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第23話 宿題と、旧校舎の迷い猫
夏休みの雑部室には、コンビニのアイスが三本並んでいた。
晴臣が「差し入れ」と言い張って持ってきたものだ。窓辺では、誰が置いたのか分からない小さな風鈴が、ちり、と鳴っている。机の上には宿題の束。横には、ぬるくなる前に飲めと晴臣が置いた麦茶。
依央はシャーペンを持ったまま、数学の問題を見つめていた。
数字は並んでいる。
意味は入ってこない。
(無理。花火の顔が消えない。浴衣の袖も、石段で支えられた手も、近かった顔も、全部しつこい。アイス食べたのに冷えない。俺の頭、祭り会場のまま)
晴臣がアイスの棒を口にくわえながら、じっと依央を見る。
「依央」
「何」
「宿題やってる顔じゃない」
「やってる」
「その顔は、数学じゃなくて久我の顔思い出してる」
依央はシャーペンを置いた。
「晴臣」
「はい」
「アイスの棒、没収するよ」
「それ何のダメージ?」
「心」
「弱い」
燈真は窓際で、麦茶のペットボトルを開けていた。
いつものように普通の顔だ。
その普通の顔を見るだけで、依央はまた花火の夜を思い出す。
(近かった。普通に近かった。嫌じゃなかった。そこがやばい。もう一回、手でも繋いだら何か分かるかもとか思ったけど、それもう考え方がだいぶ終わってる)
燈真がこちらを見る。
「花宮」
「はい」
「アイス、溶ける」
「……食べます」
「宿題も」
「やります」
晴臣がにやっとする。
「久我に言われると素直」
「晴臣には言われたくない」
「俺が言っても聞かないもんな」
「普段の行い」
「ひど」
依央はアイスをかじった。
冷たい。
なのに、胸の中は全然冷えない。
その時、廊下の方から、かさ、と音がした。
風鈴がもう一度鳴る。
晴臣が顔を上げた。
「何?」
燈真が廊下を見る。
「猫」
「え?」
入口に、小さな三毛猫がいた。
口には、依央の宿題プリントをくわえている。
依央は立ち上がった。
「それ、俺の」
猫は依央を見た。
依央も猫を見る。
一秒。
猫はくるっと向きを変え、廊下へ走り出した。
「俺の宿題、野生に帰るな!」
晴臣が爆笑しながら立つ。
「待て猫! 提出前のプリントを自然に返すな!」
「晴臣、笑ってないで追って!」
「笑うだろこれは!」
燈真はもう廊下へ出ていた。
「こっち」
「何で分かるんですか」
「足音」
「猫の足音まで拾うな。地味男、耳もいいの何」
****
三人は旧校舎の廊下を走った。
猫は軽い足取りで、音楽準備室へ入っていく。依央は入口で一瞬だけ止まった。前に点検した時の薄暗さが頭をよぎる。
晴臣が横から言う。
「ピアノ鳴ったらどうする?」
「晴臣」
「はい」
「猫より先に捕まえる」
「怖い」
燈真は短く言った。
「花宮、扉」
「はい」
「榎本、そっち」
「はいはい」
猫はピアノの下にいた。
宿題プリントを床に落とし、今度は譜面台の脚にじゃれている。
依央はしゃがみ、できるだけ甘い声を出した。
「おいで」
猫は依央を見た。
そして、ぷいっと顔をそらした。
晴臣が床を叩いて笑う。
「姫営業、猫に不発!」
「晴臣、今笑うところじゃない」
「いや、かなり笑うところ」
「猫にまで無視されるとは思わなかった」
「依央、元気出せ。人間男子には効く」
「久我くんには効いてない」
言ってから、依央は固まった。
燈真がこちらを見る。
晴臣も見る。
猫だけが平然としている。
