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第35話 後夜祭、飾った姫が崩れる夜

後夜祭の明かりが落ちると、白鷺坂高校は急に素の顔に戻り始めた。 昼間あれだけ人で埋まっていた廊下には、丸めた模造紙と空の段ボールが積まれている。教室の窓に貼られていた飾りは端から外され、黒板の文字も少しずつ消えていく。どこかの教室から、最後の拍手みたいな笑い声が聞こえた。 二年三組も、片づけの真っ最中だった。 黒瀬陸斗は、看板を外しながらまだ元気だった。 「終わったな!」 「黒瀬くん、看板持ちながら叫ばないで。危ない」 「おう!」 「返事だけ元気」 篠宮怜央は売上表と備品の数を確認している。 「黒瀬、その看板は廊下側じゃなくて教室の後ろ。あと、テープの残りは箱へ」 「篠宮、最後まで司令塔」 「最後まで片づけないと帰れない」 「現実!」 鷹宮蓮は飾りのリボンを丁寧に外していた。雑に引っ張ればすぐ終わるものを、来年も使えるかもしれないからと、きれいに巻いている。 「花宮、このリボン、残しておく?」 「うん。色、きれいだし。ありがとう」 「今日の花宮にも合ってたよ」 「片づけ中まで褒めるのやめて」 「本当だから」 近くにいた男子たちが笑う。 「花宮、今日もすごかったな」 「入口にいるだけで人止まってた」 「花の生徒会でも案内してたろ」 「雑部の腕章も似合ってた」 褒められる。 声をかけられる。 見られる。 依央は笑った。 「ありがとう。みんなもお疲れさま」 その笑顔は、ちゃんと出た。 文化祭の間ずっと使っていた、明るくて、やわらかくて、少しあざとい、白鷺坂の姫の顔。 (出る。まだ出る。花宮依央、最後まで営業可能。すごい。いや、すごいけど、そろそろ顔の内側が限界。頬が筋肉痛。心も筋肉痛。文化祭、強かった) 嫌ではなかった。 本当に、嫌ではない。 見られるのも、頼られるのも、褒められるのも、楽しかった。クラスの入口に立つのも、花の生徒会の腕章をつけるのも、雑部の巡回で校内を歩くのも、全部、依央の中にちゃんと残っている。 けれど、楽しかったものほど、終わったあとに体へ来る。 黒板の文字が消えていくのを見た時、依央は少しだけ息を吐いた。 その瞬間、教室の入口に燈真が立っているのが見えた。 雑部の腕章は外している。 鞄のファスナーには、銀色の星形ストラップが小さく揺れていた。 依央の鞄の薄い青の星も、机の横で揺れている。 目が合う。 燈真は何も言わない。 ただ、依央の顔を見た。 入口で笑っていた時の顔ではなく、片づけの途中で一瞬ゆるんだ顔を。 依央は反射で笑顔を作り直しかけた。 でも、燈真の目を見たら、その途中で止まった。 (今、作り直すところだった。危な。いや、危ないって何。いつものことじゃん。なのに久我くんの前だと、作り直すのがちょっとしんどい。見られた。崩れる手前を見られた) 「花宮」 燈真が短く呼ぶ。 「はい」 「雑部、先に行ってる」 「あ、はい。俺もあとで」 「うん」 それだけ言って、燈真は旧校舎へ向かった。 依央はしばらくその背中を見ていた。 黒瀬が横から顔を出す。 「花宮、顔ゆるんでる」 「黒瀬くん、片づけ」 「はい!」 篠宮が静かに言う。 「花宮、残りはこっちで大丈夫。花の生徒会の片づけもあるなら、先に行っていい」 「え、でも」 「入口と案内をかなりやってた。これ以上残ると、逆に明日の片づけが増える」 「篠宮くん、その言い方、優しいのか現実なのか分からない」 「両方」 鷹宮もリボンを箱に入れながら言った。 「行っておいで。花宮、今日ずっと立ってたし」 「鷹宮くんまで」 「姫にも閉店時間はあるよ」 「その表現はちょっと好き」 依央は笑った。 笑って、ありがとうと言って、教室を出た。 **** 廊下は、さっきより静かだった。 後夜祭の名残がまだ少しだけ校舎に残っている。遠くで椅子を引く音、誰かの笑い声、段ボールを運ぶ足音。窓の外には、秋の夜が広がっていた。瑞城市の夜は、東京の夜より暗い。その分、校舎の明かりがやけに温かく見える。 依央は旧校舎へ向かって歩いた。 歩くたびに、今日一日が少しずつ肩から落ちていく。 クラスの入口。 花の生徒会。 