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第33話 文化祭一日目、クラス出し物と花の姫

文化祭一日目の朝、二年三組はいつもの教室ではなくなっていた。 机は壁際へ寄せられ、窓には飾りが吊られ、黒板には大きな文字で出し物名が書かれている。昨日まで段ボールだったものが、看板になり、紙の束だったものがメニュー表になり、ばらばらだった色が教室全体にまとまっていた。 依央は教室の入口で、一度だけ深く息を吸った。 文化祭の匂いがする。 紙とテープと、少し甘い飲み物と、朝から浮かれている男子たちの熱量。 「花宮!」 黒瀬陸斗が、開場前から声を張った。 「どうだ、看板!」 「朝から声でか。看板はいい感じ」 「だろ!」 黒瀬が胸を張る。 看板には、鷹宮蓮が選んだ色と、依央が整えた文字と、篠宮怜央が最後まで位置を測っていた矢印が入っていた。黒瀬の勢いだけで作られたら大事故だったかもしれないが、三人の手が入った結果、かなり見栄えがいい。 篠宮は入口の横で、通路の幅を確認していた。 「黒瀬、そこに立つと人が詰まる」 「まだ誰も来てないぞ」 「来る前にどく」 「篠宮、文化祭でも冷静!」 「当日だから冷静にする」 鷹宮はメニュー表を整えながら、依央を見る。 「花宮、リボン少し直していい?」 「え、崩れてる?」 「崩れてない。今日の教室に合わせるなら、少しだけ角度を変えた方が綺麗」 「鷹宮くん、美意識が細かい」 「花宮が入口に立つなら、第一印象は大事だから」 近くにいた男子が即座に乗った。 「花宮が入口にいたら、それだけで客来るだろ」 「客寄せにしないで」 「白鷺坂の姫、文化祭仕様!」 「その呼び方、教室の外へ出さないでね」 笑いが起きる。 依央は外向きの笑顔を作った。 表の顔。 いつもの姫の顔。 けれど、今日は少しだけ違う。 文化祭の教室で、誰より見られる準備ができている顔。 (よし。花宮依央、文化祭仕様。入口、接客、写真、後輩対応、全部来い。ここは戦える。……いや、戦うって何。文化祭だよ。落ち着け俺) **** 開場の合図が鳴ると、廊下の空気が一気に動いた。 一年生、三年生、他クラスの男子、教員、外部から来た客。人の流れが二年三組の前を通り、看板を見て、依央を見て、足を止める。 「いらっしゃいませ」 依央が笑う。 たったそれだけで、男子たちの顔が少し赤くなる。 「え、花宮先輩いる」 「ほんとだ」 「写真、いいですか?」 「出し物を楽しんでからね」 「はい!」 後輩たちはきらきらした顔で教室へ入っていく。 黒瀬が小声で言った。 「花宮、強い」 「黒瀬くん、接客して」 「してる。花宮の後ろで勝利を感じてる」 「その勝利、売上にならないよ」 篠宮が横から淡々と言う。 「花宮の前で足が止まる人が多い。入口の案内を二人に増やした方がいい」 「篠宮くん、観察が現実的」 「混むと流れが悪くなる」 鷹宮がさらっと立ち位置を変えた。 「じゃあ、僕が隣に立つよ。花宮だけだと視線が集まりすぎる」 「鷹宮くん、それは分散じゃなくて増加です」 「そうかな」 そうだった。 鷹宮が隣に立つと、入口の画面が急に強くなる。 王子と姫、という誰かの雑な言葉が頭をよぎりそうになって、依央は内心で押し戻した。 (いや、今それはだめ。鷹宮くんはクラスメイト。俺は入口担当。文化祭。接客。はい、仕事) それでも、人は来た。 写真を頼まれ、声をかけられ、メニューを聞かれ、後輩に手を振られ、教員から「花宮、似合ってるな」と笑われる。 依央は全部、きれいに受けた。 「ありがとうございます」 「こちらの席へどうぞ」 「写真はあとで、廊下が落ち着いてからね」 「おすすめ? じゃあ、これかな。黒瀬くんが朝から推してるので」 「篠宮くん、注文表お願い」 「鷹宮くん、ここ少し見てて」 声を出す。 笑う。 手元を見る。 全体を見る。 誰が詰まっているか、誰が戸惑っているか、誰が写真だけ撮って行こうとしているか。 全部、見えていた。 そして、それを自然にさばける自分が、少し誇らしかった。 (文化祭、やば。忙しい。でも楽しい。見られるのは得意。こういう空気、ちゃんと動かせる。