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第38話 進路調査票と、久我燈真の空欄
進路ガイダンスの日、体育館は朝から少しだけ空気が固かった。
冬の体育館は広い分だけ冷える。天井近くの窓から薄い光が入り、並べられたパイプ椅子の列に白っぽく落ちていた。先生たちが資料を配る音、椅子の脚が床をこする音、誰かが小さく咳をする音。
楽しい行事の前とは、まったく違う。
少し先の自分を見ろと言われている感じがした。
黒瀬陸斗は、配られた資料を見てすぐ顔をしかめた。
「未来、急に来るな」
依央は隣で小さく笑った。
「黒瀬くん、表紙しか見てないよ」
「表紙がもう強い。進路って二文字、圧がある」
前の席の篠宮怜央が、資料をまっすぐ揃えながら言った。
「二文字ではない」
「篠宮、そこ拾う?」
「拾うというより、事実」
「今日の篠宮、いつもより冷たい」
「体育館が寒いから」
鷹宮蓮は資料の端を指で押さえながら、依央を見た。
「花宮は、人前に立つ仕事も似合いそうだね」
「急に何?」
「この資料、適性の例がいろいろあるから。花宮は、誰かを案内したり、場の空気を整えたりするのがうまい」
「鷹宮くん、進路ガイダンスで褒める方向が優雅」
「本当のことだよ」
近くの男子が「分かる」とうなずく。
「花宮、絶対接客とか広報とか向いてる」
「先生でもいけそう」
「いや、姫業」
「職業にしないで」
小さく笑いが広がる。
依央は外向きの笑顔で受けた。
褒められるのは慣れている。
将来の話題にまで姫が出てくるのはどうかと思うが、それでも周囲が自分を見て、何かに向いていると言ってくれるのは悪くない。
(人前に立つ仕事。案内。場の空気を整える。まあ、できる。たぶん。花宮依央、わりと万能。……進路で自分を姫扱いするな俺)
先生が壇上に立ち、ガイダンスが始まった。
冬のうちに考えておくこと。
三者面談の希望調査。
文理選択。
志望校。
将来の仕事。
一つひとつは遠いようで、資料の上に並ぶと急に近かった。
依央は資料を見下ろした。
進路。
来年。
その先。
言葉だけで、少し肩が重くなる。
けれど、依央の目は、自分の資料ではなく、少し斜め後ろの席へ向きかけた。
久我燈真。
何を選ぶのか。
どこへ行くのか。
どう書くのか。
(見るな。今は自分の進路。自分の紙を見ろ。久我くんの未来を先に確認しようとするな。俺、何担当? 久我燈真進路係? 違う)
それでも、気になった。
燈真はいつものように資料を見ている。表情は変わらない。寒そうでも、眠そうでもない。進路の話にも、特に反応していない。
その平らな顔が、逆に気になる。
(平気そう。平気そうに見えるだけかも。久我くん、そういう顔うまい。何考えてるか分からない顔で、こっちの胸だけざわつかせるのやめてほしい)
ガイダンスが終わり、教室へ戻ると、進路調査票が配られた。
二年三組は一気にざわついた。
黒瀬は紙を見て、また固まった。
「第一希望って何。希望の準備ができてない」
篠宮がペンを出しながら言う。
「今の希望でいい。確定ではない」
「篠宮、もう書けるの?」
「大まかには」
「こわ」
「こわくはない」
鷹宮は紙を眺めながら、少し首を傾げた。
「こういう紙って、急に自分の形を聞いてくるね」
「鷹宮くんの言い方、きれいだけどちょっと重い」
「そう?」
「そう」
依央は自分の調査票を見た。
名前。
クラス。
希望進路。
保護者面談希望日。
得意科目。
相談したいこと。
項目は普通だ。
普通なのに、やたら白い。
(白い。紙が白すぎる。俺、何書くの。花の生徒会? 人前? 広報? 姫? 職業欄に男子校の姫って書いたら担任が倒れる)
笑いそうになりながら、依央はペンを持った。
その時、燈真が調査票を机に置いたのが見えた。
視界の端で。
依央は、見ないようにした。
見ないようにしたのに、見た。
燈真の紙は、かなり白かった。
名前だけ。
進路希望の欄は空いている。
