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第41話 冬の模試と、氷上の地味男

冬の模試が返ってきた日の二年三組は、朝から温度差がひどかった。 黒瀬陸斗は答案用紙を見て、机に突っ伏している。 「冬ってさ」 「何」 依央が返すと、黒瀬は顔だけを上げた。 「寒いし、模試あるし、冬期講習の案内くるし、何なの」 「季節への文句が広い」 「クリスマスだけでいいだろ、冬」 篠宮怜央が前の席で答案をそろえながら言う。 「模試は冬だけではない」 「篠宮、そういう正しさ、今いらない」 「事実だから」 「事実が冷たい!」 鷹宮蓮は窓際で答案をしまいながら、依央を見る。 「花宮、真剣な顔も似合うね」 「模試返却で褒めるのやめて」 「緊張してる顔も綺麗だったから」 「鷹宮くん、答案より見てる場所がおかしい」 「花宮が目に入っただけだよ」 「それが強い」 教室に少し笑いが起きる。 依央も笑った。 ただ、笑いながらも、視線は後ろへ行く。 燈真は、いつもの顔で答案を見ていた。 騒がない。 沈まない。 隠さない。 ただ、紙を一枚ずつ見て、必要なところだけ確認している。 それが逆に気になる。 (久我くん、点数見ても顔が静かすぎる。俺なら黒瀬くんまではいかなくても、多少は動く。なのに、久我くんは答案用紙相手にも低燃費。何。答案まで地味に処理するな) 「花宮」 燈真が顔を上げた。 依央は反射で背筋を伸ばした。 「はい」 「見てた?」 「見てました」 もう否定する気力がなかった。 燈真が少しだけ目を細める。 「答案?」 「……答案も」 「も」 「久我くんも」 言った。 言ってから、依央は机の下で手を握った。 (出た。正直すぎ。俺、冬休み明けから防御力どうした。答案も久我くんも見てましたって何。好きな人の答案用紙にときめく日が来るとは思わなかった。俺、大丈夫? 大丈夫じゃない♡) 燈真は少しだけ笑った。 「そっか」 それだけで終わる。 それだけなのに、依央の心臓には十分だった。 **** 昼休み、旧校舎の掲示板には冬期講習と自習室開放の案内が貼られた。 花の生徒会から旧校舎側の掲示確認を頼まれたので、依央は晴臣と燈真と一緒に掲示板の前へ向かった。古い掲示板は金具が少しゆるく、紙の角が浮きやすい。 晴臣は掲示紙を押さえながら、深いため息をついた。 「冬休みまで勉強に侵食されてる」 「晴臣、冬休みはもう終わってる」 「心はまだ冬休み」 「戻ってきて」 燈真は掲示板の端を見て、短く言う。 「ここ、止め直す」 「お願いします」 依央が画鋲の小箱を渡すと、燈真の指が一瞬だけ近づいた。 ほんの少し。 作業中。 それだけ。 (はい、指。掲示板。画鋲。冬期講習。何この組み合わせ。普通なら何も起きないのに、俺の中では全部久我くんにつながる。重症♡) 晴臣が依央を見た。 「何か顔赤くない?」 「寒いから」 「廊下、そんなに寒くないけど」 「晴臣、紙を押さえて」 「はいはい」 冬期講習の案内を貼り終えると、篠宮が通りかかった。 掲示を見て、すぐに名前の一覧を確認する。 「久我、上位クラスだな」 晴臣が目を丸くした。 「え、久我?」 鷹宮も少し離れたところから掲示を見た。 「静かに目立つね」 燈真は少しだけ眉を寄せた。 「目立ちたくない」 篠宮は冷静に言う。 「点数と解き方を見れば妥当だと思う。特に数学」 「篠宮が認めた!」 晴臣の声が大きい。 「久我、すごいじゃん!」 燈真は少し困ったような顔をした。 けれど、その場からすぐに離れたりはしない。 掲示された自分の名前を、ちゃんと見ている。 依央は、その横顔を見た。 (本気、出したんだ。少しって言うんだろうけど。久我くんが、自分でそこに立ってる。何それ。かっこいい。点数だけじゃない。名前が出てる場所にちゃんといるのが、かっこいい) その気持ちは、もうごまかせなかった。 **** 放課後の雑部室では、晴臣が小さな封筒を掲げていた。 「というわけで、これ」 依央は机の上の画鋲を小箱に戻しながら顔を上げた。 「何?」 「千紘さんから」 「白石先輩?」 「駅前の特設リンクの招待券。商店街の人からもらったんだって。四枚」 依央の目が少し開いた。 「スケート?」 「そう。冬っぽいだろ」 「急にイベント感」 「模試と冬期講習で心が乾いたから、滑ろう」 「言い方」 燈真が招待券を見る。 「駅前の広場?」 「そう。