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第31話 模試と、月見団子の手のひら返し

模試の日の教室は、朝から空気が固かった。 普段なら修学旅行の写真や土産の話でまだ少し浮いている二年三組も、この日ばかりは机の上に筆記用具と受験票めいた紙を置き、妙に静かだった。 黒瀬陸斗ですら、朝の声がいつもより少し小さい。 「花宮」 「何」 「模試って、名前からして強くない?」 「分かる」 「模、って何だよ。試すなよ」 「そこ?」 篠宮怜央が前の席で、鉛筆を並べながら言った。 「試すためのものだから」 「篠宮、朝から正論が冷たい」 「模試に温度を求めるな」 鷹宮蓮は窓際で、問題用紙の配布を待ちながら笑った。 「花宮、今日は少し顔が真剣だね」 「模試なので」 「真剣な姫も絵になるよ」 「鷹宮くん、模試の日まで褒め方が通常運転」 「緊張がほぐれるかと思って」 「ほぐれたけど、ちょっと悔しい」 教室に小さく笑いが起きる。 でも、その笑いもすぐに静かになった。 模試が始まる。 問題用紙が配られ、時計の針が進み、シャーペンの音だけが教室に残る。 依央は問題を見下ろした。 分かるものは分かる。 分からないものは、当然の顔で分からない。 そして、そういう問題ほど、やたら紙面の真ん中に座っている。 (秋ってやだ。空は高いし、風は気持ちいいし、修学旅行の余韻でいい顔してるくせに、模試とか入れてくる。進路意識しろ感がすごい。季節の顔がいい分、性格が悪い) 隣の列では、燈真が静かに問題を解いていた。 いつも通りの顔。 焦りも、眠そうな感じもない。 ただ、淡々と鉛筆を動かしている。 依央は一瞬だけ見てしまい、すぐに自分の問題へ戻った。 (久我くん、普通の顔で解いてる。あの普通が信用できない。できてるのか、できてないふりなのか、何も読めない。模試より久我くんの方が難問。いや、問題に集中しろ俺) **** 午後、すべての科目が終わった時、黒瀬は机に突っ伏した。 「終わった」 篠宮が筆記用具を片づけながら言う。 「終わったのは模試であって、黒瀬ではない」 「篠宮、今だけは優しくしてくれ」 「自己採点は後で」 「優しさゼロ!」 鷹宮は問題冊子を閉じて、依央を見る。 「花宮、お疲れ」 「鷹宮くんも」 「疲れた顔も絵になるね」 「褒める場所が雑」 「本気なんだけど」 「余計に処理しづらい」 依央は苦笑しながら、鞄を持った。 鞄の内側で、小さな星形ストラップがかすかに揺れた。 テーマパークで買った、薄い青の星。 雑部用。 予備。 管理しやすいから。 そう言い張ったもの。 依央は一瞬だけ、そのストラップを指で触った。 模試で重くなった頭の中に、土産屋の光と、燈真の「花宮が選んだし」という声が戻る。 (やば。ちょっと戻る。これ、効く。模試で削られたのに、星ひとつで少し持ち直す。雑部用って言い張ったのに、完全に俺用にもなってる) **** 廊下へ出ると、燈真が先に待っていた。 鞄のファスナーの近くに、銀色の星形ストラップがついている。 派手ではない。 でも、ちゃんと見える位置にある。 依央は足を止めた。 雑に鞄の中へ入れているのではなく、そこにつけている。 しかも、傷がつかないように、金具の向きまで少し整えられていた。 (待って。ついてる。ちゃんとついてる。しかも雑じゃない。久我くん、それ大事にしてる? 俺だけじゃない? 模試で死んだ頭にこれは強い。やば) 燈真が顔を上げる。 「花宮」 「はい」 「顔、少し戻った」 「見ないでください」 「見えた」 「今日それ言われると弱いです」 「模試?」 「模試です」 「どうだった」 依央は一度、天井を見た。 「秋が嫌いになりました」 燈真は少しだけ瞬きをした。 「秋」 「はい。模試とかあるし、進路意識しろ感すごいし、空だけは無駄にきれいだし」 「空は悪くない」 「そういう正しさ、今いらないです」 燈真は少し笑った。 「雑部行く?」 「行きます」 即答だった。 旧校舎へ向かう廊下は、放課後の声で少しだけ騒がしかった。 模試から解放された生徒たちが、あちこちで「できた?」「無理」「終わった」と短い感想を投げ合っている。 