33 / 44
第33話 文化祭一日目、クラス出し物と花の姫
文化祭一日目の朝、二年三組はいつもの教室ではなくなっていた。
机は壁際へ寄せられ、窓には飾りが吊られ、黒板には大きな文字で出し物名が書かれている。昨日まで段ボールだったものが、看板になり、紙の束だったものがメニュー表になり、ばらばらだった色が教室全体にまとまっていた。
依央は教室の入口で、一度だけ深く息を吸った。
文化祭の匂いがする。
紙とテープと、少し甘い飲み物と、朝から浮かれている男子たちの熱量。
「花宮!」
黒瀬陸斗が、開場前から声を張った。
「どうだ、看板!」
「朝から声でか。看板はいい感じ」
「だろ!」
黒瀬が胸を張る。
看板には、鷹宮蓮が選んだ色と、依央が整えた文字と、篠宮怜央が最後まで位置を測っていた矢印が入っていた。黒瀬の勢いだけで作られたら大事故だったかもしれないが、三人の手が入った結果、かなり見栄えがいい。
篠宮は入口の横で、通路の幅を確認していた。
「黒瀬、そこに立つと人が詰まる」
「まだ誰も来てないぞ」
「来る前にどく」
「篠宮、文化祭でも冷静!」
「当日だから冷静にする」
鷹宮はメニュー表を整えながら、依央を見る。
「花宮、リボン少し直していい?」
「え、崩れてる?」
「崩れてない。今日の教室に合わせるなら、少しだけ角度を変えた方が綺麗」
「鷹宮くん、美意識が細かい」
「花宮が入口に立つなら、第一印象は大事だから」
近くにいた男子が即座に乗った。
「花宮が入口にいたら、それだけで客来るだろ」
「客寄せにしないで」
「白鷺坂の姫、文化祭仕様!」
「その呼び方、教室の外へ出さないでね」
笑いが起きる。
依央は外向きの笑顔を作った。
表の顔。
いつもの姫の顔。
けれど、今日は少しだけ違う。
文化祭の教室で、誰より見られる準備ができている顔。
(よし。花宮依央、文化祭仕様。入口、接客、写真、後輩対応、全部来い。ここは戦える。……いや、戦うって何。文化祭だよ。落ち着け俺)
****
開場の合図が鳴ると、廊下の空気が一気に動いた。
一年生、三年生、他クラスの男子、教員、外部から来た客。人の流れが二年三組の前を通り、看板を見て、依央を見て、足を止める。
「いらっしゃいませ」
依央が笑う。
たったそれだけで、男子たちの顔が少し赤くなる。
「え、花宮先輩いる」
「ほんとだ」
「写真、いいですか?」
「出し物を楽しんでからね」
「はい!」
後輩たちはきらきらした顔で教室へ入っていく。
黒瀬が小声で言った。
「花宮、強い」
「黒瀬くん、接客して」
「してる。花宮の後ろで勝利を感じてる」
「その勝利、売上にならないよ」
篠宮が横から淡々と言う。
「花宮の前で足が止まる人が多い。入口の案内を二人に増やした方がいい」
「篠宮くん、観察が現実的」
「混むと流れが悪くなる」
鷹宮がさらっと立ち位置を変えた。
「じゃあ、僕が隣に立つよ。花宮だけだと視線が集まりすぎる」
「鷹宮くん、それは分散じゃなくて増加です」
「そうかな」
そうだった。
鷹宮が隣に立つと、入口の画面が急に強くなる。
王子と姫、という誰かの雑な言葉が頭をよぎりそうになって、依央は内心で押し戻した。
(いや、今それはだめ。鷹宮くんはクラスメイト。俺は入口担当。文化祭。接客。はい、仕事)
それでも、人は来た。
写真を頼まれ、声をかけられ、メニューを聞かれ、後輩に手を振られ、教員から「花宮、似合ってるな」と笑われる。
依央は全部、きれいに受けた。
「ありがとうございます」
「こちらの席へどうぞ」
「写真はあとで、廊下が落ち着いてからね」
「おすすめ? じゃあ、これかな。黒瀬くんが朝から推してるので」
「篠宮くん、注文表お願い」
「鷹宮くん、ここ少し見てて」
声を出す。
笑う。
手元を見る。
全体を見る。
誰が詰まっているか、誰が戸惑っているか、誰が写真だけ撮って行こうとしているか。
全部、見えていた。
そして、それを自然にさばける自分が、少し誇らしかった。
(文化祭、やば。忙しい。でも楽しい。見られるのは得意。こういう空気、ちゃんと動かせる。花宮依央、学校中に見られる姫として普通に稼働してる)
****
昼前になると、花の生徒会から呼び出しが来た。
