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第26話 花の生徒会、引き継ぎとモンブラン
花の生徒会の部屋は、放課後になると少しだけ空気が変わる。
教室のざわめきとは違う。廊下の足音とも違う。掲示用の紙、色ペン、行事予定のファイル、部活応援のメッセージカード。机の上には、秋が始まったばかりなのに、もう次の予定がいくつも並んでいた。
依央はその真ん中で、後輩の一年生に笑いかけていた。
「この掲示は、昇降口の横の方が見やすいかな。朝、みんな通るし」
「花宮先輩、こっちの色、目立ちますか?」
「うん、いいと思う。でも、文字は少し太くした方が遠くから見えるよ」
「はい!」
後輩がぱっと顔を明るくする。
その横で、別の男子が依央の手元を見ていた。
「花宮先輩、字、きれいですね」
「ありがとう。見やすい方が、読んでもらいやすいから」
「俺も、そういう字、書けるようになりたいです」
「じゃあ、今度一緒に練習しよっか」
「え、いいんですか」
「もちろん」
笑顔。
少し首を傾ける角度。
相手が安心する声。
全部、いつも通りに使える。
花宮依央は、男子校の姫としてちゃんと立てている。
(はい、完璧。後輩対応、問題なし。掲示の色も見た。字も褒められた。花宮依央、秋も稼働中。……ただ、なんか今日は変に嬉しい。白石先輩から任されるって、普通にうれしい。うれしいのに、ちょっと背筋が伸びすぎる。何これ。肩、硬い)
机の向こうで、白石千紘がファイルを閉じた。
「花宮くん、少しいい?」
「はい」
依央は後輩へ軽く手を振り、千紘の隣へ向かった。
千紘は相変わらず、部屋の空気を柔らかくする人だった。三年生の進路資料が鞄から少し見えているのに、立ち姿は落ち着いている。焦りや忙しさをそのまま見せないところが、さすがだと思う。
「この部活応援の掲示、次から花宮くんに中心で見てもらってもいいかな」
千紘が差し出したのは、部活ごとの応援メッセージ案だった。
運動部の遠征、文化部の発表、秋の校内イベント。小さな予定がいくつも並んでいる。
「俺が、ですか」
「うん。花宮くん、後輩にも声かけやすいし、部活の人たちにも自然に話せるから」
「そんなことないです」
「あるよ」
千紘はやわらかく笑った。
「それに、花宮くんは相手が何を待ってるか、けっこう見てるでしょ」
依央は少しだけ返事に詰まった。
そう言われるのは、少しくすぐったい。
かわいい、似合う、明るい。そういう言葉は慣れている。でも、見ていることを見られるのは、慣れていない。
「……白石先輩にそう言われると、緊張します」
「緊張しなくていいよ。僕も最初からできたわけじゃないし」
「え、白石先輩にもそういう時期あるんですか」
「あるよ。今でも、たまにある」
千紘はそう言って、少しだけ笑った。
「だから、花宮くんも一人で全部きれいに持たなくていいよ」
その言葉が、妙に静かに入ってきた。
依央はすぐに姫顔で返した。
「大丈夫です。俺、けっこう丈夫なので」
「うん。そう言うと思った」
千紘は楽しそうに目を細める。
見抜かれている。
依央は内心で少しだけ机に沈んだ。
(強い。先輩姫、今日も強い。俺の大丈夫を普通に読んでくる。勝てない。いや、勝負してない。でも勝てない。何この人)
後輩たちがまた依央を呼ぶ。
「花宮先輩、こっちもお願いします」
「はい、今行くね」
依央はすぐに笑顔へ戻った。
部屋の中を回り、掲示を直し、色を見て、後輩に声をかける。千紘から受け取ったファイルも確認する。
嫌ではない。
むしろ、頼られるのは嬉しい。
でも、表の顔をずっと使っていると、頬の奥が少しだけ固くなる。
(姫、稼働時間長め。うれしい。ちゃんとうれしい。でも、うれしいことでも電池は減る。俺、今かなり変な状態。褒められて元気出たのに、同時に休みたい)
花の生徒会の作業が終わる頃には、外の光が少しだけ薄くなっていた。
依央はファイルを片づけ、千紘に頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま。花宮くん、助かったよ」
「いえ」
「本当に」
二回目の「助かったよ」は、やわらかいのに少し重みがあった。
依央は背筋を伸ばし直す。
「次も、ちゃんとやります」
「うん。頼りにしてる」
千紘の言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
