36 / 44
第36話 秋空の屋上、言いかけた好き
文化祭の片づけが終わった翌週、白鷺坂高校は少しだけ静かになっていた。
廊下に貼られていたポスターは外され、教室の後ろに積まれていた段ボールも消えた。黒板の端に残っていた小さな落書きも、誰かがきれいに消したらしい。騒がしかった数日間が嘘みたいに、校舎はいつもの顔へ戻っている。
でも、依央の中には、まだ文化祭の熱が残っていた。
入口で笑ったこと。
花の生徒会の腕章をつけたこと。
雑部の巡回で、燈真と校内を歩いたこと。
後夜祭のあと、旧校舎の雑部室で、燈真に全部受け止められたこと。
全部が、少しずつ胸の奥で光っている。
(文化祭、終わったのに終わってない。変なの。看板も片づいたし、教室も戻ったし、黒瀬くんの声量も通常運転なのに、俺の中だけ片づいてない)
朝の二年三組では、黒瀬陸斗が文化祭の写真を見返していた。
「花宮、これ見ろ!」
「また写真?」
「これ、俺が看板持ってるやつ。めっちゃ良くない?」
依央はスマホをのぞいた。
黒瀬が看板を持ち、後ろで篠宮怜央が冷静に位置を直している。さらに端に鷹宮蓮が写っていて、何でもない片づけ写真なのに妙に整っていた。
「黒瀬くん、すごく元気」
「だろ!」
篠宮が横から言う。
「元気すぎて、看板が斜めだった」
「そこは言うな!」
鷹宮は写真を見て、少し笑った。
「でも、いい写真だね。文化祭の後って感じがする」
「鷹宮くんが言うと、片づけ写真まで作品っぽい」
「花宮の写真もあるよ」
「俺?」
鷹宮がスマホを見せる。
そこには、クラスの入口で笑う依央が写っていた。
花の生徒会の腕章をつけ、少しだけ振り返っている。自分で見ると、ちゃんと姫の顔をしている。
見られるための顔。
笑うための顔。
その場を明るくするための顔。
「……よく撮れてるね」
依央が言うと、鷹宮は穏やかに笑った。
「花宮、文化祭中ずっと綺麗だったよ」
「朝から褒めが強い」
「本当のことだし」
黒瀬が頷く。
「花宮、めちゃくちゃ姫だった!」
「黒瀬くんは言い方が雑」
篠宮がプリントを鞄にしまいながら、淡々と言った。
「でも、実際助かった。入口も案内も、花宮がいると人の流れが落ち着いていた」
「篠宮くんの褒めは数値が見えそう」
「数えてはいない」
「数えてそう」
小さな笑いが起きる。
依央は笑顔で受けた。
褒められるのは、嬉しい。
見られることにも慣れている。
そのはずなのに、写真の中の自分を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。
(これも俺。ちゃんと俺。でも、この顔だけ見られて満足だった時と、今はちょっと違う気がする。いや、かなり違う)
視線が、教室の後ろへ向かう。
燈真が席で、何かのプリントを見ていた。
鞄のファスナーには、銀色の星形ストラップがついている。テーマパークで買った、依央の薄い青の星と同じ形のもの。
文化祭中も、模試の日も、今日も、ちゃんとそこにある。
燈真が顔を上げた。
目が合う。
依央は反射で笑いかけようとして、途中で少し止まった。
姫の顔を作るのではなく、ただ、普通に笑った。
燈真の目元が少しだけやわらかくなる。
それだけで、写真を褒められた時とは違う場所が温かくなった。
(ああ、だめだ。やっぱり、ここだ。学校中に見られるのも嬉しい。でも、久我くんに見られると、別のところが動く)
****
放課後、依央は花の生徒会の部屋へ向かった。
文化祭後の整理は、思ったより落ち着いていた。残った掲示物を確認し、借りた備品の返却先をまとめ、後輩たちへ次の準備を伝える。
千紘はいなかった。
代わりに、千紘が残したメモが机に置かれていた。
『花宮くんへ。掲示の整理、ありがとう。あとは後輩に任せて大丈夫。ちゃんと頼れていると思います』
依央はその文字をしばらく見つめた。
「……白石先輩」
声に出すと、少しだけ胸が温かくなる。
任されること。
頼ること。
誰かの前でちゃんと立つこと。
全部、文化祭を通して少しずつ分かってきた気がした。
(ちゃんと頼れている、か。白石先輩、ほんと見てるな。俺、ちょっとは変わったのかな)
****
花の生徒会の整理を終えると、依央は旧校舎へ向かった。
雑部室には、晴臣だけがいた。
机の上には、文化祭の写真を印刷した小さな束が置かれている。
「晴臣」
「お、依央。これ見ろ」
「写真?」
「千紘さんが撮ってくれたやつもある」
晴臣の声が明らかに嬉しそうだった。
依央は写真を一枚手に取る。
