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第37話 冬の始まり、言えなかった秋の続き

冬服に変わった白鷺坂高校の朝は、少しだけ白かった。 校門へ続く坂道では、吐く息がうっすら見える。瑞城市の山の稜線は遠くで青く、白鷺坂駅前の商店街には小さなイルミの準備が始まっていた。飾りはまだ光っていない。脚立とコードと、巻かれる前の電球だけが並んでいる。 それだけなのに、冬が来た感じがした。 依央はマフラーを少しだけ直しながら、校門をくぐった。 冬服は嫌いではない。 リボンの見え方も、髪の落ち方も、夏服より調整しやすい。男子校の姫としては、むしろ勝ちやすい季節だ。白い息、冷たい頬、少し伏せたまつ毛。全部、使える。 (はい、冬の姫、出勤。寒さすら演出。白い息まで味方。完璧。……のはずなのに、なんで朝から久我くんの手を思い出してるの) かなりまずい。 秋空の屋上で、燈真の手を取った。言いかけた言葉は、最後まで形にならなかった。けれど、手の温度だけは、なぜか冬服の袖口にまで残っている気がする。 依央は自分の手袋を見た。 薄いグレーの手袋。指先まできれいに収まっている。姫としての冬支度は抜かりない。 なのに、見ているのは自分の手袋ではなく、その向こうにあるはずの燈真の手だった。 (手袋を見るだけで久我くんの手に飛ぶの何。脳内の連絡網が雑。冬、怖い。寒いだけ。これは寒いだけ。手を思い出すのも、たぶん寒さのせい) 「花宮!」 朝から声が大きい。 振り向くと、黒瀬陸斗が手を振っていた。冬服の上からでも元気が漏れている。寒さに強そうな顔だった。 「おはよう、黒瀬くん」 「今日、初雪かもって!」 「まだ予報でしょ」 「でも雪だぞ!」 「雪にテンション高すぎ」 「瑞城の冬って感じするだろ!」 黒瀬の後ろで、篠宮怜央がマフラーをきれいに巻きながら歩いてくる。 「昼過ぎにちらつく可能性があるだけ。積もるほどじゃない」 「篠宮、夢を削るな!」 「予報の話をしただけ」 鷹宮蓮はその横で、校舎の方を見上げていた。 「でも、花宮は雪が似合いそうだね」 「朝から急に何?」 「白い息と冬服、かなり絵になる」 「鷹宮くん、寒さまで褒めに変換するの強い」 黒瀬が即座に乗る。 「分かる。花宮、雪の中に立ってたら姫感すごそう」 「黒瀬くんまで」 「雪の日の姫!」 「その雑な呼び方、外で言わないで」 三人が笑う。 依央も笑った。 外向きの笑顔は、ちゃんと出る。 寒くても、冬服でも、朝でも、花宮依央は花宮依央だ。見られれば整えるし、呼ばれれば笑う。男子校の姫は、季節で休まない。 けれど、教室に入ってすぐ、依央の視線は後ろの席へ向かった。 久我燈真がいた。 机の上に鞄を置き、片手でプリントをめくっている。冬服の袖口から、指先が少しだけ見えていた。手袋はしていない。冷えていそうなのに、本人は平然としている。 依央は、見た。 見てしまった。 (はい出た。久我くんの手。冬服より存在感あるの何。手袋なし? 寒くないの? 見るな。見た。終わった♡) 「花宮」 燈真が顔を上げた。 依央は反射で笑った。 「おはようございます、久我くん」 「おはよう」 「手袋、しないんですか」 言ってから、依央は内心で机に沈んだ。 (聞いた。手を見てたのがばれる質問を自分からした。朝の俺、弱すぎ) 燈真は自分の手を見る。 「忘れた」 「忘れたんですか」 「うん」 「寒くないんですか」 「少し」 「少しですか」 依央は自分の手袋を外しかけた。 外しかけて、止まった。 貸すのか。 手袋を。 久我くんに。 朝の教室で。 (待って。俺、何しようとした? 貸す? 手袋を? 