校内巡回。 後夜祭の拍手。 「似合ってた」と言った燈真。 「全部」と言った燈真。 あれから、ずっと胸の奥に残っている。 (今日の俺、どれが本物だったんだろ) ふと、そんなことを思った。 入口で笑っていた自分。 後輩に指示していた自分。 晴臣を茶化していた自分。 燈真と歩いて、少しだけ素直になった自分。 全部、自分ではある。 でも、どれが一番見られたい顔だったのか。 考えた瞬間、答えが出かけて、依央は少しだけ歩く速度を落とした。 (いや、そこまで考えるな。文化祭終わりで情緒が変。疲れてる。たぶん疲れてるだけ) **** 旧校舎の雑部室には、燈真と晴臣がいた。 晴臣は机に突っ伏している。別クラスの飾りがまだ肩についていて、完全に力尽きた顔をしていた。 「お、依央」 「晴臣、飾りついてる」 「知ってる。取る気力がない」 「文化祭に負けた?」 「千紘さんに褒められたから勝ち」 「なら、その顔は何」 「勝った後の燃え尽き」 燈真が机の上に、小さな紙袋を置いた。 「これ」 依央は覗き込む。 「何ですか」 「差し入れの残り」 晴臣が顔を上げた。 「三年のカフェのティラミス。千紘さんが、雑部のみんなでってくれた」 依央は少し目を丸くした。 「白石先輩が?」 「うん」 晴臣は照れた顔で言う。 「あと、依央にお疲れさまって」 依央は紙袋を見た。 小さなカップのティラミスが三つ入っている。 甘いもの。 でも、今日はそれが主役ではない気がした。 千紘からの「お疲れさま」。 晴臣の照れた顔。 燈真が何も言わずに紙袋を開ける手。 それだけで、少し肩の力が抜けた。 「……ありがたいですね」 「だろ」 晴臣はにやっとした。 「千紘さん、今日の花宮よかったって言ってたぞ」 「白石先輩まで」 「頼もしくなったって」 依央は、椅子に座りながら目を伏せた。 嬉しい。 本当に嬉しい。 でも、嬉しさの受け皿がもういっぱいで、こぼれそうだった。 燈真がその顔を見ていた。 「花宮」 「はい」 「食べる?」 「食べます」 晴臣がスプーンを配る。 三人でティラミスを食べた。 ほろ苦い。 甘い。 文化祭の終わりに食べるには、少し大人っぽい味がした。 晴臣は一口食べて、すぐ顔を上げた。 「うま」 「晴臣、単純」 「うまいものはうまい」 「それはそう」 依央も一口食べる。 カカオの苦みとクリームの甘さが、疲れた体にゆっくり入ってくる。 「うま」 燈真が少しだけ笑う。 「戻った?」 依央はスプーンを持ったまま、少しだけ黙った。 戻った。 たしかに、少し戻った。 でも今日は、戻るだけでは足りない。 何かが胸の奥でほどけきらずに残っている。 「……戻った、というか」 晴臣が顔を上げる。 「ん?」 依央は言いかけて、やめた。 晴臣の前で言えることと言えないことがある。 晴臣はそれに気づいたのか、わざとらしくスマホを見た。 「あ、俺、クラスの写真共有見てくる。あと千紘さんに返事する」 「ここでしてもいいのに」 「いや、廊下の方が電波いい」 明らかに雑な理由だった。 でも、今日はその雑さが優しかった。 晴臣は立ち上がり、肩の飾りを揺らしながら扉へ向かう。 「依央」 「何」 「今日はちゃんとすごかったぞ」 依央は一瞬、言葉に詰まった。 「……ありがと」 「うん。じゃ、五分くらい」 晴臣はそう言って、部室を出ていった。 扉が閉まる。 部屋が静かになる。 外では片づけの音がまだ少し聞こえている。でも、雑部室の中だけ、時間が少し遅くなったみたいだった。 依央はティラミスのカップを見つめた。 「晴臣、気を遣いましたね」 「うん」 「分かりやすい」 「でも助かる」 「……はい」 燈真は机の向こうではなく、依央の隣の椅子に座った。 近い。 でも、触れない距離。 依央はその距離に少しだけ息を吐く。 「今日」 燈真が言った。 「うん」 「ずっと見られてたな」 依央は苦笑した。 「まあ、姫なので」 「うん」 「そこは受け入れるんですね」 「事実だし」 前にも似たようなことを言われた。 でも今日は、少し違って聞こえた。 依央はスプーンを置いた。 「俺、今日、ちゃんと姫でした?」 「うん」 「クラスでも?」 「うん」 「花の生徒会でも?」 「うん」 「雑部でも?」 燈真は少しだけ依央を見た。 