そこには、晴臣が千紘と並んでいる姿が写っていた。派手な距離ではない。ただ、晴臣の横顔がとても嬉しそうで、千紘もやわらかく笑っている。
「いい写真」
「だろ」
「晴臣、顔が分かりやすい」
「うるさい」
晴臣は少し照れてから、別の写真を出した。
「あと、これ」
そこには、依央と燈真が文化祭の廊下を歩いている姿が写っていた。
雑部の腕章。
確認表。
並んで歩く二人。
写真の中の自分は、いつもの姫顔ではなかった。
少しだけ気を抜いている。
隣の燈真を見て、笑いかける直前みたいな顔をしている。
依央は、息を止めた。
「……これ、誰が」
「千紘さん。廊下で見かけたって」
「白石先輩、なんでそんな良い瞬間を」
「だよな。俺も見た時、ちょっと声出た」
「声出さないで」
晴臣はにやっとした。
「依央、この顔、久我相手にしか出ないよな」
依央は写真を持ったまま固まった。
「晴臣」
「何」
「急に刺すな」
「刺さった?」
「かなり」
晴臣は少しだけ真面目な顔になった。
「依央さ、文化祭中、ずっとすごかったじゃん。クラスでも、花の生徒会でも、雑部でも」
「うん」
「でも、この写真の顔が、一番楽そう」
依央は写真を見た。
楽そう。
確かに、そう見える。
飾っていない。
頑張っていないわけではない。
でも、肩に力が入りすぎていない。
燈真の隣にいるから。
その事実が、もうごまかしようもなくそこに写っていた。
「……晴臣」
「うん」
「俺、どうしたらいいと思う?」
晴臣は一瞬、目を丸くした。
それから、少し笑った。
「どうしたいかじゃない?」
「それが分かれば苦労しない」
「いや、たぶん分かってるだろ」
依央は言い返せなかった。
分かっている。
たぶん。
かなり。
でも、言葉にすると全部変わりそうで怖い。
晴臣は椅子にもたれて、写真を見ながら言った。
「屋上、行ってきたら?」
「屋上?」
「久我、さっき鍵借りてた。文化祭の飾り外し忘れがあるか見るって」
「雑部の仕事?」
「一応」
「一応って何」
晴臣は笑った。
「行ってこいってこと」
依央は写真を置いた。
心臓が少し速くなる。
でも、嫌ではなかった。
「晴臣」
「ん?」
「ありがと」
晴臣は少しだけ照れた顔で、手を振った。
「はいはい。姫、行ってらっしゃい」
「その呼び方は今いらない」
「照れ隠しに反応できるくらいなら大丈夫」
「晴臣、ほんとそういうとこ」
依央は文句を言いながら、雑部室を出た。
****
屋上へ向かう階段は、普段より静かだった。
文化祭の飾りはほとんど外されている。途中の踊り場には、端が少し折れた紙花が一つ落ちていた。依央はそれを拾い、手の中で軽く転がす。
秋の夕方の光が、階段の窓から差し込んでいる。
瑞城市の空は高い。
東京のテーマパークの明るさとも、文化祭の校舎の熱とも違う。山の稜線の向こうまで、空がすっと抜けているように見えた。
屋上の扉を開けると、風が入ってきた。
燈真はフェンスの近くに立っていた。
手には、外し忘れた小さな飾りがいくつかある。鞄は足元に置かれ、銀色の星形ストラップが夕方の光を受けて小さく光っていた。
「久我くん」
燈真が振り返る。
「花宮」
「飾り、まだ残ってました?」
「少し」
「手伝います」
「もう終わった」
「早い」
「花宮は?」
「晴臣に追い出されました」
「そっか」
燈真は少しだけ笑った。
依央はフェンスの近くまで歩く。
空が広い。
文化祭が終わった校舎は、下から見るより静かに感じた。中庭には片づけられたテントの骨組みが少し残っていて、風が通るたびに白い布の端が揺れる。
依央は手の中の紙花を見た。
「文化祭、終わりましたね」
「うん」
「教室、もう普通に戻ってました」
「うん」
「でも、なんか」
言葉が少し止まる。
燈真は急かさない。
風が、依央の髪を少し揺らした。
「終わった感じが、しないです」
「うん」
「変ですか」
「変じゃない」
依央は笑いそうになった。
燈真の短い肯定は、相変わらず強い。
でも、もうそれだけで派手に崩れる感じではない。
ちゃんと受け取って、胸の奥に置けるようになっている。
「俺、文化祭中、ずっと見られてました」
「うん」
「クラスでも、花の生徒会でも、廊下でも」
「うん」
「見られるのは、平気なんです。むしろ、得意で」
「知ってる」
依央は燈真を見た。
「知ってるんですね」
「見てたから」
まただ。
見てた。
その一言で、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「でも」
依央はフェンスの向こうの空を見た。
「久我くんに見られると、平気じゃないです」
