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第40話 久我家の空気、地域ボランティアと駅前の寄り道

瑞城市の冬は、朝より昼前の方が冷える日がある。 白鷺坂駅前の商店街には、白いテントがいくつも並んでいた。冬の地域ボランティア。商店街と学校が一緒に行う小さな催しで、白鷺坂高校からも、花の生徒会といくつかの同好会が手伝いに出ている。 依央は花の生徒会の腕章をつけ、受付用の案内板を抱えていた。 隣では、晴臣が配布用のチラシを数えながら肩をすくめている。 「寒い」 「晴臣、開始三分でそれ?」 「冬、容赦ない」 「瑞城市の冬に文句言っても勝てないよ」 「依央、今日わりと平気そうじゃん」 「花の生徒会なので」 「理由になってる?」 「なる」 依央は笑顔を作った。 商店街の人たち、地域の親子連れ、年配の人、手伝いに来た高校生。いつもより年齢層が広い。学校説明会の中学生とはまた違う視線がある。 ここで崩れるわけにはいかない。 (地域ボランティア仕様の花宮依央。清潔感、親しみやすさ、寒さに負けない笑顔。いける。今日は大人もいる。ちゃんとした姫。……大人相手に姫って何。落ち着け) 「花宮くん」 千紘がテントの向こうから歩いてきた。 手には受付表と、小さな案内カード。マフラーをきれいに巻いていて、冬の商店街の空気にも自然になじんでいる。 「白石先輩」 「ここの案内、お願いしてもいいかな。健康相談のテントが少し分かりづらいみたい」 「はい」 「久我医院のところ」 依央の手が、ほんの少し止まった。 久我。 その名字を聞くだけで、胸の奥が反応する。 (久我医院。久我くんの家。分かってた。知ってた。開業医の家って聞いてた。でも、地域ボランティアの案内に出てくると急に現実感すごい。待って、俺、今日どんな顔で久我くんを見るの) 千紘は依央の反応に気づいたのか、少しだけやわらかく笑った。 「緊張しなくて大丈夫だよ。地域の健康相談だから」 「緊張はしてません」 「うん」 「白石先輩、その返事は信じてませんね」 「少しだけ」 千紘はそう言って、依央に案内カードを渡した。 「花宮くんが立ってくれると、年配の方も聞きやすいと思う」 「任せてください」 依央は笑って答えた。 笑えた。 けれど、カードに印刷された「久我医院協力」の文字が、やけに目に残った。 **** 健康相談のテントは、商店街の端にあった。 血圧測定、簡単な健康相談、冬場の体調管理のチラシ。派手ではないが、足を止める人は多い。 テントの中には、白衣の大人が数人いた。 その中に、燈真がいた。 白衣ではない。学校指定のコートを着て、資料を運んでいるだけだ。けれど、周囲の大人たちと自然に言葉を交わしている姿は、学校で見る燈真とは少し違って見えた。 「燈真くん、こっちの予備もお願い」 「はい」 「悪いね。高校の手伝いまで」 「大丈夫です」 短い返事。 いつもの燈真。 でも、地域の大人たちの中に立っていると、その短さが妙に落ち着いて聞こえる。 年配の女性が、燈真に笑いかけた。 「あら、燈真くん、大きくなったねえ。お父さんに似てきたんじゃない?」 燈真は少しだけ頭を下げた。 「そうですか」 「将来が楽しみね。久我先生も頼もしいでしょう」 悪意なんて、ひとつもない。 むしろ温かい。 昔から知っている子を見て、ただ嬉しそうに言っているだけだ。 なのに、依央はその言葉を聞いた瞬間、少しだけ息が詰まった。 燈真の表情は変わらない。 いつものように、短く、静かに受け流している。 でも、依央には、その横顔がいつもより薄く見えた。 (何か言え、俺。いつもの調子で、軽く返せ。久我くん、地域の人気者ですね、とか。似てるって言われてるんですね、とか。……無理。今それ言えない) 依央は、案内カードをぎゅっと持った。 手元に力が入る。 燈真がそれに気づいた。 視線が合う。 依央は、反射で笑顔を作ろうとした。 でも、いつもの姫顔には少し届かなかった。 「花宮」 燈真がこちらへ来る。 「お疲れ」 「お疲れさまです。健康相談の案内、こっちで合ってますか」 「うん」 「白石先輩に頼まれて」 「助かる」 その言葉に、依央は一瞬だけ胸が揺れた。 けれど今日は、いつものように内心で大きく崩れる感じではない。 燈真の横顔が、まだ気になっていた。 「久我くん」 「何」 「今日、ずっとここですか」 「昼過ぎまで」 「そうですか」 「花宮は?」 