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第29話 東京一日目、見られる姫と英語の地味男

東京の朝は、瑞城市の朝より少しだけ速かった。 駅に降りた瞬間、二年三組の声が一気に弾ける。大きな案内板、次々に流れる人、電車の音、改札の向こうに見える高い建物。しおりで何度も見た場所なのに、実際に来ると情報量が違った。 黒瀬陸斗は、改札を出る前から落ち着きがなかった。 「うわ、東京だ!」 「東京です」 篠宮怜央がすぐに言う。 「そういうことじゃないだろ!」 「言葉としては合ってる」 「篠宮、朝から冷静すぎ!」 鷹宮蓮は人の流れを見ながら、少し笑った。 「でも、分かるよ。瑞城から来ると、空気が違う感じがする」 「鷹宮くんが言うと、急におしゃれ」 依央が言うと、近くの男子が「分かる」とうなずいた。 「花宮も今日めっちゃ映えてるぞ」 「まだ駅だよ」 「駅でも映える」 「俺を駅の装飾みたいに扱わないで」 笑いが起きる。 依央は外向きの笑顔で受け流しながら、しおりを持ち直した。制服のリボンは少しだけ整えてある。髪も朝から崩れていない。修学旅行の写真対策としては、かなり万全だった。 (よし。花宮依央、東京仕様。駅でも浅草でも原宿でも戦える。写真も来い。視線も来い。……ただし、久我くんがどこで何を見るかは別枠。最重要枠) 久我燈真は、依央の少し後ろを歩いていた。 いつもと同じ制服。 だらしなさすぎない程度に緩い着こなし。特別浮かれている様子はない。けれど、迷う様子もない。人の流れを見て、自然に班の端に立っている。 「久我くん」 「何」 「東京、どうですか」 「人、多い」 「感想が地味」 「花宮は?」 「楽しいです」 「うん」 「うん?」 「顔、そう」 依央はしおりで口元を隠した。 (また顔。観光地より顔を見られてる。いや、顔見られるのは慣れてるけど、久我くんに楽しそうって見抜かれるのは別。くそ。東京初日、すでに地味男にペース取られてる) **** 最初の見学地では、クラス全体で集合写真を撮った。 黒瀬は中央でやたら胸を張り、鷹宮は自然に絵になり、篠宮は集合時間を気にしていた。依央は男子たちに「花宮こっち」「隣来て」と呼ばれ、いつものように笑って位置を調整する。 写真は慣れている。 隣に誰が来ても、笑顔は作れる。肩が触れても、距離が近くても、男子校の姫として処理できる。 「花宮、次俺とも!」 「はいはい、一枚だけね」 「俺も!」 「順番」 依央が笑うと、周囲がまた少し明るくなる。 見られること。 撮られること。 求められること。 それは依央にとって、息をするくらい自然なことだった。 (写真、普通。これは普通。花宮依央、修学旅行でも営業可能。大丈夫。……久我くんとは、まだ撮ってないけど) 思った瞬間、自分で内心が止まった。 (いや、そこ確認しなくていい。集合写真にはいた。たぶん映ってる。個別とか、そういう話じゃない) 浅草に着くと、黒瀬のテンションはさらに上がった。 「でけえ!」 「声もでけえ」 依央が言うと、黒瀬は雷門を見上げたまま笑った。 「いや、これは声出るだろ!」 仲見世通りは人でいっぱいだった。 揚げまんじゅう、人形焼、扇子、和小物。通りの両側に店が並び、修学旅行生や観光客が行き交う。依央が店先をのぞくたび、何人かの男子が自然に横へ寄ってくる。 「花宮、これ似合いそう」 「かんざし?」 「いや、飾ってあるだけで」 「俺の髪に挿す気?」 「似合いそうではある」 「男子高校生にかんざしを勧めるな」 鷹宮が笑う。 「でも、花宮なら和小物も似合うね」 「鷹宮くん、褒め方がすぐ写真集になる」 篠宮は横で、店の混雑具合を確認している。 「ここで食べるなら、集合時間を少し意識した方がいい」 黒瀬はもう人形焼を見ていた。 「篠宮、分けようぜ!」 「個数で分ければいい」 「細かい!」 「食べ物は揉める前に分ける」 「妙に説得力あるな」 依央は笑いながら、燈真を見る。 燈真は店先の奥ではなく、人の流れを見ていた。 班がばらけないように。 誰かが置いていかれないように。 派手に仕切るわけではないのに、ちゃんと見ている。 (こういうところ。久我くん、目立たないのに地味に全部見てる。黒瀬のテンション、篠宮の段取り、鷹宮の写真映え、俺の……俺の何を見てるんだろ) 「花宮」 「はい」 燈真が小さな紙袋を差し出した。 