校内マップの前で、人の流れが少し詰まっているらしい。
依央はクラスの男子たちに入口を任せ、廊下へ出た。
廊下でも、すぐに声をかけられる。
「花宮先輩、写真いいですか?」
「今は案内の途中だから、あとでね」
「花宮くん、花の生徒会の方?」
「はい。マップならこちらです」
「さすが、分かりやすい」
「ありがとうございます」
花の生徒会の腕章をつけると、依央の立ち位置は少し変わる。
クラスの姫ではなく、学校全体の案内役。
けれど、見られることに変わりはない。
むしろ、廊下の中心を歩くたび、視線が増える。
校内マップの前では、後輩たちが少し慌てていた。
「花宮先輩!」
「大丈夫。ここ、クラス企画の案内とステージの案内が近すぎるかも。列を少しずらそう」
「はい」
「この紙、こっちへ。矢印は大きく」
「分かりました」
依央が動くと、後輩たちも落ち着いて動き始める。
見られる。
頼られる。
呼ばれる。
それは忙しいけれど、嫌ではない。
ちゃんと立っている実感があった。
その時、廊下の向こうから、白石千紘が歩いてきた。
私服ではない。制服のままだが、文化祭の客として少しだけ雰囲気が柔らかい。隣には晴臣がいた。晴臣は別クラスの飾りを少しつけたまま、明らかにそわそわしている。
「花宮くん」
千紘が声をかける。
「白石先輩」
依央は自然に背筋を伸ばした。
「来てくださったんですね」
「うん。少しだけ。花宮くん、すごく頼もしいね」
その言葉は、飾りではなかった。
依央の胸に、すっと入ってくる。
「ありがとうございます」
「クラスも花の生徒会も、どっちも似合ってる」
晴臣が横でうなずいた。
「依央、今日めちゃくちゃ働いてる」
「晴臣は千紘さんの隣で浮かれすぎ」
「浮かれてない」
千紘が少し笑う。
「晴臣くんも、自分のクラス頑張ってたよ」
「千紘さん」
晴臣の顔が一瞬でゆるむ。
依央はその顔を見て、内心で少し笑った。
(晴臣、分かりやす。文化祭の照明いらないくらい顔が明るい。白石先輩も、さらっと褒めるのうまい。彼氏を育てる清楚姫、強い)
千紘は依央の腕章を見て、やわらかく言った。
「無理しすぎないでね」
「はい」
「でも、楽しそう」
依央は少しだけ言葉に詰まった。
「……はい。楽しいです」
「なら、よかった」
千紘は短く笑い、晴臣と一緒に廊下の奥へ歩いていった。
晴臣がこちらを振り返り、小さく親指を立てる。
依央は笑って手を振った。
その時、廊下の向こうに燈真がいるのが見えた。
雑部の腕章をつけ、古い備品箱を持っている。
何かの確認で移動中らしい。
依央と目が合う。
燈真は立ち止まらなかった。
ただ、ほんの少しだけ依央を見た。
クラスの入口で笑っていた顔。
花の生徒会の腕章をつけた顔。
後輩に指示を出している顔。
全部を見たような目だった。
依央は一瞬、笑顔のまま固まった。
(見てた? 今、見てた? いや、廊下だから見える。普通に見える。でも、久我くんが見ると普通じゃない。俺、学校中から見られてるのに、久我くん一人に見られる方が重い。何これ)
「花宮先輩?」
後輩に呼ばれ、依央はすぐに戻った。
「ごめん。こっちの列、少し右へ」
仕事はまだある。
文化祭は止まらない。
****
昼過ぎ、依央はクラスへ戻った。
二年三組はさらに混んでいた。
黒瀬は呼び込みで完全に火がついている。
「どうぞ! 二年三組、今ならすぐ入れます!」
篠宮が横から訂正する。
「すぐではない。三分待ち」
「細かい!」
「正確な案内は大事」
鷹宮は写真を頼まれて、自然な笑顔で応じている。
「花宮、戻った」
鷹宮が言うと、教室の中から何人かが振り返った。
「花宮!」
「おかえり!」
「入口お願い!」
依央は笑った。
「はいはい。戻りました」
戻った瞬間、空気が少しだけ明るくなる。
それが分かる。
分かってしまう。
依央は入口に立ち、また笑顔を作った。
「いらっしゃいませ」
写真を頼まれる。
おすすめを聞かれる。
後輩に手を振られる。
他クラスの男子が赤くなる。
依央は全部、いつものように受ける。
その中で、ふと燈真の姿を探してしまう。
廊下の端。
雑部の備品箱。
腕章。