「案内と受付と、花の生徒会の手伝いです。あと、雑部で掲示案内の確認も」 「忙しいな」 「働き者なので」 「知ってる」 依央は目を伏せそうになった。 でも、伏せなかった。 「……そういうの、今日の寒さに効きますね」 「そう?」 「効きます」 燈真は少しだけ笑った。 その笑いで、依央は少し息ができた。 (よかった。笑った。でも、さっきの顔、残ってる。お父さんに似てきたね。将来が楽しみ。そう言われる久我くん、なんか、いつもより遠かった) **** 仕事は続いた。 依央は案内カードを配り、健康相談の列を整理し、困っている年配の人に声をかけた。花の生徒会の後輩たちは、少し離れたテントで子ども向けのスタンプカードを配っている。 黒瀬は地域清掃の方で大きな声を出していた。 「落ち葉、こっちでーす!」 篠宮はチラシの在庫を数えている。 「黒瀬、袋を分けて。燃えるごみと資源」 「篠宮、地域でも冷静!」 鷹宮は商店街の看板を見上げて、案内板の位置を直していた。 「花宮、こっちの方が見やすいと思う」 「ありがとう。鷹宮くん、案内板まで絵になる方向に置くね」 「見やすさも大事だから」 それぞれが、いつものまま少し違う場所で動いている。 依央も動いた。 ちゃんと笑った。 ちゃんと案内した。 けれど、視線は何度も燈真の方へ行った。 燈真は資料を運び、声をかけられ、短く返事をし、時々テントの奥で医療機器の入った箱を持ち上げている。無駄がない。大人たちの間でも浮かない。 何でもできる。 そう見える。 なのに、進路調査票は白かった。 (何で白いんだろ。こんなに似合ってるのに。いや、似合ってるから白いのか。勝手に似合うって言われるから、決めづらいのか。……俺、考えすぎ? でも気になる。めちゃくちゃ気になる) **** 昼過ぎ、地域ボランティアは一段落した。 花の生徒会は片づけに入り、雑部は旧校舎側に貼っていた地域ボランティア案内の撤去を任された。依央、燈真、晴臣は商店街から学校へ戻り、冷えた旧校舎の掲示板前に並んだ。 晴臣は画鋲入れを持ちながら、ため息をつく。 「さっきまで商店街だったのに、旧校舎寒すぎ」 「作業が終わったら部室で温かいもの飲もう」 「ココア?」 「紙コップがまだ残ってる」 「おでんは?」 「今日はなし」 「夢が遠い」 燈真は古い案内紙を外しながら言った。 「ここ、角が浮いてる」 「掲示板?」 「うん。金具がゆるい」 依央は回収した紙をそろえながら頷いた。 「雑部の備品箱に小さいドライバーあります。あとで直しましょう」 晴臣が依央を見る。 「依央、雑部に慣れてきたな」 「晴臣も画鋲を落とさず戻せるようになって」 「低い!」 三人で掲示物を回収し、通常の案内紙へ戻していく。 作業は手慣れてきた。 依央が紙を押さえ、燈真が金具を直し、晴臣が画鋲とクリップを数える。旧校舎の掲示板は少し古いが、こうして手を入れると、ちゃんと働いている顔になる。 地域ボランティアの熱が、旧校舎の冬へ戻っていく。 作業を終えた頃には、指先が冷えていた。 晴臣は両手に息を吹きかける。 「ココア、今すぐ」 「はいはい」 部室へ戻ると、電子レンジの横に紙コップが積まれていた。 まだ専用のカップはない。紙コップは少し頼りないが、今日の冷えた手には十分ありがたい。 晴臣は紙コップを並べ、ココアの粉を入れながら言った。 「雑部、地域貢献した」 「旧校舎の掲示板を戻しただけだけど」 「それも貢献」 燈真が電子レンジにカップを入れる。 「温める」 「頼む」 晴臣はスマホを見て、顔を明るくした。 「千紘さん、片づけ終わったって」 「よかったね」 「ちょっと返信してくる。あと、花の生徒会の人に確認することある」 「行ってらっしゃい」 晴臣は廊下へ出ていった。 扉が閉まる。 部室には、依央と燈真が残った。 古い電子レンジの音が、低く響いている。 今日は、一日ずっと人がいた。 商店街の人、地域の大人、花の生徒会、クラスメイト、晴臣。 それなのに、今この部室に二人だけになると、昼間の健康相談テントの光景がまた戻ってくる。 お父さんに似てきた。 将来が楽しみ。 温かい言葉。 でも、燈真の横顔は薄かった。 依央は、回収した掲示紙を机の端でそろえながら言った。 「久我くん」 「何」 「今日、久我医院のテントで」 燈真は電子レンジの表示を見ている。 