37 / 44
第37話 冬の始まり、言えなかった秋の続き
冬服に変わった白鷺坂高校の朝は、少しだけ白かった。
校門へ続く坂道では、吐く息がうっすら見える。瑞城市の山の稜線は遠くで青く、白鷺坂駅前の商店街には小さなイルミの準備が始まっていた。飾りはまだ光っていない。脚立とコードと、巻かれる前の電球だけが並んでいる。
それだけなのに、冬が来た感じがした。
依央はマフラーを少しだけ直しながら、校門をくぐった。
冬服は嫌いではない。
リボンの見え方も、髪の落ち方も、夏服より調整しやすい。男子校の姫としては、むしろ勝ちやすい季節だ。白い息、冷たい頬、少し伏せたまつ毛。全部、使える。
(はい、冬の姫、出勤。寒さすら演出。白い息まで味方。完璧。……のはずなのに、なんで朝から久我くんの手を思い出してるの)
かなりまずい。
秋空の屋上で、燈真の手を取った。言いかけた言葉は、最後まで形にならなかった。けれど、手の温度だけは、なぜか冬服の袖口にまで残っている気がする。
依央は自分の手袋を見た。
薄いグレーの手袋。指先まできれいに収まっている。姫としての冬支度は抜かりない。
なのに、見ているのは自分の手袋ではなく、その向こうにあるはずの燈真の手だった。
(手袋を見るだけで久我くんの手に飛ぶの何。脳内の連絡網が雑。冬、怖い。寒いだけ。これは寒いだけ。手を思い出すのも、たぶん寒さのせい)
「花宮!」
朝から声が大きい。
振り向くと、黒瀬陸斗が手を振っていた。冬服の上からでも元気が漏れている。寒さに強そうな顔だった。
「おはよう、黒瀬くん」
「今日、初雪かもって!」
「まだ予報でしょ」
「でも雪だぞ!」
「雪にテンション高すぎ」
「瑞城の冬って感じするだろ!」
黒瀬の後ろで、篠宮怜央がマフラーをきれいに巻きながら歩いてくる。
「昼過ぎにちらつく可能性があるだけ。積もるほどじゃない」
「篠宮、夢を削るな!」
「予報の話をしただけ」
鷹宮蓮はその横で、校舎の方を見上げていた。
「でも、花宮は雪が似合いそうだね」
「朝から急に何?」
「白い息と冬服、かなり絵になる」
「鷹宮くん、寒さまで褒めに変換するの強い」
黒瀬が即座に乗る。
「分かる。花宮、雪の中に立ってたら姫感すごそう」
「黒瀬くんまで」
「雪の日の姫!」
「その雑な呼び方、外で言わないで」
三人が笑う。
依央も笑った。
外向きの笑顔は、ちゃんと出る。
寒くても、冬服でも、朝でも、花宮依央は花宮依央だ。見られれば整えるし、呼ばれれば笑う。男子校の姫は、季節で休まない。
けれど、教室に入ってすぐ、依央の視線は後ろの席へ向かった。
久我燈真がいた。
机の上に鞄を置き、片手でプリントをめくっている。冬服の袖口から、指先が少しだけ見えていた。手袋はしていない。冷えていそうなのに、本人は平然としている。
依央は、見た。
見てしまった。
(はい出た。久我くんの手。冬服より存在感あるの何。手袋なし? 寒くないの? 見るな。見た。終わった♡)
「花宮」
燈真が顔を上げた。
依央は反射で笑った。
「おはようございます、久我くん」
「おはよう」