「雑部では、ちょっと違った」 依央の胸が少しだけ鳴った。 「……違いました?」 「うん」 「どっちが、いいですか」 言ってから、依央は自分で驚いた。 聞くつもりはなかった。 こんなことを聞いたら、かなり情けない。 でも、言葉はもう出ていた。 燈真は、すぐには答えなかった。 その沈黙が、怖くはなかった。 燈真が考えているのが分かったから。 「どっちも」 短い答え。 依央は息を止めた。 「どっちも?」 「入口で笑ってたのも、花の生徒会で動いてたのも、今みたいに疲れてるのも」 燈真は、依央の顔をまっすぐ見た。 「どれも花宮だろ」 依央は何も言えなくなった。 胸の奥で、何かがほどける。 同時に、苦しくなる。 表の顔。 姫の顔。 雑部で机に沈みそうな顔。 手を重ねる時の顔。 燈真の前でだけ、少しずつ隠しきれなくなっている顔。 それを全部、分けなくていいと言われた気がした。 (やば。無理。これは無理。泣くとかじゃない。泣かないけど、奥がぎゅってなる。どれも花宮だろ、って。そんなの、言われたら、もう) 依央は視線を落とした。 「久我くん」 「何」 「そういうの、後夜祭のあとに言うの、かなり効きます」 「効いた?」 「効きすぎです」 「そっか」 燈真の声は静かだった。 からかわない。 勝ち誇らない。 ただ、そこにいる。 依央は机の上に手を置いた。 さっきまでティラミスのカップを持っていた手。 少しだけ冷えている。 燈真の手が、すぐ近くにある。 「……今日、ずっと見られてました」 「うん」 「みんなに」 「うん」 「でも」 そこから先が、少しだけ難しかった。 依央は言葉を探す。 「久我くんに見られるのが、一番」 言いかけて、止まる。 燈真は急かさない。 依央は指先を丸めた。 「……変です」 ようやく出た言葉は、それだけだった。 でも、燈真はちゃんと受け取った。 「変か」 「はい」 「嫌?」 依央は首を振った。 「嫌じゃないです」 即答だった。 言ってから、顔が熱くなる。 でも、取り消さなかった。 燈真は少しだけ目元をゆるめる。 「ならいい」 その言葉で、依央の中の何かがまた一つほどけた。 机の上の手に、燈真の指先がそっと近づく。 触れるか触れないか。 依央は、自分から少しだけ手を動かした。 指先が触れる。 強く握らない。 ただ、触れる。 文化祭の音が遠くにある。 後夜祭の明かりはもう消えた。 旧校舎の雑部室に、ティラミスの苦みと甘さが残っている。 依央は、燈真の手の温度を受け取りながら、小さく息を吐いた。 「……今日の俺、見てて、変じゃなかったですか」 燈真が答える。 「変でも、いいんじゃない」 「雑」 「花宮だし」 依央は少しだけ笑ってしまった。 「それ、何でも通りません?」 「通る」 「通すな」 燈真も少し笑った。 その笑い方が、静かで、近い。 依央は指先を離さなかった。 晴臣が戻ってくるまで、あと少し。 たぶん、そのくらいの時間だけ。 でも、今はそれで十分だった。 扉の外で、晴臣の声が遠くから聞こえる。 「写真、めっちゃ来てるんだけど!」 依央は笑った。 燈真も少しだけ手を離す。 でも、さっき触れた温度は残っている。 晴臣が扉を開けた時、依央はもう泣きそうでも、崩れそうでもなかった。 ただ、少しだけ素の顔で笑っていた。 「おかえり、晴臣」 「ただいま。……あれ、依央、顔戻ってる」 依央はティラミスのカップを持ち上げた。 「白石先輩の差し入れのおかげ」 晴臣が目を細める。 「ほんとに?」 「あと、雑部」 晴臣はにやっと笑った。 「そっか」 燈真は何も言わず、残りのティラミスを食べている。 依央はその横顔を見た。 入口で笑っていた自分も、花の生徒会で動いていた自分も、雑部で崩れかけた自分も。 全部、花宮。 そう言われた夜のことを、たぶん忘れない。 文化祭の飾りは、明日にはもっと片づいていく。 看板も外され、机も戻される。 でも、今日の夜に燈真が受け取ってくれたものは、依央の中に残る。 依央はスプーンでティラミスの最後をすくった。 ほろ苦くて、甘い。 文化祭の終わりに、よく似ていた。

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