花宮依央、学校中に見られる姫として普通に稼働してる) **** 昼前になると、花の生徒会から呼び出しが来た。 校内マップの前で、人の流れが少し詰まっているらしい。 依央はクラスの男子たちに入口を任せ、廊下へ出た。 廊下でも、すぐに声をかけられる。 「花宮先輩、写真いいですか?」 「今は案内の途中だから、あとでね」 「花宮くん、花の生徒会の方?」 「はい。マップならこちらです」 「さすが、分かりやすい」 「ありがとうございます」 花の生徒会の腕章をつけると、依央の立ち位置は少し変わる。 クラスの姫ではなく、学校全体の案内役。 けれど、見られることに変わりはない。 むしろ、廊下の中心を歩くたび、視線が増える。 校内マップの前では、後輩たちが少し慌てていた。 「花宮先輩!」 「大丈夫。ここ、クラス企画の案内とステージの案内が近すぎるかも。列を少しずらそう」 「はい」 「この紙、こっちへ。矢印は大きく」 「分かりました」 依央が動くと、後輩たちも落ち着いて動き始める。 見られる。 頼られる。 呼ばれる。 それは忙しいけれど、嫌ではない。 ちゃんと立っている実感があった。 その時、廊下の向こうから、白石千紘が歩いてきた。 私服ではない。制服のままだが、文化祭の客として少しだけ雰囲気が柔らかい。隣には晴臣がいた。晴臣は別クラスの飾りを少しつけたまま、明らかにそわそわしている。 「花宮くん」 千紘が声をかける。 「白石先輩」 依央は自然に背筋を伸ばした。 「来てくださったんですね」 「うん。少しだけ。花宮くん、すごく頼もしいね」 その言葉は、飾りではなかった。 依央の胸に、すっと入ってくる。 「ありがとうございます」 「クラスも花の生徒会も、どっちも似合ってる」 晴臣が横でうなずいた。 「依央、今日めちゃくちゃ働いてる」 「晴臣は千紘さんの隣で浮かれすぎ」 「浮かれてない」 千紘が少し笑う。 「晴臣くんも、自分のクラス頑張ってたよ」 「千紘さん」 晴臣の顔が一瞬でゆるむ。 依央はその顔を見て、内心で少し笑った。 (晴臣、分かりやす。文化祭の照明いらないくらい顔が明るい。白石先輩も、さらっと褒めるのうまい。彼氏を育てる清楚姫、強い) 千紘は依央の腕章を見て、やわらかく言った。 「無理しすぎないでね」 「はい」 「でも、楽しそう」 依央は少しだけ言葉に詰まった。 「……はい。楽しいです」 「なら、よかった」 千紘は短く笑い、晴臣と一緒に廊下の奥へ歩いていった。 晴臣がこちらを振り返り、小さく親指を立てる。 依央は笑って手を振った。 その時、廊下の向こうに燈真がいるのが見えた。 雑部の腕章をつけ、古い備品箱を持っている。 何かの確認で移動中らしい。 依央と目が合う。 燈真は立ち止まらなかった。 ただ、ほんの少しだけ依央を見た。 クラスの入口で笑っていた顔。 花の生徒会の腕章をつけた顔。 後輩に指示を出している顔。 全部を見たような目だった。 依央は一瞬、笑顔のまま固まった。 (見てた? 今、見てた? いや、廊下だから見える。普通に見える。でも、久我くんが見ると普通じゃない。俺、学校中から見られてるのに、久我くん一人に見られる方が重い。何これ) 「花宮先輩?」 後輩に呼ばれ、依央はすぐに戻った。 「ごめん。こっちの列、少し右へ」 仕事はまだある。 文化祭は止まらない。 **** 昼過ぎ、依央はクラスへ戻った。 二年三組はさらに混んでいた。 黒瀬は呼び込みで完全に火がついている。 「どうぞ! 二年三組、今ならすぐ入れます!」 篠宮が横から訂正する。 「すぐではない。三分待ち」 「細かい!」 「正確な案内は大事」 鷹宮は写真を頼まれて、自然な笑顔で応じている。 「花宮、戻った」 鷹宮が言うと、教室の中から何人かが振り返った。 「花宮!」 「おかえり!」 「入口お願い!」 依央は笑った。 「はいはい。戻りました」 戻った瞬間、空気が少しだけ明るくなる。 それが分かる。 分かってしまう。 依央は入口に立ち、また笑顔を作った。 「いらっしゃいませ」 写真を頼まれる。 おすすめを聞かれる。 後輩に手を振られる。 他クラスの男子が赤くなる。 依央は全部、いつものように受ける。 その中で、ふと燈真の姿を探してしまう。 廊下の端。 雑部の備品箱。 腕章。 見つけた瞬間、胸が少し跳ねる。 