「これ」 「え?」 「栗のやつ」 「買ったんですか」 「花宮、見てた」 確かに、依央はさっき店先の栗入り人形焼をちらっと見た。 でも、買うとは言っていない。 依央は紙袋を受け取って、しばらく見つめた。 「……久我くん」 「何」 「俺、見てただけなんですけど」 「うん」 「それで買います?」 「食べるだろ」 (扱いが進化してる。俺、見ただけで栗を与えられる生き物になってる。しかも外れてない。食べる。めっちゃ食べる。悔しい) 「食べます」 燈真が少しだけ笑った。 **** 浅草のあとは、スカイツリー方面へ移動した。 見上げる塔は、しおりの写真よりずっと高かった。黒瀬が「首痛い!」と笑い、鷹宮が「写真撮ろう」とスマホを出す。依央は何度も呼ばれ、何度も笑った。 「花宮、もっと右!」 「右?」 「スカイツリーと一緒に入る」 「俺、添え物?」 「メイン」 「スカイツリーに怒られる」 男子たちが笑う。 依央は慣れた笑顔で写真に入る。 楽しい。 普通に楽しい。 瑞城市の校舎や白鷺坂駅前とは違う景色の中で、クラスメイトたちが浮かれている。黒瀬は何を見ても声が大きいし、篠宮は時刻表とにらめっこしているし、鷹宮はどこに立っても絵になる。 その全部が、ちゃんと修学旅行だった。 でも、燈真はあまり写真に入らない。 撮る側に回ったり、荷物を見たり、さりげなく端にいる。 依央はそれが気になった。 (久我くん、写真少な。もっと写ればいいのに。いや、本人が嫌なら無理に言わないけど。……俺、何で久我くんの写真枚数を気にしてんの。修学旅行係? 違う。完全に違う) 「久我くんも入ればいいのに」 気づいたら、口に出ていた。 燈真がこちらを見る。 「写真?」 「はい」 「花宮、呼ばれてる」 「それは、まあ」 「俺はいい」 「よくないです」 燈真は少しだけ目を細めた。 「じゃあ、あとで」 あとで。 その一言だけで、依央の胸が妙に浮いた。 (あとで。あとでって言った。写真、あとで。何それ。予約? いや、ただの返事。修学旅行の写真に予約とかない。でも、あとでって言った。やば) 黒瀬が遠くから叫ぶ。 「花宮ー! 次こっち!」 「はいはい!」 依央は走り寄りながら、内心で頭を抱えた。 (写真なんて普通。普通なのに、久我くんの『あとで』だけ普通じゃない。今日の俺、だいぶ厄介) **** 午後、班は渋谷へ向かった。 駅前に出た瞬間、色が変わった。 大きなスクリーン、行き交う人、音、服、看板、全部が動いている。原宿方面へ歩き出す頃には、依央の顔は自然と明るくなっていた。 「花宮、似合うな」 黒瀬が言った。 「何が」 「この辺」 「ざっくり」 「なんか、街に負けてない」 「それ褒めてる?」 「褒めてる!」 鷹宮も同意する。 「花宮は色が多い場所でも埋もれないね」 「鷹宮くん、今日ずっと褒めが強い」 「本当のことだよ」 依央は笑って流した。 周囲からの視線も、少しだけ感じる。 修学旅行の制服姿の男子たち。その中で、依央は確かに目立つ。声をかけられるほどではないが、ちらりと見られることはある。 平気だ。 それはいつものことだから。 けれど、燈真がどう見ているかだけが気になった。 燈真は何も言わず、依央の隣を歩いている。 少し後ろでもなく、遠くでもない。 隣。 それだけで、依央の中が少しだけ浮いた。 (渋谷。原宿。街。人。写真。隣に久我くん。はい、情報量。俺、今かなり楽しい。やばい。普通に楽しい) その時、通りの角で外国人観光客らしい二人組が、地図アプリを見ながら立ち止まっていた。 班の前を歩いていた黒瀬が「何か探してる?」と首を傾げた瞬間、相手の一人が燈真に英語で声をかけた。 依央は一瞬、固まる。 燈真は、何でもない顔で返した。 発音が自然だった。 短く、迷いなく、道順を示す。スマホの地図を指しながら、駅の出口と曲がる場所を説明する。相手がほっとした顔で礼を言うと、燈真は軽くうなずいて戻ってきた。 依央は、口を開けかけて閉じた。 黒瀬が代わりに叫んだ。 「久我、今の何!?」 「道聞かれた」 「英語で返してたよな!?」 「うん」 篠宮も少し驚いた顔をしている。 「発音、かなり自然だった」 「地図見せただけ」 依央はやっと声を出した。 「いや、地図見せただけの発音じゃなかったです」 燈真が依央を見る。 