夜までやってるって」 晴臣はにやっとした。 「千紘さんも少しなら来られる。受験前だから長居はしないけど」 「晴臣が一番行きたい顔してる」 「否定はしない」 依央は招待券を一枚手に取った。 スケート。 白いリンク。 冬の駅前。 燈真。 依央の中で、何かが勝手に点灯した。 「俺、けっこう滑れますよ」 晴臣が反応する。 「え、依央、スケートできるの?」 「できる。冬の姫は氷上でも映えるので」 「言い切った」 依央は少しだけ得意になった。 スケートは小さい頃に何度かやったことがある。運動神経が特別いいわけではないが、姿勢と見せ方には自信がある。白いリンク、冬服、手袋、髪の揺れ。これは勝てる。 (氷上の姫、勝ちました。今度こそ勝ちました。久我くん、これは俺の舞台。見ててください。綺麗に滑る俺を) 燈真が招待券を見ながら言う。 「じゃあ、行くか」 「はい」 「花宮、教えて」 依央は笑顔で固まった。 「俺が?」 「うん」 「久我くん、滑れないんですか」 「少し」 少し。 また少し。 でも今日は、依央にとって都合のいい「少し」に聞こえた。 「いいですよ。教えてあげます」 晴臣がにやにやする。 「出た、教える姫」 「晴臣は黙って」 燈真は少しだけ笑った。 **** 駅前の特設リンクは、週末の夕方に思ったよりにぎわっていた。 商店街の広場に白いリンクが作られ、周囲には小さな屋台とベンチが並んでいる。山の方から冷たい風が来るが、リンクの照明と屋台の湯気のおかげで、寒さまで少し楽しい。 晴臣は千紘と並んで、レンタル靴を受け取っていた。 「千紘さん、寒くない?」 「大丈夫。晴臣くんこそ、転ばないでね」 「転ばない。たぶん」 「たぶんなんだ」 千紘が笑う。 晴臣はその笑顔だけで、すでに滑る前から幸せそうだった。 依央は靴ひもを結びながら、燈真を見た。 燈真も静かに靴ひもを結んでいる。 手元が落ち着いている。 「久我くん」 「何」 「転びそうなら言ってください」 「うん」 「俺が支えますので」 「うん」 「教える側なので」 「うん」 全部受け取るな。 依央は内心で勝ち誇りながら、リンクへ立った。 氷の上に乗ると、少し足元が滑る。 けれど、すぐ感覚が戻った。 体をまっすぐにして、軽く滑る。思った通り、悪くない。むしろ、かなり絵になる。 晴臣が遠くから声を上げた。 「依央、普通にうまい!」 「普通じゃなくて、けっこううまいです」 「自分で言うな!」 千紘も拍手してくれる。 「花宮くん、きれい」 「ありがとうございます」 依央は少しだけ得意になった。 (はい、勝ち。氷上の姫、完全に成立。これは見られる。久我くん、見て。見てる?) 燈真を見た。 次の瞬間、依央は止まった。 燈真が、普通に滑っていた。 少し、ではない。 かなり、うまい。 派手な動きはしない。けれど、重心が安定していて、滑り出しも止まり方も無駄がない。初心者の遠慮も、久しぶりのぎこちなさもない。 すっと依央の隣まで来る。 「花宮」 「……はい」 「教えて」 「どの口で?」 言ってしまった。 燈真が少しだけ笑う。 「だめ?」 「だめというか、久我くん、滑れますよね」 「少し」 「その少し、信用できない」 晴臣が遠くで叫んだ。 「久我、うまっ!」 千紘も驚いたように目を細める。 「久我くん、きれいに滑るね」 燈真は少しだけ肩をすくめた。 依央は燈真を見上げた。 リンクの光が、燈真の横顔に当たっている。 冬の空気の中で、静かに滑る燈真。 なにあれ。 かっこいい。 (なにあれ、かっこいい。氷上の地味男、意味分かんない。俺、勝つ予定だったんですが。勝利宣言から十秒で敗北。久我くん、スケートでも静かに殴ってくるな♡) 「花宮」 「何ですか」 「顔」 「氷の反射です」 「反射」 「はい」 燈真は少しだけ笑った。 その顔を見て、依央は足元を乱した。 「わ」 思ったより滑った。 体が後ろへ流れ、腕が泳ぐ。 転ぶ。 そう思った瞬間、燈真の腕が腰を支えた。 強すぎない。 でも、絶対に落とさない力。 依央は反射で燈真のコートを掴んだ。 いや、掴んだというより、抱きついた。 顔が近い。 近すぎる。 リンクの音も、晴臣の声も、周囲のざわめきも、全部遠くなる。 「平気?」 燈真の声が、すぐそばに落ちる。 依央の心臓は平気ではなかった。 (支え方がイケメンすぎる♡ 無理♡ これ、転んでないのに終わった♡ 俺、今、久我くんに抱きついた? 抱きついたよね? 氷上の姫、敗北どころか自爆してる) 「……平気です」 「ほんと?」 