依央はプリントを拾いながら、顔をそらした。
「……猫の話です」
燈真は少しだけ笑った。
「猫の話か」
「そうです」
(やば。自爆した。猫のせい。いや、俺のせい。でも猫のせいにしたい。こら猫。空気を荒らすな)
猫は再び走り出した。
****
今度は美術準備室。
布をかけられた石膏像の間を、器用にすり抜ける。晴臣が「そこはやめろ!」と叫び、依央も内心で同意した。
猫が布の端を引っかける。
白い布がずるっと落ち、石膏像の顔が現れた。
晴臣が叫ぶ。
「増えた!?」
「増えてない!」
依央も声が少し裏返った。
燈真が無言で布を戻す。
「落ちただけ」
「久我、冷静すぎ」
「石膏像は動かない」
「正論が怖い時もある」
猫は準備室の隅に入り込んだ。
依央と燈真が同時に手を伸ばす。
猫は二人の間をすり抜けた。
依央の指先と、燈真の指先がかすかに触れる。
ほんの一瞬。
依央の心臓が跳ねる。
燈真も、猫を追う前に一度だけ依央の手元を見た。
猫は廊下へ駆け出しながら、「にゃ」と鳴いた。
(待って。今、手、見た? 俺の? 猫じゃなくて? え、見た? 猫、今の見て鳴いた? こら猫。いや、今のはナイス猫? 違う。何を分かってる顔で走ってんだ、お前)
晴臣が後ろから叫ぶ。
「今の猫、完全に『はよ手ぇ繋げ』って顔してた!」
「晴臣!」
「猫の代弁!」
「勝手にアフレコするな!」
燈真が少しだけ顔をそらした。
依央はそれを見て、余計に転びそうになった。
(顔そらした? 猫アフレコで? それとも手で? どっち。どっちでもやばい)
****
猫は階段下へ入ったかと思うと、すぐに引き返し、今度は部室の方へ走っていった。
三人が追いかけて戻ると、猫は最初からそこにいたみたいな顔で、部室の机の下に座っていた。
依央の鞄の横。
「最初からそこにいろ!」
依央が言うと、猫は「にゃ」と鳴いた。
晴臣がまた笑う。
「猫、依央の鞄好きじゃん」
「宿題狙いでしょ」
「もしくは依央狙い」
「猫に狙われる姫、どうなの」
「かわいい」
「雑にまとめるな」
燈真がしゃがんだ。
猫は逃げない。
むしろ、燈真の手に顔を寄せる。
晴臣が即座に言った。
「久我、猫にもモテる」
「違う」
「違わない。さっきから完全に選ばれてる」
依央はじっと猫を見る。
猫は燈真の手にすり、と頬を寄せている。
(猫にも久我くんかよ。人間の子どもにも、猫にも。地味男、範囲が広い。俺の姫営業より自然に効いてるの腹立つ)
「花宮も」
燈真が言った。
「え?」
「撫でれば」
依央は少し迷って、しゃがんだ。
猫は逃げない。
依央がそっと手を伸ばすと、猫は一度だけ匂いを嗅ぎ、それから、まあいいか、みたいに背中を向けた。
「許可出た」
晴臣が言う。
「猫の採点みたいに言うな」
依央は猫の背中を撫でた。
やわらかい。
すごくやわらかい。
少しだけ気が抜けた。
「……かわいい」
「だろ」
晴臣がなぜか得意げに言う。
「晴臣の猫じゃない」
燈真も猫を撫でる。
猫の背中の上で、依央の手と燈真の手が近づいた。
近い。
あと少しで触れる。
猫は平然としている。
燈真の視線が、猫ではなく依央の指先へ一瞬だけ落ちた。
それだけだった。
それだけなのに、依央の胸の奥が勝手に跳ねる。
(待って。今、手、見た? 猫じゃなくて? え、見た?)
猫が顔を上げた。
依央の顔を見る。
「にゃ」
依央は固まった。
(え。何その顔。何やってるんだ、焦ったいな、みたいな顔した? 猫が? 猫にまで言われてる? いや、待て、猫!?)