「手袋、しないんですか」
言ってから、依央は内心で机に沈んだ。
(聞いた。手を見てたのがばれる質問を自分からした。朝の俺、弱すぎ)
燈真は自分の手を見る。
「忘れた」
「忘れたんですか」
「うん」
「寒くないんですか」
「少し」
「少しですか」
依央は自分の手袋を外しかけた。
外しかけて、止まった。
貸すのか。
手袋を。
久我くんに。
朝の教室で。
(待って。俺、何しようとした? 貸す? 手袋を? 片方だけ? 恋愛脳が冬に負けてる。花宮依央、朝から危険)
燈真がその動きを見ていた。
「貸す?」
「貸しません」
返事が早かった。
燈真の目が少しだけ笑う。
「そっか」
「今のは、手袋の状態確認です」
「状態」
「冬なので」
「うん」
「何ですか、その顔」
「花宮、朝からにぎやか」
「顔ですか」
「手も」
依央は手袋を握りしめた。
(手も。はい、来た。手元まで見られてる。朝から久我くんが通常運転すぎる。俺だけ坂道で転びかけてる気分)
黒瀬が後ろから顔を出した。
「何、手袋貸す流れ?」
「違います」
「花宮、俺にも貸して」
「黒瀬くんは自分で買って」
「対応の差!」
篠宮が席に着きながら言う。
「黒瀬は手袋をなくす確率が高い」
「篠宮までひどい」
鷹宮は笑って、依央の手袋を見た。
「でも、その手袋、花宮に似合ってるよ」
「ありがとう。鷹宮くんは安定して褒めてくれるね」
「久我も褒めればいいのに」
鷹宮がさらっと言った。
依央は固まった。
燈真は少しだけ依央の手元を見て、それから短く言った。
「似合ってる」
依央の心臓が、朝の教室で派手に転んだ。
(うわ。来た。普通の褒め。手袋が似合ってるだけ。だけなのに、久我くんが言うと別物。無理♡ 受け取れ。冬の姫、耐えろ)
「……ありがとうございます」
声は、何とか普通に出た。
鷹宮が満足そうに笑い、黒瀬が「久我が褒めた」と騒ぎ、篠宮が「褒めるくらいはするだろ」と冷静に返す。
依央はその中で、手袋の指先を見下ろした。
好きかもしれない。
その言葉が、胸の奥で小さく動く。
でも、まだ形にはしない。
形にしたら、たぶん朝の手袋どころでは済まない。
****
放課後、雑部は旧校舎の一階にいた。
依央、燈真、晴臣の三人は、用務員の宮坂さんに呼ばれて、古い備品棚の整理を手伝っていた。冬休みに入る前に、旧校舎の備品台帳と実物の数を合わせたいらしい。
晴臣は台帳を見て、真顔になった。
「雑部、思ったよりちゃんと仕事してる」
依央はマフラーを外しながら頷いた。
「校内生活改善同好会なので」
「名前、急に働かせにくるな」
「晴臣、文句言いながら数えて。古い掲示板用クリップ、二十六個」
「はいはい。えーっと、二十四、二十五……一個どっか行ってる」
「最初から不穏」
燈真は何も言わず、棚の奥に手を伸ばした。
金具の入った小箱を引き出す。重そうな顔もしない。動きが無駄に静かだ。
依央はまた見た。
腕。
手。
箱を支える指。
(待て。手を見るなって朝から何回言えば分かるの俺。雑部で備品持ってるだけ。なのに、なにあれ、かっこいい。備品整理にかっこいいって何。俺、大丈夫?)
