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第25話 新学期、手を取った夏の続き

新学期の教室には、夏休みの残り香がまだ少しだけ残っていた。 二年三組の窓際では、日焼けした男子たちが土産袋を机に広げている。黒板の端には、担任が書いた始業式後の予定。 廊下の掲示板には、瑞城市駅前の秋祭りポスターが新しく貼られていて、夏が終わったことだけは妙に分かりやすかった。 瑞城市の朝は、風だけが先に秋になる。 白鷺坂駅から学校へ向かう坂道も、日差しはまだ強いのに、空気だけ少し軽い。山の稜線は昨日よりくっきりしていて、遠くの畑の方から乾いた匂いがした。 でも、教室の中は普通に暑い。 主に、黒瀬陸斗の声のせいで。 「花宮!」 「朝から声でか」 「見ろ、俺、夏で焼けた!」 黒瀬は腕を出して、やたら得意げに笑った。 「見れば分かる」 「だろ!」 「褒めてない」 「え、褒めてないのか?」 依央は外向きの笑顔で首を傾けた。 「でも、黒瀬くんらしいね。夏、全力で使い切った感じ」 黒瀬は一瞬で顔を明るくした。 「だよな! 俺、夏に勝った!」 篠宮怜央が横から静かに言った。 「季節を勝敗で処理するな」 「篠宮、朝から冷静!」 「日焼けの報告に熱量が高すぎるだけ」 篠宮の手元には、始業式後の提出物一覧がある。すでに何人かが篠宮の机へ宿題の確認に来ていて、夏明けでも優等生は優等生だった。 鷹宮蓮は、土産袋の中から小さなキャンディを一つ取り出し、包み紙を眺めている。 「駅前限定って書いてあるけど、駅前で普通に山積みだった」 「限定の意味が軽い」 依央が言うと、鷹宮は少し笑った。 「でも、包みは綺麗だよ。花宮に似合いそう」 「キャンディの包みが?」 「うん。上品な色」 「鷹宮くん、褒める範囲が広い」 近くの男子が「分かる」とうなずき、黒瀬まで「花宮、土産袋まで似合いそう」と乗ってきた。 依央は笑顔のまま言った。 「俺を土産売り場に並べないで」 「売ってたら買う」 「黒瀬くん、発想が雑」 教室に笑いが広がる。 いつもの感じだった。 男子校の姫として、見られて、声をかけられて、少し笑えば空気がやわらぐ。依央はその中心にいることに慣れている。 慣れているはずなのに。 教室の後ろの席で、久我燈真が鞄から筆箱を出した。 ただそれだけ。 本当に、それだけ。 なのに、依央の視線が勝手に手元へ吸われた。 指。 机に置かれた手。 夏休み最後の夕方、プールサイドで自分から取った手。 (登校してる。手の記憶まで登校してる。夏休み終わったよ? 何で一緒に来てんの? いや、俺が連れてきたのか。だる。朝からだる) 燈真が顔を上げた。 目が合う。 依央はすぐに姫顔へ戻した。 「おはよう、久我くん」 「おはよ」 短い返事。 いつも通り。 でも燈真の目が、ほんの少し依央の手元へ落ちた。 机の端に置いていた依央の指先。 それだけで、胸の奥が一拍ずれた。 (見た? 今、手を見た? いや普通に机見ただけかも。自意識すご。新学期初日から心臓の出席率高すぎ) 「花宮」 「はい」 「顔」 依央は固まった。 「顔?」 「朝から忙しそう」 「人気者なので」 「うん」 「そこは否定しないんですね」 「事実だし」 短い。 ただの事実みたいに言う。 依央は一瞬だけ言葉を失いかけて、すぐに笑顔を整えた。 「久我くん、夏休みで少し口が上手くなりました?」 「そう?」 「今の、まあまあ刺さりました」 「なら、上手くなったかも」 (自覚するな。地味男、自分の攻撃性能を認めるな。こっちは朝から防御が薄いんだよ) 黒瀬が遠くから叫ぶ。 「花宮、今日のロングホームルーム、席替えあるって!」 「声でか」 「大事だろ!」 「大事だけど声でか」 教室はまた笑いで満ちる。 その中で、依央は自分の手を机の下へそっと引いた。 見られることには慣れている。 でも、燈真に手を見られるのは別だった。 **** 午前の始業式とホームルームが終わると、依央は花の生徒会の集まりへ向かった。 校内交流委員会の部屋には、夏休み明けの書類が積まれていた。秋の掲示予定、部活応援のメッセージ、修学旅行関連の校内掲示、文化祭準備の初期資料。 そして机の端には、三年生向けの進路資料が一冊置かれている。 