得意科目も、相談したいことも、何も書かれていない。
依央のペン先が止まった。
(白い。久我くんの紙、白い。何あれ。空欄が似合う顔してる場合じゃない。似合うって何。空欄にときめくな俺。違う、今はときめきじゃない。ざわっとした。何で)
「花宮」
燈真が顔を上げた。
依央は肩を跳ねさせそうになった。
「はい」
「ペン、止まってる」
「考えてただけです」
「俺の紙見て?」
「見てました」
答えてから、依央は自分で目を丸くした。
燈真も少しだけ驚いたように見えた。
依央はペンを握り直す。
「……見えたので」
「そっか」
燈真はそれ以上聞かなかった。
その短さが、胸に残る。
依央は自分の紙へ戻ろうとした。
でも、もう無理だった。
燈真の白い欄が、頭の中に残っている。
(何で何も書かないの。決めてない? 書きたくない? 考えてないわけない。久我くんが何も考えてないわけない。なのに白い。俺の心臓まで白くなるんだけど)
依央は自分の希望進路欄に文字を書こうとした。
一画目が、少しだけ曲がった。
「あ」
黒瀬がのぞき込む。
「花宮、字、珍しく揺れてね?」
依央は即座に紙を隠した。
「黒瀬くん、他人の進路を覗かない」
「いや、字が」
「覗かない」
「はい」
篠宮が冷静に言う。
「花宮でも進路は迷うんだな」
「篠宮くん、その言い方、地味に刺さる」
「迷うのは普通」
「普通を冷静に出されると、言い返す言葉がなくなる」
篠宮は小さくうなずいた。
「それはある」
鷹宮がやわらかく言った。
「花宮は、ちゃんと考えたいんだね」
「そう見える?」
「うん。人のことも、自分のことも」
依央は苦笑した。
人のこと。
その言葉で、また燈真の空欄が浮かんだ。
自分のことだけを考えたいのに、どうしてもそこへ行く。
(これ、好きかもしれないの弊害? 人として気になるだけ。雑部仲間として。たぶん。……たぶんって、もうだいぶ弱い)
****
放課後、雑部室へ向かう前に、三人は旧校舎一階の掲示板前に集まった。
依央、燈真、晴臣。
今日は進路ガイダンスの案内掲示を、冬期講習の案内へ差し替える作業が回ってきていた。花の生徒会から旧校舎側の掲示も確認してほしいと頼まれたもので、雑部としてはちょうどいい仕事だった。
晴臣は掲示物の束を持ちながら、首をかしげる。
「雑部、またちゃんと働いてる」
依央は古い画鋲を外しながら言った。
「晴臣、毎回驚かない」
「いや、俺たちってもっと、ゆるく旧校舎の平和を守る感じだと思ってた」
「掲示板の平和も守ってるよ」
「地味!」
燈真は掲示枠のゆるんだ金具を指で押さえた。
「ここ、直した方がいい」
「久我くん、金具担当お願いします」
「うん」
晴臣がにやっとする。
「久我、地味に何でもできるな」
「地味は余計」
依央が返すと、晴臣がすぐ笑う。
「依央が怒った」
「怒ってません」
「久我のことになると早い」
「掲示板の作業に集中して」
進路ガイダンスの紙を外すと、その下に少し古い掲示の跡が残っていた。
依央はそこを軽く拭いた。
冬期講習案内。
自習室開放時間。
三者面談希望調査提出日。
貼っていく紙が、どれも少し先の予定ばかりで、胸がまたざわつく。
燈真は黙って金具を直している。
その横顔は静かだ。
でも、さっき見た白い欄が、どうしても重なる。
(掲示板まで未来の紙だらけ。白い欄からこっちを見ないでほしい。いや、見てない。紙だし。でも、久我くんの紙も白かった。……くそ、気になる)
作業を終える頃には、旧校舎の廊下はかなり冷えていた。
晴臣は手に息を吹きかける。
「寒い。電子レンジの出番だろ」
「さっそく?」
「紙コップ買ってきた」
「準備がいい」
「雑部の冬を支えるからな」
燈真が短く言う。
「部室で温める?」
「温める!」
晴臣は即答した。
雑部室は、前より少しだけ冬仕様になっていた。
用務員さんから譲ってもらった古い電子レンジは、棚の横に収まっている。まだ専用のマグはない。机の上には晴臣が買ってきた紙コップと、インスタントのココアの箱が置かれていた。