燈真は黙って聞いていた。
依央は続ける。
「入口で笑ってる俺も、花の生徒会で動いてる俺も、雑部でぐだってる俺も、たぶん全部俺なんですけど」
言葉が、少しずつ形になっていく。
「みんなに見られる時は、ちゃんとしてる俺を見せたいって思うんです」
「うん」
「でも、久我くんには」
喉が詰まる。
言うのが怖い。
でも、言いたい。
依央は紙花を握りすぎないよう、そっと指をゆるめた。
「ちゃんとしてないところも、見られていいって思う」
燈真の目が、静かに依央を見る。
「むしろ」
依央は息を吸う。
「久我くんには、そっちも見てほしいって思う」
言った。
言ってしまった。
風が屋上を抜ける。
遠くで、部活の声が小さく聞こえた。
依央は顔が熱くなるのを感じた。
(言った。かなり言った。これ、だいぶ言った。もう戻せない。いや、戻さなくていい。たぶん。無理。心臓がうるさい)
燈真はしばらく黙っていた。
その沈黙は、怖くなかった。
燈真がちゃんと受け取っている沈黙だった。
「俺は」
燈真が言う。
「どっちも見たい」
依央は息を止めた。
「入口の花宮も、花の生徒会の花宮も、雑部で机に沈みそうな花宮も」
燈真は少しだけ目を細める。
「全部、見たい」
依央は、視線をそらせなかった。
学校中に見られることには慣れている。
姫として笑うことにも慣れている。
でも、こんなふうに見たいと言われることには、慣れていない。
表も、素も。
飾った顔も、崩れた顔も。
全部。
「……久我くん」
「何」
「俺、最近」
声が震えそうになる。
依央は自分の手元を見る。
夏に自分から取った手。
秋に重ねた手。
模試の後に落ち着いた手。
文化祭の廊下で、手首を取られた手。
その全部が、今の自分をここまで連れてきた気がした。
「久我くんの前だと、俺」
言葉が止まる。
次を言ったら、もう変わってしまう。
でも、変わるのが嫌なわけではない。
ただ、心臓が追いつかない。
燈真は待っている。
急かさず、茶化さず、ただ待っている。
依央は、少しだけ笑った。
「変になります」
燈真の口元が、ほんの少し動いた。
「前からだろ」
「そういう返し、今いらないです」
「ごめん」
謝り方が、あまりにも燈真だった。
依央は笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ力が抜けた。
「でも」
また言葉を探す。
「その変なのが、最近、嫌じゃないです」
燈真は静かに見ている。
依央は燈真の方へ、ほんの少しだけ手を伸ばした。
言葉より先に、手が動いた。
燈真はその手を見た。
それから、何も言わずに受け取った。
指が重なる。
握るというより、自然に繋がる。
もう足元のせいではない。
作業のためでもない。
人混みのためでもない。
依央が、そうしたかった。
燈真も、それを受け取った。
「……久我くん」
「うん」
「俺、たぶん」
そこで止まった。
言えなかった。
でも、燈真は手を離さなかった。
「うん」
たった一音。
それだけで、今は十分だった。
依央は秋空を見上げた。
夕方の色が少しずつ薄くなっている。山の向こうへ沈む光が、屋上のフェンスを金色にしている。文化祭の飾りはほとんど片づいたのに、胸の奥ではまだ、いくつもの光が残っていた。
学校中から見られる姫。
みんなに笑う自分。
頼られる自分。
雑部で力が抜ける自分。
燈真の前で、少しずつ隠せなくなる自分。
どれか一つを選ぶ必要はないのかもしれない。
全部持ったまま、燈真の隣に立っていいのかもしれない。
そう思えた。
「花宮」
「はい」
「寒くない?」
「大丈夫です」
「手、冷たい」
「久我くんのせいです」
「何で」
「緊張したので」
燈真は少しだけ笑った。
「じゃあ、もう少し」
繋いだ手に、少しだけ力が入る。
依央は言い返さなかった。
その代わり、指を返した。
秋空の下で、二人はしばらく黙っていた。
言えなかった言葉は、胸の奥に残っている。
でも、それは苦しいだけのものではなかった。
次に進むための、温かい重さだった。
文化祭は終わった。
秋も、少しずつ深くなる。
依央は繋いだ手を見下ろし、心の中で小さくつぶやいた。
(もう、なかったことにはできないな)
でも、そう思っても、怖くなかった。
燈真の手は、ちゃんとそこにある。
依央は秋の風の中で、少しだけ笑った。
学校中から見られていた姫は、今、ひとりの地味男の隣で、いちばん素の顔をしていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
ともだちにシェアしよう!