「平気じゃないです」 言ってしまった。 燈真の目が少しだけ動く。 依央は慌てて離れた。 「今のは氷が悪いです」 「氷」 「あと、久我くんが思ったよりうまいのが悪い」 「俺?」 「そうです。勝つ予定が崩れました」 燈真は小さく笑った。 「勝つ予定だったんだ」 「はい」 「惜しかったな」 「全然惜しくない負け方しました」 晴臣が滑りながら近づいてきた。 「お前ら、何やってんの」 「転びかけただけ」 依央が即答する。 晴臣はにやにやした。 「へえ。転びかけると抱きつくんだ」 「晴臣」 「千紘さん、見た?」 千紘は少し離れたところで、にこにこしている。 「見てないことにするね」 「優しさが痛い!」 依央は耳まで熱くなった。 燈真は、ほんの少しだけ視線をそらしていた。 その仕草を依央は見逃さなかった。 (待って。久我くんもちょっと照れてる? これ、俺だけじゃない? 引き分け? いや、俺の心臓は完全に負けた。でも久我くんも少し揺れてるなら、試合としては成立してる) その後、依央は何度か滑った。 最初の勝利宣言は完全に消えた。 けれど、滑ること自体は楽しかった。 燈真は依央の速度に合わせてくれる。晴臣は千紘にいいところを見せようとして少し危なっかしく、千紘はそれを笑いながら支えている。 依央は、燈真の隣で滑った。 手は繋がない。 でも、必要な時にすぐ届く距離。 それが妙に心地よかった。 休憩用のベンチに戻る頃には、頬が冷たいのか熱いのか分からなくなっていた。 晴臣と千紘は屋台の温かい飲み物を買いに行った。 依央と燈真だけが、リンク横のベンチに残る。 依央は靴のつま先を見た。 「久我くん、本当、何でもできますね」 「何でもじゃない」 「今日の滑りでそれ言います?」 「花宮みたいにはできない」 依央は顔を上げた。 「俺?」 「うん」 「俺、転びかけましたけど」 「その前」 燈真はリンクの方を見た。 「人に見られる場所で、ちゃんと立てるところ」 依央は黙った。 「中学生の前でも、文化祭でも、今日も」 燈真の声は短い。 でも、まっすぐだった。 「花宮は、人の真ん中で笑える」 依央は、何も言えなくなった。 氷の上で勝てなかったことより、さっき抱きついたことより、その言葉の方がずっと深く入ってきた。 「……それ、褒めてます?」 「うん」 「氷の上で言わないでください」 「なんで」 「転びます」 燈真が少し笑った。 依央も笑った。 けれど、胸の奥は静かに揺れていた。 自分が燈真の強さを見ているだけではない。 燈真も、自分の強さを見ている。 姫として見られること。 人の真ん中に立つこと。 笑うこと。 それを、ちゃんと強さとして見てくれている。 (俺、この人が好きだ。たぶん、とか、かも、とかじゃない。好き。久我くんの隣にいたい。並んでいたい) 言葉は内心で落ちた。 思ったより静かだった。 騒ぐかと思った。 もっと派手に崩れるかと思った。 でも、その言葉は、冷たいリンクの上に降りる雪みたいに、すっと自分の中へ落ちた。 依央は、燈真の横顔を見た。 「久我くん」 「何」 「もう少し滑ります?」 「うん」 「じゃあ、今度は俺の速度に合わせてください」 「さっきも合わせてた」 「知ってます」 燈真が少しだけ目を細める。 依央は立ち上がり、手袋を直した。 リンクへ戻る。 燈真が隣に来る。 今度は、依央から少しだけ手を出した。 転ばないため。 それもある。 でも、それだけではない。 燈真は何も聞かず、その手を取った。 冷たい空気の中で、手袋越しに温度が伝わる。 依央は前を向いた。 二人でゆっくり滑り出す。 燈真は速すぎない。 依央も、引っ張られるだけではない。 同じ方向へ、同じ速度で進む。 その感覚が、ひどく心地よかった。 (隣にいるって、こういう感じなのかも) リンクの光が足元を流れる。 冬の夜が、広場の外に少しずつ濃くなっていく。 晴臣の声と、千紘の笑い声が遠くに聞こえる。 依央は燈真の手を離さなかった。 今は、口に出さない。 けれど、自分の中でひとつだけ、はっきりした。 久我燈真が好きだ。 そして、この人の隣にいたい。 氷の上でも、冬の教室でも、白い予定の前でも。 依央は少しだけ手に力を込めた。 燈真も、同じくらいの力で返してきた。 それだけで、胸の奥が温かくなった。

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