晴臣は胸を張った。
「雑部、ホットココア運用開始」
依央は鞄を置きながら言った。
「運用って言うと本当に仕事っぽい」
「紙コップだけどな。いつかちゃんとしたカップほしい」
「急に生活感」
燈真は電子レンジの前で、紙コップの位置を確認している。
「吹きこぼれるなよ」
「久我、電子レンジに厳しい」
「掃除するの面倒」
「現実」
晴臣はさらに、コンビニの袋を机の下から出した。
「あとさ」
依央は嫌な予感がした。
「何」
「おでん、いけると思うんだよな」
「本気で言ってたんだ」
「冬の雑部といえばおでんだろ」
「初耳」
「大根、卵、ちくわ。完璧」
燈真が短く言った。
「匂い」
「そこなんだよな」
晴臣は真剣な顔で頷いた。
「部室がおでんになる」
「なるね」
「それはそれでよくない?」
「よくない日もある」
依央は笑ってしまった。
進路調査票で重かった頭が、少しだけ軽くなる。
電子レンジ。
紙コップ。
ココア。
おでん案。
旧校舎の雑部室に、進路の紙とは関係のない、くだらなくて温かい話題がある。
それが、今はありがたかった。
「今日はココアだけにしよう」
依央が言うと、晴臣は渋々うなずいた。
「おでんは次な」
「次があるんだ」
「ある」
燈真が紙コップを電子レンジへ入れた。
古い機械が低く鳴り始める。
部室の中に、ほんのり甘い匂いが広がった。
晴臣は椅子に座り、進路調査票を机に出した。
「で、みんな何書いた?」
「晴臣、普通に聞くね」
「俺、仮だし」
「晴臣は?」
「専門とか大学とか、千紘さんに相談してから決める」
依央は目を細めた。
「さりげなく彼氏を出した」
「出た?」
「出た」
晴臣は照れた顔で頭をかいた。
「だって、先輩だし。進路のことも聞けるだろ」
「まあ、それはそう」
「依央は?」
「まだ」
「珍しい」
「黒瀬くんにも言われた」
「顔に出てたんじゃね」
「晴臣まで」
晴臣はにやにやした後、ふと燈真を見た。
「久我は?」
部室の空気が少しだけ変わった。
電子レンジの音だけが残る。
燈真は紙コップを見たまま、短く言った。
「決めてない」
晴臣は「そっか」と軽く流した。
でも、依央は流せなかった。
教室で見た空欄。
名前だけの紙。
あの白さが、また目の奥に戻ってくる。
「久我くん」
呼んでしまった。
燈真がこちらを見る。
「何」
「本当に、決めてないんですか」
晴臣がちらっと依央を見る。
依央は、その視線に気づきながらも、止まれなかった。
「考えてないわけじゃ、ないですよね」
言ったあと、少しだけ胸が痛くなった。
踏み込みすぎたかもしれない。
燈真はすぐには答えなかった。
電子レンジが、控えめな音で止まる。
燈真はカップを取り出し、ひとつを晴臣へ、ひとつを依央へ渡した。
最後に自分の分を持って、椅子に座る。
「考えてる」
短い答えだった。
依央はカップを両手で持った。
温かい。
「……そうですか」
「うん」
そこまでだった。
それ以上は来ない。
依央は、聞きたい言葉を飲み込んだ。
なぜ。
何が。
どこへ。
本当は何を選ぶのか。
全部、聞きたい。
でも、聞けば答えが出るわけではない。燈真が今は出さないものを、無理に引き出したいわけでもない。
(何で俺、こんなに気になるんだろ。久我くんの進路なのに。久我くんの紙なのに。俺のココアまで少し苦くなるの、意味分かんない)
晴臣が空気を変えるように、紙コップを掲げた。
「とりあえず、ココアうまい」
依央は少し笑った。
「雑」
「でも大事だろ。進路も大事だけど、今のココアも大事」
「晴臣、たまに雑にいいこと言う」
「たまにって何」
燈真も少しだけ笑った。
その笑いに、依央の胸の奥が少し緩む。
重さは消えない。
でも、部室には温かいココアがあって、晴臣の雑な明るさがあって、燈真が隣にいる。
それだけで、少し息がしやすくなる。
晴臣はココアを飲みながら、スマホを見た。
「あ、千紘さんから進路の資料送られてきた」
「彼氏、仕事早い」
「頼れるだろ」
「晴臣が誇らしげなの、ちょっと面白い」
