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第42話 仲直り未満、ラブレターと雪予報

雪予報が出た日の白鷺坂高校は、朝から少しだけ落ち着きがなかった。 瑞城市の冬は冷える。けれど、雪が降るとなると、教室の空気は別になる。窓際の男子たちは何度も空を見て、黒板の端には誰かが小さく雪だるまを描いていた。 黒瀬陸斗は、朝から完全に浮かれている。 「今日、降るかな」 「降っても少しでしょ」 依央が返すと、黒瀬は机に両手をついた。 「少しでも雪は雪だろ!」 「熱量が小学生」 「花宮、雪合戦しようぜ」 「しない」 「即答!」 篠宮怜央が教科書を出しながら、淡々と言った。 「予報では夕方以降。積もる可能性は低い」 「篠宮、雪への夢を削るな!」 「予報を言っただけ」 鷹宮蓮は窓の外を見て、少し笑った。 「雪の日の花宮は、絵になりそうだね」 「鷹宮くん、前も似たようなこと言ってた」 「何度見ても思う気がする」 「雪より褒めの方が降ってくる」 近くの男子たちが笑う。 依央もいつものように笑った。 冬服、白い息、雪予報。 男子校の姫としては、悪くない条件だ。 ただ、今日の依央の意識は、窓の外よりも後ろの席へ向いていた。 久我燈真。 冬の模試の日、氷上で手を取った人。 隣で滑って、同じ速度で進んで、依央の中にある言葉をひとつはっきりさせた人。 好きだ。 もう、内心ではそれを認めてしまっている。 だからこそ、朝の教室で燈真がペンを落としただけでも、依央の心臓は少し余計に動く。 (はい、久我くんの手元。今日も静かにかっこいい。ペン拾っただけ。ペン拾いイケメンって何。俺の脳、そろそろ雪で冷やした方がいい♡) 燈真が落としたペンを拾い、机の上へ置く。 それだけ。 本当にそれだけ。 なのに、依央は見てしまう。 見ていることに、もう驚かない自分もいる。 (好きなんだから見るに決まってるじゃん。……うわ、今、普通に認めた。朝から強い。俺、だいぶ終わってる♡) **** 一時間目が終わったあと、依央は花の生徒会の後輩に呼ばれて、廊下へ出た。 「花宮先輩、今日の掲示確認、放課後で大丈夫ですか?」 「うん、大丈夫。雪が降る前に終わらせよう」 「ありがとうございます」 後輩は嬉しそうに頭を下げた。 依央が軽く手を振って教室へ戻ろうとした時、廊下の少し先で、一年生らしい男子が燈真の前に立っているのが見えた。 依央の足が止まる。 後輩は両手で白い封筒を持っていた。 少し赤い顔で、燈真を見上げている。 「久我先輩、これ」 燈真は無言で封筒を見る。 「お願いします」 後輩はそれだけ言って、小走りで廊下の角へ消えた。 燈真は封筒を手にしたまま、少しだけ立っていた。 そして、それを鞄にしまった。 依央は、廊下の真ん中で固まった。 (え) 白い封筒。 赤い顔。 お願いします。 燈真が鞄にしまう。 (え、何。久我くんに? ラブレター? 後輩から? 連絡事項かも。白い封筒で? 赤い顔で? お願いしますって? 無理。普通にラブレターの顔してた。誰。どこの一年。久我くんに? は?) 胸の奥が、変に熱くなる。 雪予報の日なのに、顔だけ妙に熱い。 これはかなり嫌な熱だ。 (落ち着け。俺は姫。ラブレターくらい慣れてる。俺宛には散々来る。久我くんに来ても普通。普通じゃない。全然普通じゃない) 燈真がこちらを見た。 依央は反射で笑顔を作った。 完璧。 たぶん。 「久我くん」 「花宮」 「今の、何ですか」 声は、思ったより軽く出た。 自分でも驚くくらい、普通だった。 燈真は一瞬だけ鞄を見る。 「あとで」 「あとで?」 「うん」 「今じゃなくて?」 「うん」 依央の笑顔が少しだけ固まった。 (はぐらかした。久我くんが。何? 見せたくない? 俺に? 見せる必要はないけど、何でそんな顔するの。やばい、心がめちゃくちゃ狭い。体育館より狭い。雪降る前に俺の器が凍ってる) 「そうですか」 依央は笑った。 「分かりました」 何も分かっていない。 けれど、それ以上聞けなかった。 燈真の鞄の中にある白い封筒が、授業中も、昼休みも、頭から離れなかった。 自分の机に座っていても、ノートを取っていても、黒瀬が雪の話で騒いでいても、篠宮が淡々と予報を訂正していても、鷹宮が「花宮、今日は少し静かだね」と言っても、依央の視線は燈真の鞄に行く。 よくない。 かなり、よくない。 でも見る。 (何で鞄を見てるんだ俺。久我くん本人じゃなくて鞄。白い封筒が入った鞄。鞄に嫉妬してる? 終わった) 昼休み、黒瀬が弁当を食べながら言った。 「花宮、今日なんか顔が変」 依央は箸を止めた。 「変じゃない」 「いや、変」 篠宮が横から冷静に見た。 「いつもより反応が遅い」 「篠宮くんまで」 鷹宮が少し心配そうに首を傾げる。 「体調悪い?」 「大丈夫。雪予報で少し考え事」 「雪で?」 黒瀬が目を輝かせた。 「雪合戦の作戦?」 「ちがう」 「ちがうのか」 依央は笑って返した。 笑顔は出る。 でも、いつもより少しだけ薄いのが自分でも分かる。 