燈真は、誰かに呼ばれて短く返事をしていた。目立たない。けれど、依央の方をまた一度だけ見る。 ほんの一度。 それだけ。 (やば。見られるの得意なのに。学校中から見られても平気なのに。久我くんの一回だけで、全部持っていかれる。何それ。ずるい) **** 夕方近く、客足が少し落ち着いた頃、依央は教室の奥で水を飲んだ。 足が少し疲れている。 頬も少し痛い。 笑い続けたからだ。 黒瀬が満足そうに言う。 「花宮、今日すげえな。入口に立つだけで空気変わる」 「黒瀬くん、褒め方が雑」 「でも本当だろ」 篠宮が注文表をまとめながら言った。 「実際、花宮がいる時間帯は滞在人数が増えている」 「篠宮くん、数で出さないで」 「事実」 鷹宮が水のボトルを差し出した。 「お疲れ。今日の花宮は、本当に文化祭の顔だったよ」 依央は受け取った。 「ありがとう。鷹宮くんの褒め、今日はちょっと素直に受け取る」 「いつも受け取っていいんだけどね」 黒瀬が笑う。 「花宮、照れてる?」 「照れてません」 「照れてるな」 「黒瀬くん、片づけ」 「はい!」 黒瀬は勢いよく動き出した。 その元気さに、依央は少し笑った。 楽しかった。 本当に。 忙しくて、見られて、呼ばれて、立ち続けて。 でも、ちゃんと楽しかった。 クラスの顔として立つのも、花の生徒会で案内するのも、後輩が頼ってくるのも。 全部、嫌ではない。 嫌ではないどころか、かなり嬉しい。 けれど。 依央は自分の鞄についた薄い青の星形ストラップを見た。 小さく揺れている。 その向こうで、燈真の鞄についた銀色の星を思い出す。 今日、廊下で見かけた燈真。 備品箱を持っていた手。 依央を見る目。 (学校中に見られるのは、平気。むしろ得意。でも、久我くんに見られると、ぜんぜん平気じゃない。なのに、見てほしい。何それ。俺、かなりやばいところまで来てない?) 「花宮」 声がした。 教室の入口に、燈真が立っていた。 客ではない。 雑部の用事でもない。 ただ、そこにいる。 「久我くん」 「終わった?」 「今日の分は、だいたい」 「お疲れ」 短い一言。 それだけ。 依央は、今日一日もらったどの褒め言葉より、その一言に力が抜けた。 「……ありがとうございます」 燈真は教室の中をちらっと見た。 「似合ってた」 依央は固まった。 「え」 「今日の花宮」 「……どれですか」 「全部」 依央は水のボトルを握った。 全部。 クラスの入口に立つ自分も。 花の生徒会の腕章をつける自分も。 後輩に指示する自分も。 写真を頼まれて笑う自分も。 全部。 (待って。今日の全部を見たみたいな言い方するな。いや、見てたんだ。少しずつ。久我くん、ちゃんと見てた。学校中に見られても平気だったのに、これ一個で無理。無理だけど、うれしい) 「久我くん」 「何」 「そういうの、文化祭の終わり際に言うの、かなり効きます」 「効いた?」 「効きました」 依央は素直に言ってしまった。 言ってから、少しだけ顔が熱くなる。 燈真は目元をゆるめた。 「そっか」 その声が、また静かに入ってくる。 黒瀬が遠くから「花宮ー! 片づけるぞー!」と叫んだ。 依央は振り返る。 「今行く!」 返事をしてから、もう一度燈真を見た。 「久我くんも、雑部の方、あとで行きます?」 「行く」 「じゃあ、あとで」 「うん」 たったそれだけ。 でも、依央は少しだけ軽くなった。 学校中から見られる日だった。 たくさん笑って、たくさん褒められて、たくさん呼ばれた。 その全部は、ちゃんと楽しかった。 でも一日の最後に残ったのは、教室の入口で燈真が言った短い言葉だった。 今日の花宮。 全部。 依央は片づけへ戻りながら、胸の奥がうるさくなるのを感じた。 (やば。これ、今日いちばん残るやつだ) 文化祭一日目の教室には、まだ笑い声と紙の匂いが残っている。 依央は看板を外す黒瀬に声をかけ、篠宮のまとめた注文表を受け取り、鷹宮と一緒に飾りを丁寧に外した。 明日も文化祭は続く。 でも、今日の最後に燈真が見ていた自分は、たぶん、依央の中にずっと残る。 そのことが、少し照れくさくて。 かなり、うれしかった。

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