「うるさい」
晴臣はそのままスマホを持って廊下へ出た。
「ちょっと返信してくる」
「また?」
「大事な相談だから」
「はいはい」
扉が閉まる。
部室には、依央と燈真が残った。
前にも似た静けさがあった。
でも今日は、手の話ではなく、未来の話が机の上にある。
依央は紙コップを見つめた。
ココアの表面から、薄い湯気が上がる。
「久我くん」
「うん」
「俺、聞きすぎました?」
燈真は少し考えた。
「少し」
依央は胸が痛くなった。
「……ごめんなさい」
「でも」
燈真が続けた。
「嫌じゃない」
依央は顔を上げた。
「嫌じゃない?」
「うん」
「じゃあ、何ですか」
「今は、言葉にしにくいだけ」
その言葉に、依央は何も返せなかった。
今は、言葉にしにくい。
それは、進路の話だけではない気がした。
依央自身にも、言葉にしにくいものがある。
秋空の屋上から残っているもの。
冬の朝、燈真の手を見て騒いだ気持ち。
白い調査票を見て、胸がざわついた理由。
依央も、言葉にできないものを持っている。
(俺もだ。俺も、言葉にできてない。好きかもしれないって、それすらちゃんと言えない。なのに久我くんの空欄だけ気にしてる。ずるいのは俺かも)
依央はカップを両手で包んだ。
「じゃあ、言える時でいいです」
燈真がこちらを見る。
依央は少しだけ笑った。
「でも、白い欄のまま寒そうにしてたら、ココアくらいは出します」
「白い欄、寒そう?」
「寒そうでした」
「俺の紙が?」
「はい」
燈真は少しだけ笑った。
「花宮らしい」
その言葉は、以前ほど派手に刺さらなかった。
いや、刺さった。
刺さったけれど、依央は少しだけ受け取れた。
(花宮らしい。久我くんに言われると、まだ心臓にくる。でも今日は、ちょっとだけ嬉しい方が勝った。耐性ついてる? 違うな。好きが育ってるだけだ。危ない)
「久我くん」
「何」
「ココア、もう少し甘くしてもいいですか」
「甘いだろ」
「進路の話をしたので」
「理由になる?」
「なります」
燈真は机の上の砂糖の袋を取って、依央の前に置いた。
「入れすぎるなよ」
「子ども扱い」
「花宮、甘いの好きだろ」
依央は砂糖の袋を見た。
その言い方が、あまりにも普通だった。
普通に見ている。
依央が甘いものを好きなこと。
進路の話で少し沈んだこと。
今、少し甘くしたいこと。
「……よく見てますね」
「見える」
「そうですか」
依央は砂糖を少しだけ足した。
混ぜると、ココアの表面がゆっくり回る。
燈真の進路欄は、まだ白い。
依央の言葉にならない気持ちも、まだ形になっていない。
でも、白いまま冷やしておく必要はないのかもしれない。
温めるくらいなら、できる。
今は、それでいい。
廊下から晴臣の声が聞こえた。
「千紘さん、資料の送り方まできれいなんだけど!」
依央は吹き出した。
「晴臣、声大きい」
燈真も少し笑った。
部室の中には、ココアの甘い匂いが残っている。
電子レンジは古くて、少し音が大きい。
紙コップは仮の冬装備みたいで、まだ少し頼りない。
でも、今の雑部にはちょうどよかった。
依央は調査票を見た。
自分の欄も、まだきれいには埋まっていない。
でも、さっきよりは少しだけ、ペンを持てそうだった。
(久我くんの未来が白いと、俺の紙まで白くなる。何それ、だいぶ重症。でも、今はこれでいい。俺も白いところから書く。久我くんも、きっといつか書く)
依央はペンを手に取った。
すぐに答えは出ない。
でも、何も書かないままではいられない。
燈真の空欄を見てしまったから。
そして、その空欄を、寒そうだと思ってしまったから。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
瑞城市の冬は、夕方が早い。
部室の明かりが、机の上の調査票と紙コップを小さく照らしている。
依央は一文字目を、さっきより丁寧に書いた。
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