同時に、少しだけ重くもなる。
頼られるのは嬉しい。
でも、全部ちゃんと受け取りたくなるから、力が入る。
依央は廊下に出て、ひとつ息を吐いた。
(花宮依央、外向きバッテリー残量かなり低い。歩け。雑部まで歩け。旧校舎に着いたら、少し戻る。たぶん)
****
旧校舎の廊下は、花の生徒会の部屋よりずっと静かだった。
依央が雑部室の扉を開けると、そこには久我燈真だけがいた。
晴臣はいない。
机の上には、小さな紙皿が二つ。
そこに、モンブランが置いてあった。
依央は扉を開けたまま固まった。
「……久我くん」
「何」
「これは、何ですか」
「モンブラン」
「見れば分かります」
「じゃあ何」
「何でモンブランが雑部に?」
「購買の新作」
「買ってるじゃないですか」
燈真は何も言わず、プラスチックのスプーンを差し出した。
依央はそれを受け取って、ゆっくり椅子に座った。
机に置かれたモンブランは、栗のクリームがきれいに巻かれていて、上に小さな甘露煮が乗っている。
秋だった。
めちゃくちゃ秋だった。
(やば。甘いものの中でも、今日のモンブランは強い。しかも久我くんが用意してる。購買の新作って顔してるけど、俺が来る時間に合わせて出してるでしょ。何それ。雑部、秋の回復力が高い)
「晴臣は?」
「別クラスの用事」
「珍しいですね」
「あとで来るかも」
「その前に俺が食べても?」
「花宮の分」
依央はスプーンを持つ手を止めた。
「……俺の分」
「うん」
「久我くんのは?」
「こっち」
燈真がもう一つの紙皿を指す。
「食べるんですか」
「食べる」
「意外」
「花宮がうまそうに食べるから」
依央はスプーンを落としかけた。
「……それ、理由になります?」
「なる」
(なるんだ。久我くんの中ではなるんだ。俺が食べるから自分も食べる。何それ。かわいい。いや、かわいいとか思うな。相手は地味男。地味男がモンブランを前に少しだけ素直になってるだけ。……だけ?)
「いただきます」
「うん」
モンブランは甘かった。
栗のクリームが、舌の上でほどける。下のスポンジも軽くて、力の入っていた体にちょうどいい。
依央は思わず息を吐いた。
「うま」
燈真が少しだけ目元をゆるめる。
「よかった」
「久我くん、これ、俺が疲れてると思って買いました?」
「うん」
即答だった。
依央はスプーンを止めた。
「即答」
「違う方がよかった?」
「いや、違わないですけど」
「顔、疲れてた」
「そんなに?」
「うん」
「花の生徒会では、ちゃんとしてたはずなんですけど」
「だからじゃない」
依央は言葉を失った。
だからじゃない。
その一言で、花の生徒会で笑っていた自分も、後輩に声をかけていた自分も、千紘から頼られて背筋を伸ばした自分も、全部見られた気がした。
実際には、燈真はその場にいなかった。
でも、戻ってきた依央の顔だけで分かったのだろう。
(何それ。こわ。いや、こわくない。むしろ、ちょっと助かる。ちゃんとしてたから疲れた、って分かってくれるの、普通にやばい)
「久我くん」
「何」
「俺、そんなに分かりやすいですか」
「俺には」
依央は口を閉じた。
スプーンを持つ手に力が入る。
「……今の、だいぶ危ないです」
「モンブラン?」
「違います」
燈真は少し笑った。
依央はもう一口、モンブランを食べた。
甘い。
落ち着く。
そして、落ち着いてしまうことが、少しだけ悔しい。
食べ終わる頃には、頬の奥の固さが少し抜けていた。
部室は静かだった。
窓から入る風が、掲示用の紙を少し揺らす。
依央は紙皿を片づけようとして、机の上に自分の手を置いた。
その少し向こうに、燈真の手がある。
近い。
でも、今日は怖くない。
むしろ、さっきからずっと、そこに目が行く。
(夏からずっとこれ。手を見る。手を意識する。でも今日は、心臓が爆発するっていうより、なんか……戻りたい感じ。何それ。手に戻りたいって何。俺、日本語おかしい)
依央は小さく息を吐いた。
「……少しだけ」
燈真がこちらを見る。
「何」
「充電していいですか」
言った瞬間、自分で顔が熱くなった。
「いや、今のは、糖分の延長というか。花の生徒会で使った外向き成分を戻すというか。雑部の福利厚生というか」
「手?」
「言い方」
燈真は少しだけ笑った。
それから、机の上の手を動かした。
依央の手の甲に、燈真の指先がそっと重なる。
