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第24話 夏休み最後の雑部、なかったことにできない手
夏休み最後の雑部活動は、旧校舎とプールまわりの最終確認だった。
白鷺坂高校の校庭では、部活の声がいつもより少し遠く聞こえる。野球部の打球音も、吹奏楽部の音も、夏の始まりよりやわらかい。蝉の声はまだ強いけれど、夕方の風には少しだけ涼しさが混じっていた。
依央は学校指定のジャージの袖をまくり、旧校舎の廊下を歩いた。
「夏、終わる感じするな」
晴臣が雑に伸びをしながら言った。
「晴臣、宿題は?」
「終わった」
「本当に?」
「八割」
「それは終わったとは言わない」
「残りは気合い」
「気合いで埋まる欄じゃないでしょ」
晴臣は笑って、窓の外を見た。
「でも、なんか夏っぽいこと結構したよな。海、祭り、花火、猫」
「猫は夏っぽいの?」
「旧校舎走ったから夏っぽい」
「基準が雑」
久我燈真は、窓の鍵を確認していた。
「旧校舎、終わったらプール」
「はい」
依央は返事をして、燈真の手元を見ないようにした。
見ないようにした時点で、もう意識している。
(猫の毛、取ればよかったのに、って言われたの、まだ残ってる。花火も残ってる。電車の手も残ってる。夏、残りすぎ。俺の中だけ片づいてない)
旧校舎の確認は、驚くほど何も起きなかった。
美術準備室の窓は閉まっている。音楽準備室の棚も問題なし。資料室の箱も崩れていない。猫もいない。七不思議も働いていない。
晴臣は少し物足りなさそうだった。
「今日は何も起きないな」
「起きなくていい」
「猫くらいなら」
「宿題をしろっていうお告げだよ」
「猫、そこまで言う?」
燈真が鍵束をしまう。
「次、プール」
外へ出ると、夕方の光が校舎の壁に当たっていた。
****
プールは静かだった。
夏の初めに掃除した時より、水面は落ち着いている。使われたあとの匂い、消毒の匂い、濡れたコンクリートの名残。水面には、傾き始めた空が映っていた。
依央はプールサイドに立ち、思わず手元を見た。
ここで、燈真と触れた。
ホースが暴れて、水が跳ねて、手首を掴まれた。
晴臣と触れても普通だったのに、燈真だけ違うと分かった場所。
(ここからだった気がする。いや、その前から色々あったけど。ここで、ちゃんと分かった。久我くんだけ、違うって)
晴臣がプールの端をのぞき込む。
「水、きれいだな」
「落ちないでね」
「落ちねえよ」
「晴臣は信用が薄い」
「幼馴染ひどい」
燈真が排水口のあたりを確認する。
「問題なし」
「早」
「見れば分かる」
「久我くん、それ言えるの本当に強いですね」
依央が言うと、燈真がこちらを見た。
「花宮も見てた」
「俺は水面を」
「手元」
依央は固まった。
「見てません
「見てた」
「水面です」
「手元が映ってた?」
「……そういうことにしてください」
燈真は少しだけ笑った。
晴臣が後ろでにやにやしかけた時、スマホが鳴った。
晴臣は画面を見て、顔を変えた。
「悪い、千紘さんから」
「はいはい」
「ちょっと電話してくる」
「どうぞ」
晴臣はプールサイドから少し離れ、校舎側へ歩いていった。声はすぐ遠くなる。
依央と燈真だけが、プールのそばに残った。
夕方の水面が、静かに揺れている。
遠くで、部活の声が小さく重なった。
依央は、急に何も言えなくなった。
手を取りたい。
その言葉が、胸の奥でまっすぐ立っている。
けれど、理由がない。
水たまりはない。人混みもない。電車も揺れていない。猫もいない。転びそうにもなっていない。
ただ、夏休み最後の学校で、燈真が隣にいるだけ。
(理由、ない。何もない。作業も終わった。危なくもない。手を取る理由、ゼロ。……ゼロなのに、取りたいの、何)
依央は自分の指を見た。
花火の夜、近づきかけた顔。
猫の毛を取れなかった指。
海沿い電車で繋いだ手。
全部が、手のひらの中に残っている気がした。
燈真はプールの水面を見ている。
いつものように、静かだった。
「花宮」
「はい」
「夏、終わるな」
「……そうですね」
「楽しかった?」
依央は少しだけ笑った。
その問いを、この前も聞かれた気がする。
楽しかったか。
答えは、もう分かっている。
「楽しかったです」
「そっか」
「久我くんは?」
燈真は少しだけ考えた。
「楽しかった」
短い。
でも、ちゃんと燈真の答えだった。