それを見て、依央は少しだけ背筋を伸ばした。 「花宮くん、久しぶり」 白石千紘は、少しだけ秋の気配をまとっていた。 制服姿は変わらない。やわらかい髪も、清楚な空気もそのまま。けれど、鞄の横に進路資料があるだけで、時間が少し先へ進んでいるように見える。 「白石先輩、お久しぶりです」 「夏、楽しかった?」 「はい。いろいろありました」 「そっか。顔、少し変わったね」 依央は一瞬、動きが止まった。 「え」 千紘はやわらかく笑う。 「いい意味で。前より、肩に力が入りすぎてない感じ」 「そう、ですか?」 「うん。花宮くん、秋から少しお願いすること増えると思う」 千紘は手元の資料を整えた。 「三年生はこれから、自分の用事も増えるから。掲示の確認とか、部活応援の段取りとか、下級生への説明とか。花宮くんに任せたいところがあるんだ」 「俺に?」 「うん。花宮くんなら、周りをちゃんと見てくれるから」 その言い方は、軽くなかった。 依央は背筋を伸ばした。 姫として頼られるのは慣れている。かわいい、似合う、助かる、いてくれると明るい。そう言われることも多い。 でも千紘の言葉は、表面を褒めるものではなかった。 ちゃんと見ている。 そう言われた気がした。 「……頑張ります」 「うん。でも、頑張りすぎなくていいよ」 「はい」 「雑部もあるし」 依央は思わず笑った。 「白石先輩、そこまで把握してるんですね」 「晴臣くんから少し」 言ってから、千紘はほんの少し照れた。 依央はその変化を見逃さなかった。 (出た。白石先輩の晴臣くん顔。秋でも健在。清楚先輩、彼氏ワードで温度変わるの強すぎ) 「晴臣、元気ですか」 「うん。相変わらず」 千紘はそう言って、すぐに表の顔へ戻った。 けれど依央には、今の小さな照れが残った。 恋人がいる人の、自然な変化。 それを見て、依央の頭にまた燈真の顔が浮かんだ。 (違う。今は花の生徒会。引き継ぎ。仕事。久我くんをここに出すな。脳内、呼んでない男子を勝手に入室させるな) **** その日の放課後、依央が旧校舎の雑部室へ向かうと、部室には燈真だけがいた。 晴臣の姿はない。 机の上には、紙パックのカフェオレと、小さな焼き菓子が置かれていた。 依央は扉の前で立ち止まった。 「……久我くん」 「何」 「これは」 「購買」 「答えが雑」 「食べる?」 「食べますけど」 燈真は袋を依央の方へ押した。 小さなフィナンシェだった。 派手ではない。けれど、こういう日にちょうどよさそうな甘さがある。 依央は椅子に座り、袋を開けた。 「いただきます」 「うん」 一口食べると、バターの香りがふわっと広がった。 花の生徒会で少し固くなっていた頬が、ゆっくりほどける。 「うま」 「よかった」 「これ、俺が疲れてると思って買いました?」 「うん」 即答だった。 依央は焼き菓子を持つ手を止めた。 「即答」 「違う?」 「違わないですけど」 「顔、疲れてた」 「そんなに?」 「うん」 「花の生徒会では、ちゃんとしてたはずなんですけど」 「だからじゃない」 依央は言葉を失った。 だからじゃない。 その一言で、花の生徒会で笑っていた自分も、千紘から頼られて背筋を伸ばした自分も、全部見られた気がした。 実際には、燈真はその場にいなかった。 でも、戻ってきた依央の顔だけで分かったのだろう。 (何それ。こわ。いや、こわくない。むしろ、ちょっと助かる。ちゃんとしてたから疲れた、って分かってくれるの、普通にやばい) 「久我くん」 「何」 「俺、そんなに分かりやすいですか」 「俺には」 依央は焼き菓子を落としかけた。 「……今の、だいぶ」 「だいぶ?」 「だいぶ危ないです」 「フィナンシェ?」 「違います」 燈真は少し笑った。 依央はもう一口、焼き菓子を食べた。 甘い。 落ち着く。 そして、落ち着いてしまうことが、少しだけ悔しい。 「でも、いつも久我くんばっかり買ってるの、ちょっと気になります」 燈真が顔を上げた。 「何が」 「お金」 「これ、二個入り」 「二個入りでも」 「じゃあ、次は花宮」 依央は少しだけ驚いた。 「俺?」 「うん」 「俺が買うなら、ちゃんと選びますよ」 「知ってる」 「エクレアとか」 「好き」 「即答」 「花宮が選ぶなら」 依央はフィナンシェの袋を握った。 