片方だけ? 恋愛脳が冬に負けてる。花宮依央、朝から危険) 燈真がその動きを見ていた。 「貸す?」 「貸しません」 返事が早かった。 燈真の目が少しだけ笑う。 「そっか」 「今のは、手袋の状態確認です」 「状態」 「冬なので」 「うん」 「何ですか、その顔」 「花宮、朝からにぎやか」 「顔ですか」 「手も」 依央は手袋を握りしめた。 (手も。はい、来た。手元まで見られてる。朝から久我くんが通常運転すぎる。俺だけ坂道で転びかけてる気分) 黒瀬が後ろから顔を出した。 「何、手袋貸す流れ?」 「違います」 「花宮、俺にも貸して」 「黒瀬くんは自分で買って」 「対応の差!」 篠宮が席に着きながら言う。 「黒瀬は手袋をなくす確率が高い」 「篠宮までひどい」 鷹宮は笑って、依央の手袋を見た。 「でも、その手袋、花宮に似合ってるよ」 「ありがとう。鷹宮くんは安定して褒めてくれるね」 「久我も褒めればいいのに」 鷹宮がさらっと言った。 依央は固まった。 燈真は少しだけ依央の手元を見て、それから短く言った。 「似合ってる」 依央の心臓が、朝の教室で派手に転んだ。 (うわ。来た。普通の褒め。手袋が似合ってるだけ。だけなのに、久我くんが言うと別物。無理♡ 受け取れ。冬の姫、耐えろ) 「……ありがとうございます」 声は、何とか普通に出た。 鷹宮が満足そうに笑い、黒瀬が「久我が褒めた」と騒ぎ、篠宮が「褒めるくらいはするだろ」と冷静に返す。 依央はその中で、手袋の指先を見下ろした。 好きかもしれない。 その言葉が、胸の奥で小さく動く。 でも、まだ形にはしない。 形にしたら、たぶん朝の手袋どころでは済まない。 **** 放課後、雑部は旧校舎の一階にいた。 依央、燈真、晴臣の三人は、用務員の宮坂さんに呼ばれて、古い備品棚の整理を手伝っていた。冬休みに入る前に、旧校舎の備品台帳と実物の数を合わせたいらしい。 晴臣は台帳を見て、真顔になった。 「雑部、思ったよりちゃんと仕事してる」 依央はマフラーを外しながら頷いた。 「校内生活改善同好会なので」 「名前、急に働かせにくるな」 「晴臣、文句言いながら数えて。古い掲示板用クリップ、二十六個」 「はいはい。えーっと、二十四、二十五……一個どっか行ってる」 「最初から不穏」 燈真は何も言わず、棚の奥に手を伸ばした。 金具の入った小箱を引き出す。重そうな顔もしない。動きが無駄に静かだ。 依央はまた見た。 腕。 手。 箱を支える指。 (待て。手を見るなって朝から何回言えば分かるの俺。雑部で備品持ってるだけ。なのに、なにあれ、かっこいい。備品整理にかっこいいって何。俺、大丈夫?) 「花宮」 燈真が呼ぶ。 「はい」 「こっち、台帳にない」 「え、どれですか」 燈真が小箱を差し出す。 古い画鋲と、掲示用のマグネットが混じっている。依央が受け取ろうとした時、指先がほんの少し触れた。 手袋をしていない燈真の指は、思ったより冷たい。 依央の指先に、短く温度が残る。 (触れた。備品の受け渡し。作業。作業なのに、指先に全部持っていかれる。朝からずっと手。俺、今日の脳内テーマが単純すぎる♡) 「冷たいですね」 言ってしまった。 燈真が自分の指を見る。 「そう?」 「手袋、忘れるからです」 「うん」 「だから寒いんです」 「うん」 「……次は忘れないでください」 燈真が少しだけ依央を見る。 「心配?」 依央は台帳を見た。 「備品整理中に指先が冷えてると、作業効率が落ちるので」 「そう」 「そうです」 晴臣が棚の向こうから声を上げた。 「依央、理由が仕事っぽい!」 「仕事なので」 「久我、愛されてんな」 「晴臣」 「はい、クリップ探します」 燈真は少し笑った。 