「花宮」
燈真が呼ぶ。
「はい」
「こっち、台帳にない」
「え、どれですか」
燈真が小箱を差し出す。
古い画鋲と、掲示用のマグネットが混じっている。依央が受け取ろうとした時、指先がほんの少し触れた。
手袋をしていない燈真の指は、思ったより冷たい。
依央の指先に、短く温度が残る。
(触れた。備品の受け渡し。作業。作業なのに、指先に全部持っていかれる。朝からずっと手。俺、今日の脳内テーマが単純すぎる♡)
「冷たいですね」
言ってしまった。
燈真が自分の指を見る。
「そう?」
「手袋、忘れるからです」
「うん」
「だから寒いんです」
「うん」
「……次は忘れないでください」
燈真が少しだけ依央を見る。
「心配?」
依央は台帳を見た。
「備品整理中に指先が冷えてると、作業効率が落ちるので」
「そう」
「そうです」
晴臣が棚の向こうから声を上げた。
「依央、理由が仕事っぽい!」
「仕事なので」
「久我、愛されてんな」
「晴臣」
「はい、クリップ探します」
燈真は少し笑った。
依央は小箱を台帳の横に置き、数を記入した。
雑部は、こういう仕事をする場所でもある。
派手ではない。誰かに大きく褒められるわけでもない。古い備品を数えて、掲示物用の金具を分けて、旧校舎の隅を少し使いやすくする。
けれど、その地味さが、今は落ち着いた。
宮坂さんが物置の奥から、白い箱を台車に乗せて出してきた。
「そうだ。これ、まだ動くんだけど、職員室じゃ新しいのに替えるから。雑部で使うかい?」
晴臣が箱をのぞき込む。
「電子レンジ?」
「そう。古いやつだけど、温めるくらいなら十分だよ。旧校舎、寒いだろ」
晴臣は一秒で明るくなった。
「え、雑部でホットココアいけるじゃん」
「晴臣、発想が早い」
「冬の雑部、福利厚生上がるぞ」
「同好会の方向性が分からない」
「おでんもいける」
依央は即座に顔を上げた。
「一気に部室の匂いが変わるから待って」
燈真が電子レンジのコードを確認した。
「掃除すれば使える」
「久我、急に家電担当」
「危なくないか見るだけ」
晴臣がにやっとした。
「依央、これで久我の手が冷えててもココア出せるぞ」
依央は台帳のペンを握ったまま固まった。
「晴臣」
「何」
「電子レンジで人の手は温めません」
「そういう意味じゃねえよ」
燈真がこちらを見る。
「ココア、作る?」
「今じゃないです」
「そっか」
「久我くんも乗らないでください」
晴臣が笑う。
依央は台帳に「電子レンジ 一台」と書き込みながら、内心で頭を抱えた。
(ホットココア。冬。久我くんの手。全部つながる。やばい。雑部に電子レンジが来ただけで恋愛脳が稼働してる。俺、終わってる♡)
電子レンジは、三人で雑部室へ運んだ。
古いが、外側を拭けば思ったよりきれいだった。晴臣はさっそく置き場所を決めたがり、依央は机の上を占領しないよう止め、燈真はコンセントの位置を確認した。
結局、棚の横に置くことになった。
旧校舎の部室に、白い電子レンジが一つ増えた。
それだけで、部屋の冬が少しやわらかくなる。
晴臣は満足そうに腕を組んだ。
「これで雑部は冬に勝てる」
依央は椅子に座りながら言った。
「晴臣の勝敗、いつも雑」
「次はおでんパーティな」
「本気で言ってる?」
「本気」
燈真が短く言う。
「匂い、残る」
「久我が現実的!」
「でも、ココアなら」
「いける?」
「いける」
晴臣は拳を握った。
「冬の雑部、開幕」
依央は笑ってしまった。
くだらない。
でも、こういうくだらなさに救われることがある。
進路の話も、冬の冷たさも、言えなかった言葉も、全部がすぐに消えるわけではない。けれど、電子レンジ一つで少し笑えるなら、悪くない。
部室の窓の外では、空が少し暗くなっていた。
初雪は、まだ降っていない。
でも、夕方の空気は朝より冷たい。
晴臣は千紘からの連絡に気づき、「ちょっと返信」と言って廊下へ出ていった。たぶん、返信だけでは済まない顔をしていた。
部室には、依央と燈真が残った。
急に静かになる。
電子レンジの白い箱が、棚の横にある。
依央は手袋を外して、机の上に置いた。
指先が少し冷えている。
燈真がそれを見た。