「……商品説明より強い返し、やめてください」 燈真は少しだけ笑った。 外では花の生徒会で引き継ぎの話を聞いて、ちゃんと立って、ちゃんと笑って、ちゃんと返事をした。 嫌ではなかった。 むしろ頼られるのは嬉しい。 でも、少しだけ力が入った。 ここに来ると、それがゆっくり抜ける。 小さな焼き菓子。 カフェオレ。 燈真の短い返事。 次は自分が買うことになったエクレア。 全部が、肩の力を少しずつほどいていく。 でも。 依央の視線は、結局、燈真の手元へ戻った。 カフェオレの紙パックを持つ指。 机に置かれた手。 いつも通りの距離。 夏休み最後の夕方、依央が自分から取った手。 あの手の熱が、まだ残っている。 甘いものよりも、言葉よりも、ずっと深いところに。 (これだ。結局、これ。新学期始まって、教室で笑って、花の生徒会で頼られて、雑部で焼き菓子食べても、最後に戻るのは久我くんの手。やば。俺の中で、手が強すぎる) 依央は、机の上に置いた自分の手を見た。 朝は隠した。 燈真に見られて、焦って、机の下へ引いた。 でも、今は。 引かないでおきたいと思った。 燈真が、その手元を見た。 依央は気づいていた。 気づいていても、動かさなかった。 「花宮」 「はい」 「手」 依央の心臓が跳ねた。 「手?」 「朝、隠した」 依央は息を止めた。 そこまで見ていたのか。 いや、燈真なら見ている。 いつもそうだ。 笑顔ではなく、手元。 言葉ではなく、少しの動き。 「……見てたんですか」 「見えた」 「またそれ」 「今は、隠さないんだな」 依央は自分の手を見る。 指先が少しだけ丸まっている。 それでも、机の上にある。 燈真の手から、少し離れた場所に。 「……隠すほどでは、ないので」 「そっか」 「夏休み、終わりましたし」 「うん」 「でも」 言いかけて、依央は止まった。 手を取ったこと。 あの夕方のこと。 言葉にすると、急に近すぎる。 でも、何も言わないのも違う気がした。 (言え。いや、言えない。何て言うの? あの手、まだ残ってます? 俺の中には残ってます? 無理。死亡。日本語が全部きつい) 燈真は急かさない。 ただ、依央の手元を見ている。 それから、自分の手を少しだけ机の上に置き直した。 近づけすぎない。 でも、さっきより少しだけ近い。 依央はその距離に気づいた。 「久我くん」 「何」 「……新学期ですね」 「うん」 「秋、忙しくなりそうです」 「うん」 「花の生徒会も、雑部も」 「うん」 「だから」 依央はそこで、ようやく燈真を見た。 「たぶん、また疲れます」 燈真は短くうなずいた。 「うん」 「その時は」 手元を見る。 自分の手。 燈真の手。 まだ触れていない距離。 でも、遠くない。 「……また、甘いものとか、ください」 言えたのは、そこまでだった。 燈真は少しだけ笑った。 「買っとく」 「俺も買います」 「エクレア?」 「たぶん」 「楽しみ」 依央は目をそらした。 (そこは普通に楽しみにするな。こっちは、手の話を甘いもので包んで出してるんだよ。気づいてる? 気づいてるだろ。たぶん。久我くんだし) 部室の外で、遠くの運動部の声が聞こえた。 秋の風が、旧校舎の窓を少し鳴らす。 依央は机の上に手を置いたまま、カフェオレを飲んだ。 燈真の手も、近くにある。 触れてはいない。 でも、夏に取った手の続きが、そこにある気がした。 「花宮」 「はい」 「楽しそう」 「何がですか」 「秋」 依央は少しだけ笑った。 「まだ、ちょっと分かりません」 「うん」 「でも、悪くはなさそうです」 「そっか」 その短い返事が、また静かに効いた。 夏休みは終わった。 でも、手の熱は消えていない。 教室でも、花の生徒会でも、雑部でも。 それは依央の中に、ちゃんと残っている。 そして今、隠さず机の上に置いた自分の手が、少しだけ誇らしい。 (秋、始まったな) 依央はそう思った。 燈真の手は、まだ少し先にある。 近い。 でも、今はそれだけでいい。 新学期の雑部室に、カフェオレの甘さと、触れない手の熱が残っていた。

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