依央は小箱を台帳の横に置き、数を記入した。 雑部は、こういう仕事をする場所でもある。 派手ではない。誰かに大きく褒められるわけでもない。古い備品を数えて、掲示物用の金具を分けて、旧校舎の隅を少し使いやすくする。 けれど、その地味さが、今は落ち着いた。 宮坂さんが物置の奥から、白い箱を台車に乗せて出してきた。 「そうだ。これ、まだ動くんだけど、職員室じゃ新しいのに替えるから。雑部で使うかい?」 晴臣が箱をのぞき込む。 「電子レンジ?」 「そう。古いやつだけど、温めるくらいなら十分だよ。旧校舎、寒いだろ」 晴臣は一秒で明るくなった。 「え、雑部でホットココアいけるじゃん」 「晴臣、発想が早い」 「冬の雑部、福利厚生上がるぞ」 「同好会の方向性が分からない」 「おでんもいける」 依央は即座に顔を上げた。 「一気に部室の匂いが変わるから待って」 燈真が電子レンジのコードを確認した。 「掃除すれば使える」 「久我、急に家電担当」 「危なくないか見るだけ」 晴臣がにやっとした。 「依央、これで久我の手が冷えててもココア出せるぞ」 依央は台帳のペンを握ったまま固まった。 「晴臣」 「何」 「電子レンジで人の手は温めません」 「そういう意味じゃねえよ」 燈真がこちらを見る。 「ココア、作る?」 「今じゃないです」 「そっか」 「久我くんも乗らないでください」 晴臣が笑う。 依央は台帳に「電子レンジ 一台」と書き込みながら、内心で頭を抱えた。 (ホットココア。冬。久我くんの手。全部つながる。やばい。雑部に電子レンジが来ただけで恋愛脳が稼働してる。俺、終わってる♡) 電子レンジは、三人で雑部室へ運んだ。 古いが、外側を拭けば思ったよりきれいだった。晴臣はさっそく置き場所を決めたがり、依央は机の上を占領しないよう止め、燈真はコンセントの位置を確認した。 結局、棚の横に置くことになった。 旧校舎の部室に、白い電子レンジが一つ増えた。 それだけで、部屋の冬が少しやわらかくなる。 晴臣は満足そうに腕を組んだ。 「これで雑部は冬に勝てる」 依央は椅子に座りながら言った。 「晴臣の勝敗、いつも雑」 「次はおでんパーティな」 「本気で言ってる?」 「本気」 燈真が短く言う。 「匂い、残る」 「久我が現実的!」 「でも、ココアなら」 「いける?」 「いける」 晴臣は拳を握った。 「冬の雑部、開幕」 依央は笑ってしまった。 くだらない。 でも、こういうくだらなさに救われることがある。 進路の話も、冬の冷たさも、言えなかった言葉も、全部がすぐに消えるわけではない。けれど、電子レンジ一つで少し笑えるなら、悪くない。 部室の窓の外では、空が少し暗くなっていた。 初雪は、まだ降っていない。 でも、夕方の空気は朝より冷たい。 晴臣は千紘からの連絡に気づき、「ちょっと返信」と言って廊下へ出ていった。たぶん、返信だけでは済まない顔をしていた。 部室には、依央と燈真が残った。 急に静かになる。 電子レンジの白い箱が、棚の横にある。 依央は手袋を外して、机の上に置いた。 指先が少し冷えている。 燈真がそれを見た。 「冷たい?」 「まあ、少し」 「ココア、まだない」 「分かってます」 「手袋は?」 「あります」 「つけないの」 依央は自分の手袋を見た。 朝、貸しかけた手袋。 結局貸さなかった手袋。 「……今は、いいです」 燈真は何も言わず、机の上に置かれた依央の手元を見ていた。 見られている。 手袋ではなく、手を。 依央は視線をそらしそうになって、そらさなかった。 「久我くん」 「何」 「秋の屋上で、俺」 言いかけて、止まった。 喉の奥で、言葉が引っかかる。 好きかもしれない。 