「何やってんだ、焦ったいなー」
声がした。
猫ではない。
晴臣だった。
依央はゆっくり振り返る。
「晴臣」
「はい」
「今すぐ猫に謝れ」
「猫、俺の代弁してくれた」
「してない」
「今の顔はしてた」
「猫の顔で恋愛実況するな」
晴臣は腹を抱えて笑った。
燈真も少し笑っている。
ただ、その笑い方は完全な余裕ではない。猫を撫でていた手を、ゆっくり引く。その動きが、ほんの少しだけ遅い。
依央はそれを見逃さなかった。
(やっぱり。久我くんも、手を引くの遅かった。今の、俺だけじゃない。たぶん。いや、かなりたぶん)
「花宮」
燈真が言う。
「何ですか」
「猫、懐いたな」
「俺にですか」
「鞄に」
「そこは俺って言ってください」
燈真は少し笑った。
「花宮にも」
依央は猫の背中をもう一度撫でた。
猫は満足そうに目を細めている。
晴臣がアイスの棒をくわえ直しながら言う。
「この猫、名前つける?」
「勝手に?」
「じゃあ、こげパン」
「色だけで決めるな」
「依央は?」
依央は猫を見た。
猫は何も知らない顔で、二人の足元に丸くなっている。
さんざん騒がせて、宿題をくわえて、旧校舎を走らせて、二人の手を近づけて、最後は自分だけ涼しい顔。
「……こいつ、だいぶやるな」
「名前?」
「違う」
燈真がぼそっと言った。
「ナイス猫」
依央は燈真を見た。
「久我くん」
「何」
「今、何て」
「猫、よく動いたなって」
「絶対違う意味ありましたよね」
「そう?」
燈真はいつもの顔をしている。
でも、ほんの少しだけ目元が笑っていた。
依央はそれ以上つっこめなかった。
(ナイス猫、って久我くんも思った? 思ったの? え、何それ。二人を近づけたって分かってる? やば。やばいけど、楽しい。猫、こら。いや、ナイス)
****
結局、猫は用務員さんのところへ連れていくことになった。
近所の猫で、時々旧校舎へ入り込むらしい。
用務員さんは「ああ、また来たのか」と笑い、猫は何も悪びれずに麦茶の空き箱の横で丸くなった。
部室へ戻ると、宿題は全然進んでいなかった。
アイスは溶け、麦茶はぬるくなり、依央のプリントには猫の足跡みたいな薄い汚れがついていた。
晴臣は椅子に座り込む。
「今日、勉強したこと」
「猫は宿題を持っていく」
依央が言う。
「久我は猫にも好かれる」
晴臣が続ける。
燈真が静かに言った。
「花宮の姫営業は猫には効かない」
「そこ学ばなくていいです」
晴臣が爆笑する。
依央も、少しだけ笑ってしまった。
花火のことばかりで詰まっていた胸が、猫にかき回されたせいで、少しだけ軽くなっている。
でも、完全に消えたわけではない。
むしろ、別のものが増えた。
燈真も、自分の手を意識しているかもしれない。
その可能性。
(猫のせいで助かった。猫のせいで余計やばくなった。今日は旧校舎の猫事件。うん。事件だった)
晴臣が鞄を持って立ち上がった。
「俺、用務員さんとこ寄って猫見てから帰るわ」
「まだ見るの?」
「かわいいし」
「宿題は」
「家でやる」
「絶対アイス食べて寝る」
「当たり付きだったら起きる」
「意味分からん」
晴臣は笑いながら部室を出た。
部室に、依央と燈真だけが残る。
風鈴が、ちり、と鳴った。
依央は机の上のプリントを見下ろした。
宿題は進んでいない。
でも、さっきの猫の背中と、近づいた手のことは、はっきり残っている。
燈真が隣に来た。
「ここ」
「え?」
「問題、違う」
依央はプリントを見る。
「いつ見たんですか」
「さっき」
「猫で大騒ぎだったのに?」
「見えた」
「久我くん、情報量の処理が変」
燈真は少しだけ笑った。
「教える?」
依央は迷ったあと、うなずいた。
「お願いします」
燈真が隣の椅子に座る。
距離は近い。
でも手は繋がない。
猫もいない。
ただ、机の上で、燈真の指が式の横を示す。
依央のシャーペンのすぐ横。
近い。
けれど、今度は触れない。
燈真は何もなかったように言った。
「ここ、符号」
「……はい」
依央は問題を見ているふりをした。
でも、胸の奥はまた別のところを見ている。
(猫がいなくても、近いのは近い。……俺だけじゃない、かも)
依央はシャーペンを握り直した。
今日は手を取らない。
取れない。
でも、取れなかっただけではない。
燈真も、少しだけ近さを意識しているように見えた。
それが分かっただけで、胸の奥が変に浮いた。
風鈴がもう一度鳴る。
夏の旧校舎に、猫が残していったみたいな、軽くて甘いざわざわが残っていた。
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