「そう?」 「そうです」 「伝わったならいい」 「よくないです」 「何が」 「情報量です」 黒瀬が横でうなずく。 「久我、お前、英語できたのかよ!」 「少し」 篠宮が静かに言う。 「少しの範囲じゃない」 鷹宮は面白そうに笑っている。 「久我、隠し味が多いね」 「料理みたいに言うな」 依央は燈真を見た。 いつもの顔。 地味で、目立たなくて、必要なことだけする顔。 でもさっき、東京の街の真ん中で、普通に英語を話していた。 しかも、依央が気づくより先に。 (何それ。地味男、東京で急に国際対応するな。英語? ペラペラ? 少し? 少しって何? 俺の知ってる少しと違う。やば。久我くん、また何か言ってないことあった。腹立つ。かっこいい。腹立つ) 「花宮」 燈真が呼ぶ。 「はい」 「顔、にぎやか」 依央は一瞬で現実に戻った。 「……今のは、東京のせいです」 「東京」 「東京は情報量が多いので」 「俺じゃなくて?」 燈真の目が少しだけ笑っていた。 依央は返事に詰まった。 「……だいぶ久我くんです」 黒瀬が「おお」と意味もなく声を上げる。 篠宮が無言で黒瀬の腕を引いた。 鷹宮が笑っている。 燈真は少しだけ目を伏せた。 「そっか」 その反応が、妙に静かだった。 依央は胸の奥がまた変なふうに鳴るのを感じた。 (そっか、じゃない。何その受け取り方。照れた? いや、違う? やば。英語より今の顔の方が難しい) **** 夕方、班別行動が終わりに近づく頃、依央は小さな雑貨店の前で立ち止まった。 店先には、東京らしい小さなチャームやキーホルダーが並んでいる。まだ買う予定はない。今日は下見みたいなものだ。 でも、隣に燈真がいる。 それだけで、目に入るものが少し変わる。 「花宮、土産?」 黒瀬が聞く。 「まだ見てるだけ」 「榎本に頼まれてんの?」 「晴臣はたぶん自力で悩んでる」 「彼氏って大変だな」 「黒瀬くんが言うと急に雑」 鷹宮が小さなチャームを見ながら言う。 「花宮は、こういうの好きそう」 「俺?」 「小さくて、でも目を引く感じ」 「褒めてる?」 「もちろん」 依央は笑ってチャームを見た。 その横で、燈真が何かを見ている。 小さな星形のストラップだった。 派手ではない。 でも、シンプルで、少しだけ光る。 依央はそれを見て、なぜか少し気になった。 「久我くん、それ」 「何」 「気になります?」 「花宮、見てた」 「俺が?」 「うん」 また見られていた。 依央はチャームの前で立ち止まる。 「見てただけです」 「買う?」 「流れが早い」 「じゃあ、明日」 明日。 依央はその言葉に、また少し止まった。 今日はまだ買わなかった。 でも、依央の頭の中に、その小さな星形が残った。 修学旅行一日目は、東京の色でいっぱいだった。 浅草のにぎわい。 スカイツリーの高さ。 渋谷と原宿の人の波。 黒瀬の声。 篠宮の冷静な段取り。 鷹宮の写真みたいな褒め方。 そして、英語で道案内をする燈真。 **** 依央は帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。 少し疲れている。 でも、楽しそうだった。 「花宮」 隣の燈真が言う。 「はい」 「楽しかった?」 依央は、少しだけ考えた。 朝からずっと、たくさん見られた。 たくさん撮られた。 たくさん笑った。 でも、頭の中に一番残っているのは、東京の景色だけではない。 英語を話す燈真。 「花宮、見てた」と言う燈真。 星形のストラップを見る燈真。 「……楽しかったです」 依央は正直に答えた。 燈真は短くうなずく。 「ならいい」 その一言が、また静かに胸の奥へ入ってきた。 依央は窓の外を見た。 街の明かりが流れていく。 (東京、すごかった。浅草も、スカイツリーも、渋谷も、原宿も。でも、久我くんの英語が一番びっくりしたの、どうなんだ俺) それでも、楽しいものは楽しい。 認めたら少し負けた気がする。 でも、今日はそれでもいい気がした。 依央は、窓に映る燈真の横顔を、ほんの少しだけ見た。 東京の夜に、地味男の知らない顔がまだ残っている。 明日も、何か見てしまうのだろうか。 そう思ったら、疲れているはずなのに、胸の奥がまた少しだけ浮いた。

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