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第34話 文化祭二日目、雑部巡回と校内デート
文化祭二日目の白鷺坂高校は、朝から少し浮いていた。
一日目の熱が校舎の壁に残っていて、廊下の飾りも、教室の看板も、昨日より堂々として見える。生徒たちも、どこか慣れた顔で動いていた。初日の緊張が抜けて、笑い声の角が丸くなっている。
二年三組も、昨日より少しだけ手際がよかった。
黒瀬陸斗は入口で呼び込みをしながら、声量だけは相変わらずだった。
「二年三組、こっちでーす!」
「黒瀬、声はもう少し抑えて」
篠宮怜央が注文表を整えながら言う。
「昨日より廊下が混んでる。声を張ると、向こうの案内とかぶる」
「篠宮、文化祭でも音量管理!」
「必要だから」
鷹宮蓮は、昨日より少し整ったメニュー表を入口に置きながら笑った。
「花宮、今日は最初から腕章?」
「うん。雑部の巡回もあるから」
「クラスの姫と雑部の人、両方だね」
「肩書きを増やさないで」
近くの男子が即座に乗る。
「花宮、今日も入口立つ?」
「午前は少しだけね。途中から校内回るから」
「えー」
「えーじゃない。俺、展示物じゃないので」
黒瀬が笑う。
「でも、花宮が入口にいると客来るんだよな」
「黒瀬くんが元気に呼び込めば来ます」
「まじ?」
「まじ」
「よし、俺、頑張る!」
篠宮がぼそっと言った。
「単純」
依央は笑った。
文化祭二日目の朝は、少しだけ気持ちが軽い。
昨日は学校中から見られて、呼ばれて、立ち続けた。クラスの入口、花の生徒会の腕章、校内マップ、写真。全部が楽しかったけれど、体の奥まで熱が残った。
今日は少し違う。
雑部の巡回がある。
校内を回る理由がある。
しかも、久我燈真と。
(雑部巡回。備品確認。導線確認。旧校舎と本校舎の行き来。つまり仕事。完全に仕事。……なのに、朝からちょっと楽しみなの、かなりアウト。仕事だから。仕事。校内デートとかではない。違う。いや、誰も言ってない。俺の脳内だけが勝手に言った。やば)
教室の外を見ると、燈真が廊下の端に立っていた。
雑部の腕章をつけ、手には簡単な確認表を持っている。だらしなさすぎない制服の着こなしはいつも通りなのに、文化祭の飾りの中にいると、少しだけ違って見えた。
目立たない。
でも、依央にはすぐ見つかる。
燈真の鞄のファスナーには、銀色の星形ストラップがついていた。
テーマパークで買った、小さな星。
依央の鞄には、薄い青の星がある。
それを見ただけで、胸の奥がほんの少し温かくなる。
(今日もついてる。ちゃんと。文化祭の人混みでも、雑に外さないんだ。久我くん、そういうところほんと……何。ほんと何。うれしいんだけど)
「花宮」
燈真が短く呼ぶ。
「はい」
「行ける?」
「行けます」
「顔、嬉しそう」
依央は一瞬で固まった。
「仕事なので」
「仕事で嬉しそう?」
「文化祭の成功を願う責任感です」
「そっか」
「信じてないですね」
「うん」
「うんじゃない」
燈真が少しだけ笑った。
その笑い方だけで、朝のざわめきが少し遠のく。
依央は腕章を整え、確認表を受け取った。
「では、雑部巡回、始めます」
「うん」
「久我くん、真面目にお願いします」
「してる」
「顔が真面目じゃないです」
「花宮が嬉しそうだから」
「その話、終わりました」
「終わってない」
依央は先に歩き出した。
(やば。開始三秒で負けそう。雑部巡回、危険。文化祭より久我くんの方が危険)
****
最初に回ったのは、一階の展示スペースだった。
美術部の作品展示、写真部のパネル、書道部の大きな作品。廊下には見学する生徒や外部の客がゆっくり流れている。
依央は確認表を見ながら、掲示の端や通路の幅を確認した。
「ここ、少しだけ机が出てますね」
「直す」
燈真が自然に机の端を持ち上げる。
依央も反対側を持つ。
一瞬、手が近づいた。
触れてはいない。
けれど、近いだけで体が反応する。
(手。近い。今日、仕事。机を直してるだけ。はい、落ち着け。最近、手の距離で心臓が勤勉すぎる)
「花宮」
「何ですか」
「指、挟むなよ」
「挟みません」
「見てるから」
依央は机の端を持ったまま、燈真を見る。
「それ、作業の安全確認ですか」
「うん」
「……そうですか」
(いや、たぶん本当に安全確認。でも、見てるから、は強い。言い方が強い。作業中に刺してくるな)