依央は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
(俺だけじゃない。久我くんも、楽しかったんだ。海も、祭りも、猫も、全部。……やば。うれしい)
燈真が依央を見る。
「何」
「いえ」
「顔」
「夕日です」
「今度は合ってる」
「でしょう」
少し笑えた。
いつものように誤魔化しているのに、どこか誤魔化しきれていない。
依央は、ゆっくり息を吸った。
手を取りたい。
理由はない。
でも、理由を作ろうとすると、きっとまた取れない。
猫の時みたいに。
だから。
依央は、燈真の手に自分の手を伸ばした。
指先が触れる。
燈真が少しだけ動きを止める。
依央はそこで止まらなかった。
そのまま、燈真の手を取った。
しっかりと。
自分から。
燈真が依央を見る。
依央は水面を見たまま、どうにか声を出した。
「……何でもないです」
「何でもないのに?」
「はい」
「手」
「手です」
「うん」
「それ以上、今は聞かないでください」
燈真はしばらく黙った。
手を振りほどかない。
むしろ、少しだけ握り返した。
依央の胸が、どくんと大きく鳴る。
(握り返された。やば。俺から取った。久我くんが握り返した。理由なし。言い訳なし。終わった。いや、終わってない。離してない。俺、離してない)
燈真が静かに言った。
「聞かない」
「……ありがとうございます」
「でも」
「でも?」
「離すなよ」
依央は息を止めた。
強い言い方ではない。
命令でもない。
ただ、受け取った手を、そのままにするみたいな声だった。
依央はゆっくり、燈真を見た。
夕方の光が、燈真の横顔を少しだけ金色にしている。
「……離しません」
自分で言った声が、思ったより小さくて、まっすぐだった。
燈真は一瞬だけ目を細めた。
それから、ほんの少し笑った。
「うん」
その笑い方を見て、依央はもう目をそらせなかった。
(言った。離しませんって言った。何それ。俺、今かなりやばいこと言った。でも後悔してない。してないのが一番やばい)
プールの水面に、二人の姿が映っていた。
ジャージ姿で、夏休み最後の夕方に、手を繋いでいる。
恋人みたいだ。
その言葉が浮かんだ。
依央は、今度はすぐに打ち消さなかった。
ただ、胸の奥で少しだけ受け取った。
(恋人みたい。……みたい、ならいいか。今は、それくらいで)
校舎側から晴臣の声がした。
「依央ー、久我ー、俺そろそろ戻……」
声が途中で止まる。
依央は手を離さなかった。
燈真も離さなかった。
晴臣は数秒、黙った。
それから、やたら自然な声で言う。
「……俺、もうちょい電話してくるわ」
「晴臣」
「何も見てない」
「見たでしょ」
「夕日がきれいだなって思っただけ」
「下手」
「千紘さんに報告はしない!」
「余計なこと言うな!」
晴臣は笑いながら、また校舎側へ戻っていった。
依央は顔が熱くなるのを感じた。
「晴臣、見ましたね」
「見たな」
「最悪」
「離す?」
依央は手に力を入れた。
「……離しません」
燈真はそれを聞いて、また少し笑った。
その笑い方が、夏の終わりの光に混ざる。
依央は、どうしようもなく胸がいっぱいになった。
プールまわりの確認は終わっている。
旧校舎の鍵も閉めた。
雑部の活動としては、もう帰ればいい。
でも二人は、少しだけその場にいた。
手を繋いだまま、水面を見ていた。
水面には、夕焼けが映っている。
校庭の向こうでは、部活の声が少しずつ遠くなる。吹奏楽部の音も、終わりに近づいている。蝉の声の中に、夕方の風が混ざった。
夏休みが終わる。
でも、この手は終わらない気がした。
依央は、繋いだ手を少しだけ握り直した。
燈真も、同じだけ返す。
それだけで、言葉より伝わるものがあった。
(足元対策でも、作業でも、人混みでも、猫でもない。俺が取りたかったから、取った。……やば。認めると、こんなに心臓に来るんだ)
燈真が短く言う。
「行くか」
依央はうなずいた。
「うん」
****
二人はプールサイドを離れ、夕焼けの校庭脇を歩き出した。
手は繋いだまま。
校舎の窓に、二人の影が薄く映る。
夏休みは終わる。
でも、依央の手の中には、まだ熱が残っていた。
消えないでほしい、ではなく。
消す気がない。
そう思って、依央は燈真の隣を歩いた。
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