強く握らない。
ただ、そこに置く。
「いいよ」
依央は口を閉じた。
(いいよ、って。軽い。軽いのに重い。何これ。やば。落ち着く。落ち着くのが、もうやばい)
手の甲から、じんわり温度が伝わる。
夏休みの最後に自分から取った手とは違う。
あの時は、取ることで進んだ。
今は、重ねることで戻っている。
表の顔で笑っていた自分が、少しずつほどけていく。
依央は目を伏せた。
「……これ、だいぶ効きますね」
「うん」
「久我くん、慣れてます?」
「慣れてない」
「即答」
「うん」
燈真の指先が、ほんの少しだけ返ってきた。
握るほどではない。
でも、重ねられているだけではない。
依央はそれに気づき、顔を上げた。
燈真は窓の外を見ている。
けれど、手は離れない。
「久我くんも?」
依央が小さく聞く。
燈真は少しだけ黙った。
それから、短く言った。
「俺も、少し」
依央は息を止めた。
(待って。久我くんも? 充電? 俺だけじゃない? いや、言った。今言った。俺も、少し。何それ。無理。いや、落ち着く。無理なのに落ち着く。どっち)
依央は、ほんの少しだけ指を返した。
「……どうぞ」
燈真が少しだけ笑った。
その笑い方は、いつものからかう笑いではなかった。
静かで、少しだけ力が抜けている。
依央はそれを見て、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。
(あ、これ、俺だけじゃないんだ)
思ってしまった。
言葉にしたら、たぶん照れて死ぬ。
だから言わない。
ただ、手をそのままにした。
部室の扉の外で、足音が近づいた。
依央は反射で手を引きそうになった。
でも、燈真が先にそっと離した。
乱暴ではない。
何もなかったみたいでもない。
ちゃんと、今の時間を閉じるみたいに。
次の瞬間、扉が開いた。
「悪い、遅れたー」
晴臣が入ってきて、机の上の紙皿を見た。
「え、モンブラン?」
依央はスプーンを片づけながら言った。
「晴臣、遅い」
「俺の分は?」
燈真が空の紙皿を見せる。
「ない」
「久我!」
「花宮の分」
晴臣が一瞬、依央と燈真を見た。
依央は外向きの顔ではなく、雑部の顔で晴臣を見る。
「何」
「いや」
晴臣は少しだけにやっとした。
「依央、回復してる」
依央は紙皿を持ったまま止まった。
「モンブランのおかげです」
「ほんとにそれだけ?」
「晴臣」
「はい」
「掲示案、見てもらうよ」
「急に仕事!」
「エクレアの予定があるので」
「何その報酬制度」
「秋の雑部は働く人に甘い」
燈真が小さく笑った。
晴臣は椅子に座りながら、まだにやにやしている。
「雑部、福利厚生いいなあ」
「晴臣は遅刻したので対象外」
「厳しい」
「姫は規律に厳しいので」
「さっきまで充電切れてた顔してたのに」
依央は晴臣をにらんだ。
「見てないくせに言うな」
「今の顔で分かる」
「顔、ほんとやめて」
燈真が机の端で、空になった紙皿を重ねた。
「次、晴臣の分も考えとく」
晴臣の顔が明るくなる。
「まじ?」
「花宮が選ぶなら」
「俺にも?」
「たぶん」
依央は言い返そうとして、少しだけ笑ってしまった。
花の生徒会では、ちゃんと立った。
後輩に笑い、千紘から受け取った役目に背筋を伸ばした。
雑部では、モンブランを食べて、手を重ねた。
そのどちらも、自分だった。
まだ少し照れる。
でも、さっきより息がしやすい。
(雑部、やば。戻れる。モンブランも、晴臣の雑な遅刻も、久我くんの手も。全部、なんか戻る)
窓の外で、秋の風が少しだけ廊下を通った。
依央は机の上に手を置いたまま、少しだけ指先を丸めた。
さっきまで重なっていた温度は、もうない。
でも、消えてはいなかった。
ちゃんと残っている。
晴臣が鞄からプリントを出しながら言う。
「で、花の生徒会どうだった?」
依央は少し考えてから、笑った。
「忙しくなりそう」
「うわ」
「でも、悪くない」
燈真がこちらを見る。
依央はその視線を受けて、もう一度言った。
「たぶん、悪くない」
今度は、ちゃんと自分の声で言えた。
燈真は短くうなずいた。
「そっか」
その一言が、また少しだけ効いた。
秋は、思ったより忙しそうだ。
でも、戻れる場所がある。
そう思えるだけで、依央は少しだけ、次の予定表を見る気になった。
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