****
展示スペースを抜けると、模擬店の並ぶ廊下に出た。
昨日より人が多い。
食べ物の匂い、呼び込みの声、紙コップを持つ生徒たち。あちこちに笑い声が弾けている。
「花宮先輩!」
一年生の後輩が、たこ焼きの紙皿を持って駆け寄ってきた。
「花宮先輩、文化祭巡回ですか?」
「うん。楽しんでる?」
「はい! あ、これ美味しいです。花宮先輩も食べます?」
「ありがとう。でも、今は確認中だから」
「そうですよね。あとで来てください!」
「行けたらね」
後輩は嬉しそうに手を振って走っていった。
燈真が横で言う。
「人気者」
「文化祭なので」
「昨日からずっとだな」
「それは、まあ」
「疲れてない?」
依央は少しだけ考えた。
「疲れてます」
燈真の目が動く。
依央は笑った。
「でも、今日は楽しい方が大きいです」
燈真は短くうなずいた。
「そっか」
その返事が、やけにうれしい。
分かってもらえた気がした。
無理していないと言い張る必要もない。疲れているけど楽しい。そう言っても、燈真は受け取る。
(これ、けっこうすごいな。疲れてる、って言っても空気が重くならない。楽しい、もちゃんと残る。久我くんの前だと、そういう言い方ができる)
****
次に向かったのは、三階の特別教室前だった。
階段は混んでいた。
上がってくる生徒と下りてくる客がぶつかりそうになり、依央は一歩端へ寄った。けれど、後ろから来た男子が急に横をすり抜け、依央の肩に軽く当たる。
「わ」
足元が少しずれた。
次の瞬間、燈真の手が依央の手首を取った。
強くない。
でも、迷いがなかった。
「こっち」
短い声。
依央は燈真の方へ引かれ、階段の端へ収まった。
手首に、燈真の指がある。
人混みのざわめきが、少しだけ遠くなる。
「……ありがとうございます」
「危ない」
「はい」
燈真は手を離さなかった。
そのまま、階段の人の流れが落ち着くまで、依央の手首を軽く持っている。
依央は視線を落とした。
燈真の手。
自分の手首。
文化祭の腕章。
(これ、作業。安全。人混み対策。分かってる。分かってるけど、手。手首。久我くんの手。落ち着くのに心臓はうるさい。矛盾がすごい)
「花宮」
「はい」
「平気?」
「平気です」
「顔」
「今日は階段のせいです」
「階段」
「階段と人混みと文化祭のせいです」
「俺は?」
燈真の目が少しだけ笑っている。
依央は返事に詰まった。
「……少し」
「少し」
「そこ拾わないでください」
燈真はようやく手を離した。
離れた手首が、少しだけ寂しい。
依央はそれに気づいて、内心で固まった。
(寂しい? 今? 手を離されて? おいおい、まじかよ。花宮依央、かなり深刻。文化祭中に何を自覚しかけてるんだ。やめろ。巡回表を見ろ)
****
特別教室前では、科学部が展示をしていた。
篠宮がちょうど中から出てくる。
「花宮、ここは人の流れが比較的安定してる。ただ、実験時間の前後で集まりやすい」
「篠宮くん、もう管理側みたい」
「見ると気になる」
燈真が確認表に短く書き込む。
篠宮はその手元を見て、少しだけうなずいた。
「久我、字が読みやすい」
「そう?」
「雑に見えて、要点だけ書いてる」
依央は燈真を見る。
「久我くん、篠宮くんに褒められてますよ」
「珍しい?」
「珍しいというか、強い」
篠宮は淡々と言う。
「事実だから」
燈真は特に照れもせず、確認表を閉じた。
依央はその横顔を見て、少しだけ笑いそうになった。
篠宮の冷静な褒めも、燈真の短い受け取りも、文化祭のざわめきの中で妙に面白い。
****
次は中庭だった。
模擬店の匂いが風に混じり、ステージから軽い音楽が聞こえてくる。鷹宮が中庭の撮影スポットで、後輩に写真の角度を教えていた。
「花宮」
鷹宮が気づいて手を振る。
「巡回?」
「うん。そっちは?」
「写真を頼まれてた」
「鷹宮くん、文化祭公式カメラマンみたい」
「花宮も一枚どう?」
「今は巡回中」
「久我と一緒に?」
依央は一瞬止まった。
鷹宮は何もからかっていない顔で、ただ自然に言った。
それが逆に刺さる。
「雑部なので」
「うん。似合ってる」
「何が?」
「二人で歩いてる感じ」
燈真が少しだけ鷹宮を見る。
鷹宮はにこっと笑った。
「邪魔しないよ。巡回、頑張って」
依央は中庭を離れながら、胸の奥を押さえたくなった。
