ、事実みたいにそこへ置かれた。
近いのは俺。
その通りだった。
人混みを避けて立ったせいで、二人の距離はいつもより近い。浴衣の袖が少し揺れるたび、燈真の手元に触れそうになる。
依央は袖を押さえた。
(近いのは俺、じゃない。自分で言うな。分かってる。分かってるから言うな。今のはかなりきつい。俺、何て返せばいい? 夏祭りなので? 人が多いので? 浴衣なので? 全部弱い)
大きな花火が上がった。
音が、二人の間の言葉をさらっていく。
依央はその音に紛れて、小さく息を吐いた。
燈真が少しだけ身をかがめる。
「大丈夫?」
「何がですか」
「顔、赤い」
「花火の光です」
「今、青だった」
「青でも赤く見えることがあります」
「ないだろ」
「あります」
燈真が少し笑った。
その笑い方が近い。
近すぎる。
依央は思わず一歩引きかけた。
その後ろを、人が通る。
燈真の手が、依央の袖を軽く引いた。
「危ない」
体が、また近づく。
さっきの石段とは違う。
今度は、はっきりと近い。
浴衣の袖を引かれただけなのに、体ごと持っていかれたみたいになる。
依央は燈真を見上げた。
花火が、また上がる。
白い光が、燈真の顔を照らした。
燈真も、依央を見ていた。
視線が重なる。
音が遅れて響く。
周りの人の声が、遠くなる。
依央は、動けなかった。
(今、何か言わないと)
思う。
けれど、言葉が出ない。
いつもの言い訳も、雑な軽口も、姫としての笑顔も、全部遅い。
燈真の目が近い。
昼よりも、海よりも、駅前カフェよりも、ずっと近い。
手ではない。
腕でもない。
顔。
呼吸。
視線。
その全部が、真っ直ぐ依央に向いている。
(嫌じゃない)
思ってしまった。
それが、一番まずかった。
燈真の顔が、ほんの少し近づく。
依央は目をそらせなかった。
唇が触れるのかと思った。
本当に、そう思った。
花火が開く。
光が二人の間に落ちる。
その直前で、燈真が止まった。
依央も、動かなかった。
二人とも、止まった。
音だけが遅れて響く。
燈真の息が、少しだけ揺れた気がした。
それを見て、依央の心臓がさらに跳ねる。
(久我くんも、止まった? 俺だけじゃない? 今、進みかけて止まった? 何これ。何これ何これ何これ)
燈真はゆっくり視線を外した。
「……花火」
声が少し低い。
「見ろよ」
依央は、ようやく息を吸った。
「……見てます」
「俺じゃなくて」
「見てました」
「俺を?」
「違います」
返事が早すぎた。
燈真が少しだけ笑う。
でも、その笑い方もいつもと違った。
余裕があるようで、少しだけない。
依央はそれに気づいてしまった。
(余裕ない? 久我くん、今ちょっと余裕ない? やば。そんなの見せるな。俺が調子乗る。いや、調子乗る余裕ない。今の、普通に無理)
前の方で、晴臣の声がした。
「千紘さん、見えます?」
「うん。きれいだね」
「めちゃくちゃきれいです」
「花火の話?」
「もちろん花火です」
千紘が小さく笑う。
晴臣たちは、こちらを振り返らない。
本当に、振り返らない。
依央はその背中に、少しだけ救われた。
燈真は依央の袖から手を離した。
ゆっくりと。
離れた場所が、妙に熱い。
依央は空を見上げた。
花火はきれいだった。
大きくて、明るくて、夏そのものみたいで。
でも、依央の中に残っているのは、光そのものではない。
花火に照らされた燈真の顔。
近づきかけて、止まった距離。
嫌じゃないと思ってしまった自分。
それが、全部残っている。
(恋?)
また浮かぶ。
依央は今度は、すぐに消せなかった。
(違う、って言いたい。言いたいけど、さっきより弱い。何それ。俺、どんどん弱くなってる。浴衣のせい。花火のせい。久我くんのせい。全部のせい)
花火が連続で上がる。
音が重なり、夜空が明るくなる。
燈真は空を見ている。
依央も空を見る。
でも、袖の近さだけは、ずっと意識している。
「花宮」
「はい」
「さっき」
「何ですか」
「転ばなくてよかったな」
依央は一瞬、燈真を見た。
何の話だ。
石段の話か。
それとも、さっきの距離の話を別の言葉にしているのか。
分からない。
分からないから、余計に困る。
「……そうですね」
「うん」
「久我くん、支えるの早すぎです」
「見てたから」
「足元を?」
燈真は少しだけ間を置いた。
「花宮を」
依央はもう、返せなかった。
花火の音がして、助かった。
音に隠れて、何も言わずに済んだ。
(無理。今のは無理。見てたから。花宮を。足元じゃなくて。見られてる。俺、見られてる。浴衣とか、手元とか、足元とかじゃなくて、俺を。……やば)
空いっぱいに、金色の花火が広がる。
依央は、息を詰めたまま見上げた。
涙が出るほどではない。
でも、胸の奥がきゅっとなる。
嬉しいのか、怖いのか、恥ずかしいのか、全部混ざっている。
花火が消えると、夜空はまた暗くなった。
その暗さの中で、燈真が静かに言った。
「花宮」
「はい」
「浴衣、見られてよかった」
依央の指が、袖を強く握った。
「……そうですか」
「うん」
「なら、よかったです」
声が小さくなった。
けれど、今度は言い訳にしなかった。
燈真は、それ以上何も言わない。
依央も、言わない。
花火だけが、二人の間で何度も開いた。
その夜、キスはしなかった。
告白もしなかった。
けれど依央は、花火が終わるまでずっと、袖の近さと、さっき止まった距離を忘れられなかった。
終わったはずの光が、胸の中でまだ散っている。
(夏、やばい)
いつもの雑な言葉しか出てこなかった。
でも、その雑な言葉の奥で、何かが少しだけ形を変えていた。
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