そう言えばいいのか。 言わない方がいいのか。 まだ、分からない。 でも、言わないままでも、消えない。 燈真は待っていた。 急かさない。 からかわない。 依央は小さく息を吐いた。 「……言いかけたこと、残ってます」 燈真の目が、静かに依央を見る。 「うん」 「冬になったのに」 「うん」 「しつこいですね、俺」 「花宮だし」 「それで何でも通すの、やめてください」 燈真は少しだけ笑った。 依央も、つられて少し笑った。 笑ったら、胸の奥が少し楽になる。 でも、その奥にあるものは、やっぱり消えない。 (好きかもしれない。……たぶん、もっと先まで来てる。でも、言葉にしたら変わる。俺、まだその顔で久我くんの隣に立てるか分からない) 窓の外で、何か白いものが落ちた。 依央は顔を上げた。 「雪?」 燈真も窓を見る。 ほんの少しだけ、白い粒が空から落ちていた。積もるほどではない。目を凝らさないと見失うくらいの、小さな初雪。 依央は椅子から立ち、窓へ近づいた。 「本当に降った」 「少しだけ」 「黒瀬くん、明日騒ぎますね」 「今日も騒いでた」 「確かに」 窓のそばは冷たい。 依央がガラスに近づくと、燈真も隣に来た。 肩は触れない。 でも近い。 白い息が、窓に薄く曇りを作る。 依央は、自分の手をそっと見た。 手袋は机の上。 手は冷たい。 けれど、燈真の手がすぐ隣にある。 触れそうで、触れない距離。 (寒い。手、冷たい。理由はある。理由だらけ。手を取ってもおかしくない。……でも、今、理由で触りたいんじゃないんだよな) 依央は手を動かさなかった。 燈真も触れなかった。 ただ、二人で初雪を見ていた。 「花宮」 「はい」 「残ってるなら、消さなくていい」 依央は燈真を見た。 短い。 いつものように、短い。 でも、今の依央には十分すぎた。 言えなかった言葉。 冬になっても残っている熱。 それを、消さなくていいと言われた。 (なにそれ。ずるい。久我くん、そういうのを普通の顔で言うな。好きかもしれない、どころじゃないだろ、これ。今は、まだ言わない。でも、消さなくていいなら、少しだけ持っててもいいのかも) 「……じゃあ、持ってます」 依央は小さく言った。 「うん」 「重くなったら、久我くんのせいにします」 「いいよ」 「いいんですか」 「うん」 依央は、少し笑った。 初雪はすぐにやみそうだった。 ほんの短い冬の挨拶みたいな雪。 でも、依央の中の言えなかった言葉は、まだやまない。 それでも、前より怖くはなかった。 燈真が隣にいる。 手は触れていない。 でも、触れようと思えば触れられる距離にある。 それだけで、今は十分だった。 廊下から晴臣の足音が戻ってくる。 「雪! 雪降ってる!」 扉が開く前から声が大きい。 依央は燈真と顔を見合わせた。 燈真が少しだけ笑う。 依央も笑った。 「晴臣、うるさい」 「初雪だぞ!」 「見えてる」 「電子レンジも来たし、雪も降ったし、雑部の冬、完璧じゃん」 晴臣が部室に飛び込んでくる。 依央は手袋を取り、ゆっくり指を通した。 冷えた指先に、布の温度が戻る。 でも、それとは別のところに、さっきの言葉が残っていた。 消さなくていい。 冬は始まったばかりだ。 言えなかった言葉も、たぶん、ここから少しずつ形を変えていく。 依央は窓の外の白い粒を見ながら、心の中で小さくつぶやいた。 (好きかもしれない。……今は、それで許して) その言葉に、誰も返事はしない。 でも隣で、燈真の手が静かに窓枠へ置かれていた。 依央はそれを見て、また少しだけ胸が騒いだ。

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