依央はその声を聞きながら、肩を落とした。 「秋ってさ」 「うん」 「顔がいい季節のふりして、模試とか入れてくるの、性格悪くないですか」 「季節に性格ある?」 「あります。今日できました」 燈真は少しだけ笑った。 雑部室に入ると、晴臣が先に来ていた。 机の上には、月見団子の入った小さなパックと、紙コップが三つ。横には、湯気の立つほうじ茶のペットボトルが置かれている。 晴臣は椅子に座ったまま、手を上げた。 「お疲れ、模試に殴られた姫」 「言い方」 「顔がそう」 「全員顔で判断するのやめて」 「模試どうだった?」 依央は鞄を置いた。 「秋が嫌いになった」 「規模でか」 燈真が机の上を見た。 「団子」 晴臣が得意げに胸を張る。 「今日は俺。千紘さんが、模試の後は甘いものがいいよって言ってた」 依央は晴臣を見る。 「白石先輩、神?」 「神ではある」 「彼氏が即答した」 晴臣は照れた顔で咳払いした。 「で、買ったのは俺。ほうじ茶も俺。今日は晴臣提供です」 「珍しい」 「俺だって差し入れくらいする」 燈真が短く言う。 「助かる」 晴臣が一瞬で明るくなった。 「久我に褒められた」 「助かるって言っただけ」 「それがレア」 依央は椅子に座り、月見団子を見た。 白い団子。 少し黄色い団子。 小さな串。 窓の外は、まだ明るさが残っている。秋の夕方は、夏より光が薄くて、部室の机の上までやわらかく届いた。 「……秋っぽい」 「だろ」 晴臣が紙コップへほうじ茶を注ぐ。 「模試で秋にキレてる依央を、秋の良いところで殴り返す作戦」 「言い方」 「ほら、食べろ」 依央は団子を一つ口に入れた。 もちもちしている。 甘い。 ほうじ茶を飲むと、香ばしさが喉に落ちた。 「……うま」 晴臣がにやりとする。 「秋、どう?」 依央は悔しいほどすぐに答えた。 「悪くない」 晴臣が机を叩いて笑った。 「早い!」 「団子がある季節は信用できます」 「さっき秋にキレてた」 「模試は秋の悪い部分。団子は秋の良い部分」 「都合いいな」 「俺は良いところを見るタイプなので」 燈真が横で少し笑っていた。 依央はその顔を見て、少しだけむっとする。 「何ですか」 「戻ったなって」 「団子で戻る顔みたいに言わないでください」 「違う?」 依央は団子の串を見た。 違わない。 違わないから腹立つ。 「……少し」 晴臣がまた笑う。 「依央、扱いやすくなってきたな」 「晴臣、ほうじ茶こぼすよ」 「脅し方が地味」 「現実的でしょ」 三人で団子を食べているうちに、模試の重さが少しずつ部屋の隅へ寄っていった。 勉強の話はほとんどしなかった。 黒瀬が「終わった」と言っていたこと。 篠宮が最後まで自己採点の話をしていたこと。 鷹宮が疲れた顔まで褒めてきたこと。 そんな話だけで、十分だった。 「勉強いらないと思うんだよね」 依央が言うと、晴臣が即座に顔を上げた。 「出た」 「実力だけ測ってほしい」 「それ模試」 「違う。勉強したかどうかが混ざってくるのが嫌」 「わがまま姫」 「うるさい」 燈真が団子を一つ食べて、短く言った。 「実力も、勉強した分も、どっちも出るだろ」 「久我くん」 「何」 「そういう正しさ、今日は団子一個没収です」 燈真は黙って、自分の団子を一つ依央の皿へ移した。 依央は固まった。 「……素直に渡さないでください」 「没収だろ」 「俺が悪いみたいになる」 「ならない?」 「なります」 晴臣が肩を震わせている。 「久我、依央の扱いが静かに強い」 「扱われてない」 「団子増えてるぞ」 「……増えてます」 依央は追加された団子を見た。 燈真の団子。 ただそれだけなのに、妙にうれしい。 (模試で荒れて、秋にキレて、団子で戻って、久我くんから団子が来る。何この流れ。秋、強い。さっき嫌いって言ったの取り消すか? いや、早い。でも取り消したい) **** 夕方が少しずつ深くなった。 窓の外に、白い月が薄く見え始める。まだ夜ではない。けれど、空の高いところに、少しだけ丸い光が浮かんでいた。 晴臣がスマホを見て立ち上がる。 「あ、ごめん。ちょっと千紘さんに電話してくる」 「今?」 「模試どうだったって聞かれてた」 「晴臣、模試より声が弾んでる」 「うるさい」 晴臣は照れながら部室を出た。 