「うん」 「大人の人たち、みんな久我くんのこと知ってるんですね」 「小さい頃からいるから」 「そうですよね」 「うん」 電子レンジが止まる。 燈真はカップを取り出し、ひとつを依央へ渡した。 熱い。 依央は両手で紙コップを包んだ。 「温かかったです」 「ココア?」 「それもですけど」 依央は少しだけ言葉を選んだ。 「久我くんに向けられてる言葉。たぶん、全部、悪いものじゃない」 燈真は黙っていた。 「でも、重なると、ちょっと息が浅くなりそうだなって思いました」 言ってしまった。 深すぎるかもしれない。 でも、今日見たことを何も言わないのも違う気がした。 燈真は紙コップを見たまま、少しだけ息を吐いた。 「決めてないのに」 依央は顔を上げた。 「はい」 「決まってるみたいに言われるの、少し疲れる」 短い。 けれど、その一言で十分だった。 依央は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。 「……そうですよね」 「うん」 「今日、俺」 「うん」 「うまく言えないですけど、久我くんが少し歩きたくなるの、分かる気がしました」 燈真がこちらを見る。 依央は紙コップを持ったまま、少しだけ笑った。 「だから、駅前、寄りませんか」 燈真の目が、少しだけ動いた。 「花宮から?」 「はい」 自分で言って、心臓が少し跳ねる。 (待って。俺から誘った。駅前。用事でも作業でもなく。いや、気分転換。そう、気分転換。……でも久我くんと歩きたいのも本当。やっぱり好きなんだな、これ) 「久我くんが歩きたいなら、ですけど」 燈真はしばらく依央を見て、それから短く言った。 「行く」 その返事に、依央の胸が温かくなる。 **** 晴臣に片づけを伝え、二人は駅前へ向かった。 白鷺坂駅前の商店街は、昼間より少し落ち着いていた。地域ボランティアのテントは片づけられ、店先には冬市のポスターが残っている。イルミの準備は少し進んでいて、夕方に向けてライトの線が張られていた。 依央と燈真は並んで歩いた。 学校の廊下ではない。 雑部の作業でもない。 地域ボランティアの延長と言えば言える。 でも、もう腕章は外している。 「久我くん」 「何」 「これ、何ですか」 「駅前」 「場所の説明ではなく」 燈真は少しだけ考えた。 「寄り道」 依央はその言葉を聞いて、少し笑った。 「寄り道ですか」 「うん」 「じゃあ、ちゃんと寄り道しましょう」 「ちゃんと?」 「はい。何となく歩くだけだと、俺の姫力がもったいないので」 「姫力」 「駅前を楽しませる係です」 燈真は少しだけ笑った。 「頼む」 その笑顔で、依央は胸の奥がふっと軽くなった。 (よし。笑った。俺、今、ちょっと役に立てた? 久我くんが少しでも楽なら、それでいい。……やっぱり好きなんだよな、これ) **** 二人は屋台の前で立ち止まった。 ホットレモン、甘酒、焼きマシュマロ、紙袋に入った小さな焼き菓子。瑞城市の名産を大きく押し出すわけではなく、冬の駅前にある普通の温かさだった。 依央はホットレモンを選んだ。 燈真はカフェオレ。 「久我くん、カフェオレなんですね」 「何となく」 「俺、久我くんはブラックの顔してると思ってました」 「顔」 「地味で苦い顔」 「ひどい」 「褒めてます」 「どこが」 依央は笑った。 燈真も少し笑う。 カップを持つ手が温かい。 昼間、健康相談のテントで見た燈真の横顔とは少し違う。今は、隣で同じ温かいものを持って、駅前の冬市を見ている。 それだけなのに、胸が少し騒ぐ。 (これ、寄り道じゃん。気分転換とか、駅前とか、名前はいろいろあるけど、俺は楽しい。久我くんと歩くの、楽しい。やば。もうごまかす語彙が足りない) 小さな雑貨店の前で、依央は足を止めた。 手袋、マフラー、キーホルダー、冬用のポーチ。店先の籠に、星形の小さなチャームがいくつか並んでいた。 依央は一瞬、自分の鞄についた薄い青の星を思い出した。 テーマパークで買ったもの。 燈真の鞄にも、銀色の星がついている。 今日も、ちゃんと。 依央がちらっと燈真の鞄を見ると、燈真も気づいた。 「星?」 「管理状態の確認です」 「まだ言う」 「ちゃんとついてますね」 「うん」 「大事そうに」 言ってしまった。 燈真は少しだけ依央を見る。 「大事だし」 依央は完全に固まった。 (は? 今、何て? 大事だし? あっさり? 待って、駅前でそれ言う? 