見つけた瞬間、胸が少し跳ねる。
燈真は、誰かに呼ばれて短く返事をしていた。目立たない。けれど、依央の方をまた一度だけ見る。
ほんの一度。
それだけ。
(やば。見られるの得意なのに。学校中から見られても平気なのに。久我くんの一回だけで、全部持っていかれる。何それ。ずるい)
****
夕方近く、客足が少し落ち着いた頃、依央は教室の奥で水を飲んだ。
足が少し疲れている。
頬も少し痛い。
笑い続けたからだ。
黒瀬が満足そうに言う。
「花宮、今日すげえな。入口に立つだけで空気変わる」
「黒瀬くん、褒め方が雑」
「でも本当だろ」
篠宮が注文表をまとめながら言った。
「実際、花宮がいる時間帯は滞在人数が増えている」
「篠宮くん、数で出さないで」
「事実」
鷹宮が水のボトルを差し出した。
「お疲れ。今日の花宮は、本当に文化祭の顔だったよ」
依央は受け取った。
「ありがとう。鷹宮くんの褒め、今日はちょっと素直に受け取る」
「いつも受け取っていいんだけどね」
黒瀬が笑う。
「花宮、照れてる?」
「照れてません」
「照れてるな」
「黒瀬くん、片づけ」
「はい!」
黒瀬は勢いよく動き出した。
その元気さに、依央は少し笑った。
楽しかった。
本当に。
忙しくて、見られて、呼ばれて、立ち続けて。
でも、ちゃんと楽しかった。
クラスの顔として立つのも、花の生徒会で案内するのも、後輩が頼ってくるのも。
全部、嫌ではない。
嫌ではないどころか、かなり嬉しい。
けれど。
依央は自分の鞄についた薄い青の星形ストラップを見た。
小さく揺れている。
その向こうで、燈真の鞄についた銀色の星を思い出す。
今日、廊下で見かけた燈真。
備品箱を持っていた手。
依央を見る目。
(学校中に見られるのは、平気。むしろ得意。でも、久我くんに見られると、ぜんぜん平気じゃない。なのに、見てほしい。何それ。俺、かなりやばいところまで来てない?)
「花宮」
声がした。
教室の入口に、燈真が立っていた。
客ではない。
雑部の用事でもない。
ただ、そこにいる。
「久我くん」
「終わった?」
「今日の分は、だいたい」
「お疲れ」
短い一言。
それだけ。
依央は、今日一日もらったどの褒め言葉より、その一言に力が抜けた。
「……ありがとうございます」
燈真は教室の中をちらっと見た。
「似合ってた」
依央は固まった。
「え」
「今日の花宮」
「……どれですか」
「全部」
依央は水のボトルを握った。
全部。
クラスの入口に立つ自分も。
花の生徒会の腕章をつける自分も。
後輩に指示する自分も。
写真を頼まれて笑う自分も。
全部。
(待って。今日の全部を見たみたいな言い方するな。いや、見てたんだ。少しずつ。久我くん、ちゃんと見てた。学校中に見られても平気だったのに、これ一個で無理。無理だけど、うれしい)
「久我くん」
「何」
「そういうの、文化祭の終わり際に言うの、かなり効きます」
「効いた?」
「効きました」
依央は素直に言ってしまった。
言ってから、少しだけ顔が熱くなる。
燈真は目元をゆるめた。
「そっか」
その声が、また静かに入ってくる。
黒瀬が遠くから「花宮ー! 片づけるぞー!」と叫んだ。
依央は振り返る。
「今行く!」
返事をしてから、もう一度燈真を見た。
「久我くんも、雑部の方、あとで行きます?」
「行く」
「じゃあ、あとで」
「うん」
たったそれだけ。
でも、依央は少しだけ軽くなった。
学校中から見られる日だった。
たくさん笑って、たくさん褒められて、たくさん呼ばれた。
その全部は、ちゃんと楽しかった。
でも一日の最後に残ったのは、教室の入口で燈真が言った短い言葉だった。
今日の花宮。
全部。
依央は片づけへ戻りながら、胸の奥がうるさくなるのを感じた。
(やば。これ、今日いちばん残るやつだ)
文化祭一日目の教室には、まだ笑い声と紙の匂いが残っている。
依央は看板を外す黒瀬に声をかけ、篠宮のまとめた注文表を受け取り、鷹宮と一緒に飾りを丁寧に外した。
明日も文化祭は続く。
でも、今日の最後に燈真が見ていた自分は、たぶん、依央の中にずっと残る。
そのことが、少し照れくさくて。
かなり、うれしかった。
ともだちにシェアしよう!