「冷たい?」
「まあ、少し」
「ココア、まだない」
「分かってます」
「手袋は?」
「あります」
「つけないの」
依央は自分の手袋を見た。
朝、貸しかけた手袋。
結局貸さなかった手袋。
「……今は、いいです」
燈真は何も言わず、机の上に置かれた依央の手元を見ていた。
見られている。
手袋ではなく、手を。
依央は視線をそらしそうになって、そらさなかった。
「久我くん」
「何」
「秋の屋上で、俺」
言いかけて、止まった。
喉の奥で、言葉が引っかかる。
好きかもしれない。
そう言えばいいのか。
言わない方がいいのか。
まだ、分からない。
でも、言わないままでも、消えない。
燈真は待っていた。
急かさない。
からかわない。
依央は小さく息を吐いた。
「……言いかけたこと、残ってます」
燈真の目が、静かに依央を見る。
「うん」
「冬になったのに」
「うん」
「しつこいですね、俺」
「花宮だし」
「それで何でも通すの、やめてください」
燈真は少しだけ笑った。
依央も、つられて少し笑った。
笑ったら、胸の奥が少し楽になる。
でも、その奥にあるものは、やっぱり消えない。
(好きかもしれない。……たぶん、もっと先まで来てる。でも、言葉にしたら変わる。俺、まだその顔で久我くんの隣に立てるか分からない)
窓の外で、何か白いものが落ちた。
依央は顔を上げた。
「雪?」
燈真も窓を見る。
ほんの少しだけ、白い粒が空から落ちていた。積もるほどではない。目を凝らさないと見失うくらいの、小さな初雪。
依央は椅子から立ち、窓へ近づいた。
「本当に降った」
「少しだけ」
「黒瀬くん、明日騒ぎますね」
「今日も騒いでた」
「確かに」
窓のそばは冷たい。
依央がガラスに近づくと、燈真も隣に来た。
肩は触れない。
でも近い。
白い息が、窓に薄く曇りを作る。
依央は、自分の手をそっと見た。
手袋は机の上。
手は冷たい。
けれど、燈真の手がすぐ隣にある。
触れそうで、触れない距離。
(寒い。手、冷たい。理由はある。理由だらけ。手を取ってもおかしくない。……でも、今、理由で触りたいんじゃないんだよな)
依央は手を動かさなかった。
燈真も触れなかった。
ただ、二人で初雪を見ていた。
「花宮」
「はい」
「残ってるなら、消さなくていい」
依央は燈真を見た。
短い。
いつものように、短い。
でも、今の依央には十分すぎた。
言えなかった言葉。
冬になっても残っている熱。
それを、消さなくていいと言われた。
(なにそれ。ずるい。久我くん、そういうのを普通の顔で言うな。好きかもしれない、どころじゃないだろ、これ。今は、まだ言わない。でも、消さなくていいなら、少しだけ持っててもいいのかも)
「……じゃあ、持ってます」
依央は小さく言った。
「うん」
「重くなったら、久我くんのせいにします」
「いいよ」
「いいんですか」
「うん」
依央は、少し笑った。
初雪はすぐにやみそうだった。
ほんの短い冬の挨拶みたいな雪。
でも、依央の中の言えなかった言葉は、まだやまない。
それでも、前より怖くはなかった。
燈真が隣にいる。
手は触れていない。
でも、触れようと思えば触れられる距離にある。
それだけで、今は十分だった。
廊下から晴臣の足音が戻ってくる。
「雪! 雪降ってる!」
扉が開く前から声が大きい。
依央は燈真と顔を見合わせた。
燈真が少しだけ笑う。
依央も笑った。
「晴臣、うるさい」
「初雪だぞ!」
「見えてる」
「電子レンジも来たし、雪も降ったし、雑部の冬、完璧じゃん」
晴臣が部室に飛び込んでくる。
依央は手袋を取り、ゆっくり指を通した。
冷えた指先に、布の温度が戻る。
でも、それとは別のところに、さっきの言葉が残っていた。
消さなくていい。
冬は始まったばかりだ。
言えなかった言葉も、たぶん、ここから少しずつ形を変えていく。
依央は窓の外の白い粒を見ながら、心の中で小さくつぶやいた。
(好きかもしれない。……今は、それで許して)
その言葉に、誰も返事はしない。
でも隣で、燈真の手が静かに窓枠へ置かれていた。
依央はそれを見て、また少しだけ胸が騒いだ。
ともだちにシェアしよう!