(鷹宮くん、たまに天然で刺してくる。二人で歩いてる感じが似合ってるって何。そんな褒め方ある? いや、鷹宮くんはある。美意識で全部言う。怖い)
燈真が横で言った。
「似合ってるらしい」
「拾わなくていいです」
「嫌だった?」
依央は足を止めかけた。
「嫌では、ないです」
また即答だった。
燈真は少しだけ目を伏せた。
「そっか」
その返事が、妙にやわらかかった。
巡回は、思ったより楽しかった。
展示を見て、模擬店の列を確認して、階段の流れを見て、雑部の備品箱を直す。仕事と言えば仕事だ。けれど、燈真と並んで校内を歩くと、文化祭の景色が少し違って見えた。
「導線確認です」
依央が言う。
「うん」
「今の店、ちょっと気になっただけじゃないです」
「うん」
「巡回上、味を知る必要があるかもしれないだけで」
「買う?」
「買います」
燈真が焼き菓子の小袋を一つ買った。
依央はそれを受け取る。
「久我くん、また買ってる」
「部費じゃない」
「そこじゃない」
「俺も食べる」
「なら、いいです」
二人で廊下の端に寄り、小さな焼き菓子を分ける。
依央は一口食べて、少し笑った。
「うま」
「うん」
「文化祭の味がします」
「どんな味」
「ちょっと雑で、ちゃんと甘い味」
燈真は少し笑った。
その笑い方を見て、依央はまた胸の奥が落ち着くのを感じた。
校内を歩くだけ。
出し物を確認するだけ。
焼き菓子を分けるだけ。
なのに、ひとつひとつが妙に残る。
(これ、デートっぽい。いや、違う。巡回。雑部。文化祭。仕事。でも、歩いて、食べて、笑って、手首引かれて、星ついてて、焼き菓子分けてる。……だいぶ、デートっぽい)
依央は内心で頭を抱えた。
でも、口には出さない。
出したら終わる。
言葉にしない代わりに、確認表を強めに持つ。
燈真がそれを見て、少しだけ言った。
「花宮」
「はい」
「楽しそう」
依央はもう否定しなかった。
「楽しいです」
燈真が少しだけ驚いたように見る。
依央は顔が熱くなる前に続けた。
「文化祭が。巡回が。雑部の仕事が」
「うん」
「……久我くんと歩くのも」
言った。
言ってしまった。
依央は確認表を見つめた。
(言った。今、言った。何で言った? 文化祭の空気? 焼き菓子? 手首? 違う。たぶん俺。俺が言った。終わった)
燈真はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「俺も」
依央は息を止めた。
廊下の向こうでは、黒瀬が遠くから手を振っている。
篠宮が何かを注意している。
鷹宮が誰かの写真を撮っている。
文化祭の音は、ずっとある。
でも、その一言だけが、まっすぐ残った。
俺も。
依央は確認表を胸元に抱えた。
「……巡回、続けます」
「うん」
「次、旧校舎です」
「うん」
「久我くん」
「何」
「歩くの、少しだけゆっくりで」
燈真は依央を見る。
「疲れた?」
依央は首を振った。
「違います」
少しだけ言葉を探す。
それから、小さく言った。
「もう少し、この感じで歩きたいだけです」
燈真は、目元を少しやわらかくした。
「分かった」
その返事だけで、依央は今日の文化祭が一段深く残る気がした。
****
旧校舎へ向かう渡り廊下は、本校舎より静かだった。
窓の向こうには、文化祭の旗が風に揺れている。中庭の声は少し遠く、秋の空は高い。
依央の鞄で薄い青の星が揺れた。
燈真の鞄の銀色の星も、小さく光る。
二つの星が、同じ歩幅で揺れている。
依央はそれを見て、口元を少しだけゆるめた。
「花宮」
「はい」
「星、見てた?」
「管理状態の確認です」
「ちゃんと管理してる」
「知ってます」
「そっか」
燈真が笑う。
依央も笑った。
文化祭二日目。
雑部巡回。
導線確認。
備品確認。
いくらでも言い方はある。
でも、この廊下を燈真とゆっくり歩いていることだけは、どの言い方でもごまかしきれない。
(楽しい。もう、これは楽しい。久我くんと歩くの、楽しい)
旧校舎の入口で、燈真が扉を開けた。
依央が先に入る。
その一瞬、燈真の手が依央の背中の少し後ろにあった。
触れない。
でも、守るような距離。
依央は振り返らずに、少しだけ笑った。
文化祭は、まだ続いている。
でも依央の中では、この巡回の時間が、今日一番静かに光っていた。
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