俺の心臓、冬市の屋台より熱いんですが♡) 「……そうですか」 「うん」 「俺のも、大事です」 言ったあとで、依央は自分の声に驚いた。 燈真がこちらを見る。 依央はホットレモンのカップを握った。 「雑部用なので」 「うん」 「管理品なので」 「うん」 「……でも、大事です」 燈真の目元が少しだけやわらかくなった。 「そっか」 それだけ。 でも、依央には十分だった。 二人はしばらく駅前を歩いた。 大きなことは話さなかった。 学校説明会のこと。 電子レンジのココアのこと。 晴臣がおでんに本気なこと。 千紘が資料をまとめるのがうまいこと。 篠宮が地域でも段取りを気にしていたこと。 黒瀬が落ち葉の袋を持って走りかけて怒られていたこと。 鷹宮が案内板の位置まで綺麗にしたこと。 そういう、軽い話ばかり。 それでよかった。 今は、燈真の家の話を掘り返す時間ではない。 依央はただ、燈真が隣で少し楽そうにしていることを確認したかった。 駅前の小さなイルミが、試しに点灯された。 まだ全部ではない。 一列だけ、淡く光る。 通りを歩いていた人たちが「お」と小さく声を上げた。 依央も立ち止まった。 「光りましたね」 「うん」 「まだ途中なのに、ちょっときれい」 「うん」 燈真はイルミではなく、依央を見ていた。 依央はそれに気づいて、視線を戻せなくなった。 「……何ですか」 「今日」 「はい」 「来てよかった」 依央の胸が、ゆっくり熱くなった。 「駅前に?」 「うん」 「それは、俺の姫力のおかげですか」 「それも」 「それも?」 「花宮がいたから」 依央は、ホットレモンのカップを両手で包んだ。 熱い。 でも、それ以上に顔が熱い。 (だめだ。やっぱり好きなんだ。久我くんが少し楽そうに笑うだけで、こんなに嬉しい。俺がいたからって言われて、こんなに全部持っていかれる。終わった。終わってない。たぶん、進んでる) 「久我くん」 「何」 「俺、聞くくらいはできます」 燈真は黙った。 依央はイルミを見たまま続けた。 「今日みたいなこととか。進路とか、家のこととか。うまく返せるか分からないですけど」 言葉を選ぶ。 軽すぎないように。 重すぎないように。 「聞くくらいは、できます」 燈真はしばらく何も言わなかった。 その沈黙は、嫌ではなかった。 冬の商店街の音が、遠くで小さく聞こえる。ホットレモンの香りが湯気と一緒に上がる。イルミの淡い光が、燈真の横顔に少しだけ当たっていた。 「うん」 燈真が言った。 「そのうち」 短い。 でも、依央はそれで十分だった。 無理に聞き出すつもりはない。 今は、燈真がそれを受け取っただけでいい。 「そのうちでいいです」 依央は笑った。 「でも、歩きたい時は呼んでください」 燈真が依央を見る。 「花宮も来る?」 「行きます」 即答だった。 また早かった。 依央は自分で少し照れた。 「……たぶん」 「今、即答した」 「聞かなかったことにしてください」 「無理」 「久我くん」 燈真は少し笑った。 その顔を見て、依央も笑った。 地域の大人たちの期待も、白い進路調査票も、燈真の言葉にならない何かも、何も消えてはいない。 けれど、今日の駅前で、燈真は少し笑った。 依央は、それだけでよかった。 いや。 それだけで、かなり嬉しかった。 (好きだから、支えたい。そんなきれいな言葉じゃなくてもいい。久我くんが少しでも息できるなら、俺は隣にいたい。……やば。俺、かなり本気じゃん) **** 帰り道、二人は駅前から学校へ戻る道をゆっくり歩いた。 手は繋いでいない。 でも、肩が近い。 燈真の手が、カフェオレのカップを持っている。 依央の手は、ホットレモンで温かい。 それでも、ふとした時に、燈真の手の方を見てしまう。 燈真が気づいた。 「手?」 依央は息を止めた。 「違います」 「違う?」 「カフェオレの残量確認です」 「そう」 「はい」 燈真はカップを少し持ち上げた。 「まだある」 「報告ありがとうございます」 二人とも少し笑った。 笑いながら、依央は思った。 言葉にしにくいものは、まだある。 燈真にも。 自分にも。 でも、今日みたいに歩けるなら。 少しずつ、聞ける日が来る気がした。 瑞城市の冬の夕方は、あっという間に暗くなる。 それでも、駅前の淡い光が、帰り道を少しだけ明るくしていた。

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