扉が閉まると、部屋は急に静かになった。 机の上には、団子のパックと、ほうじ茶の紙コップ。 窓の外には、薄い月。 依央は、鞄の星形ストラップを指で触った。 薄い青。 その時、燈真の鞄についた銀色の星も、机の端で小さく揺れた。 依央はそれを見てしまう。 やっぱり、ちゃんとついている。 大事そうに。 「久我くん」 「何」 「それ、つけてるんですね」 燈真は自分の鞄を見る。 「ああ」 「雑部用なのに」 「管理してる」 「管理」 「なくさないように」 依央は何も言えなくなった。 (なくさないように。え、何それ。さらっと言うな。大事にしてるって言えばいいのに。いや、言われたら死ぬ。管理って言い方、地味なのに強い) 「花宮も」 燈真が言う。 「え?」 「つけてる」 「俺は、管理しやすいので」 「うん」 「あと、雑部用なので」 「うん」 「……そういうことです」 燈真は少しだけ笑った。 「そっか」 その顔が、全部分かっているように見えて、依央は視線をそらした。 窓の外の月を見る。 白くて、薄い。 今日の模試で荒れた気持ちが、団子とほうじ茶と、星形ストラップと、燈真の短い声で、少しずつ落ち着いていく。 依央は机の上に手を置いた。 燈真の手は、少し向こうにある。 最近、その距離が分かるようになってきた。 近い。 でも、近づけようと思わなければ近づかない。 依央は小さく息を吐いた。 「……今日、現実にかなり削られたので」 「うん」 「少しだけ、いいですか」 燈真はすぐに分かったように、手を動かした。 依央の手の甲に、燈真の指先がそっと重なる。 強く握らない。 ただ、置く。 それだけで、肩の力が抜ける。 「いいよ」 依央は目を伏せた。 (これ。やば。落ち着く。模試より団子より、結局これが一番効いてる気がする。いや、団子も効いた。秋も効いた。でも手、強い) しばらく、そのままだった。 窓の外で、月が少しだけ白さを増している。 依央が黙っていると、燈真が小さく息を吐いた。 いつもより、ほんの少しだけ疲れているように見えた。 依央は顔を上げる。 「久我くんも、疲れてます?」 「少し」 「模試で?」 「いろいろ」 「いろいろ」 それ以上は聞かなかった。 聞かない代わりに、依央は重ねられた手の下で、ほんの少しだけ指を返した。 「今日は久我くんの分も、どうぞ」 燈真が依央を見る。 その目が、少しだけやわらかくなる。 「うん」 たったそれだけ。 でも、燈真の手からも、少しだけ力が抜けた気がした。 依央はそれがうれしかった。 自分だけが戻るのではない。 燈真も、少しだけここで落ち着く。 それが、今日の団子よりずっと甘かった。 扉の外で晴臣の足音がした。 燈真は、さっきと同じように、そっと手を離した。 乱暴ではなく、今の時間をきちんとしまうみたいに。 晴臣が戻ってきた。 「ただいま。千紘さん、模試の話してたはずなのに、途中から俺の声が疲れてるって言い出した」 依央は笑った。 「白石先輩、さすが」 「ほんとにな。で、何か空気やわらかいけど」 「団子のおかげ」 依央が言うと、晴臣は目を細めた。 「ほんとに?」 「晴臣、団子食べな」 「はいはい」 燈真はほうじ茶を一口飲んで、少しだけ笑っていた。 晴臣が団子を食べながら聞く。 「で、秋どうなった?」 依央は窓の外の月を見た。 それから、机の上の団子と、鞄の星形ストラップと、隣にいる燈真をちらっと見る。 「秋、最高かもしれない」 晴臣が吹き出した。 「手のひら返し早!」 「月きれいだし、団子あるし」 「模試は?」 「秋の悪い部分」 「都合いい!」 「でも、良い部分が勝ちました」 晴臣は笑いながら、燈真を見る。 「久我、どう思う?」 燈真は短く言った。 「戻ったならいい」 その声に、依央は少しだけ笑った。 模試は嫌だった。 現実も重かった。 でも、団子はうまい。 月はきれい。 星形ストラップはちゃんと鞄についている。 そして、手は落ち着く。 秋は、思ったより悪くない。 いや。 かなり、いいかもしれない。

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