燈真は、そんな依央を何度か見ていた。 それがまた腹立たしい。 見ているなら、言えばいい。 何かあるなら、言えばいい。 でも自分も、聞きたいくせに聞けない。 (俺、何に怒ってるの。久我くんがラブレターをもらったかもしれないこと? それを見せられなかったこと? それとも、俺がこんなに嫉妬してること? 全部じゃん。終わった。雪どころじゃない) **** 放課後、雑部の仕事は旧校舎一階から始まった。 花の生徒会から頼まれた掲示確認と、旧校舎の落とし物箱の整理。雪予報で早めに帰る生徒が多いので、昇降口へ戻すものがないか見てほしいという話だった。 依央は落とし物箱を机の上に置き、晴臣は持ち主不明の手袋を並べている。 「手袋、多くない?」 「冬だから」 「片方だけのやつ、悲しすぎる」 「晴臣、感情移入しないで分類して」 「はいはい。黒、紺、グレー……男子校、色が地味」 燈真は掲示板の前で、雪の日の下校注意の紙を貼り直していた。 白い封筒の入った鞄は、部室の椅子の横に置かれている。 依央は見た。 また見た。 晴臣が即座に気づく。 「依央」 「何」 「落とし物箱じゃなくて、久我の鞄見てる」 「見てません」 「今日のその言い方は弱い」 「晴臣」 「はい、手袋に戻ります」 燈真もこちらを見た。 依央は落とし物箱の中から、名前の書かれたマフラーを取り出す。 「これは一年の下駄箱に戻すやつですね」 「うん」 燈真が短く返す。 その声が普通だから、余計に腹立たしい。 いや、腹立たしいというより。 寂しい。 悔しい。 恥ずかしい。 全部混ざっている。 作業を終え、三人は雑部室へ戻った。 旧校舎の廊下は冷えていて、窓の外は灰色に曇っている。雪はまだ降っていない。けれど、空気の中に白くなりそうな湿り気があった。 部室では、晴臣が電子レンジの前でマドレーヌの袋を開けていた。 「今日、千紘さんからもらった。差し入れ」 依央は椅子に座った。 「白石先輩の差し入れ、ありがたい」 「だろ。温めたらうまそう」 「やりすぎると崩れるよ」 「久我、時間見て」 燈真は電子レンジの横へ行く。 その鞄が、机の下に置かれる。 白い封筒は、そこにある。 依央は、もう我慢できなかった。 「久我くん」 「何」 「朝の封筒、何ですか」 晴臣が電子レンジのボタンを押しかけて止まる。 「封筒?」 燈真は依央を見る。 「あとで言うつもりだった」 「ずっとあとでですね」 「うん」 「俺には言えないやつですか」 声が少し揺れた。 自分でも分かった。 燈真の顔がわずかに変わる。 「そういうのじゃない」 「じゃあ何ですか」 「花宮」 「はい」 「怒ってる?」 依央は黙った。 怒っている。 たぶん。 でも、怒っているだけではない。 もっと恥ずかしくて、もっと嫌で、もっとぐちゃぐちゃしている。 「……怒ってません」 晴臣が小さく言った。 「いや、怒ってる声」 「晴臣はマドレーヌ見てて」 「はい」 燈真は鞄から白い封筒を出した。 開いていない。 封は閉じたまま。 依央の胸が、少しだけ止まる。 「これ」 「はい」 「花宮宛」 部室の空気が、完全に止まった。 依央は燈真を見た。 「……俺?」 「うん」 「久我くん宛じゃなくて?」 「花宮宛」 「何で久我くんが持ってるんですか」 「渡してほしいって頼まれた」 燈真は封筒を机に置いた。 「直接渡す勇気がなかったらしい」 依央は、白い封筒を見た。 自分宛。 つまり、朝の後輩は依央に渡したかった。 燈真ではない。 今までの嫉妬は、全部、勘違い。 「……そうですか」 声が消えそうになった。 晴臣はゆっくりと電子レンジから手を離した。 「待って」 依央は嫌な予感がした。 「晴臣、待たなくていい」 「いや待つ。久我は依央宛の手紙を預かって、依央はそれを久我宛だと思って嫉妬してたってこと?」 「嫉妬してません」 即答した。 燈真が静かにこちらを見る。 「してた」 依央は息を止めた。 「してません」 「ずっと鞄見てた」 「見てません」 「見てた」 晴臣が口元を押さえた。 「依央、詰んでる」 「晴臣」 「で、久我は何ですぐ渡さなかったんだよ」 燈真は少しだけ黙った。 依央も、それが気になった。 「久我くん、何でですか」 燈真は白い封筒を見た。 「渡すつもりだった」 「はい」 「でも」 少しだけ、言葉が止まる。 燈真がこんなふうに言葉を止めるのは、珍しい。 「……少し、面白くなかった」 依央は固まった。 晴臣も固まった。 電子レンジの上のマドレーヌだけが、何も知らない顔をしている。 「面白くなかった」 依央が繰り返す。 燈真は視線を少しだけそらした。 「花宮宛だったし」 その一言で、依央の顔は一気に熱くなった。 (待って。久我くん、それ、何。嫉妬? 嫉妬だよね? 俺宛の手紙を見て、面白くなかった? 久我くんが? やばい。嬉しい。今、嬉しいって思った。好きなんだから嬉しいに決まってる。無理♡) 晴臣が両手で顔を覆った。 「お前ら」 「晴臣」 「お前らさ」 「晴臣、黙って」 「無理。久我は依央宛の手紙に嫉妬して渡せなくて、依央は久我宛だと思って嫉妬してたってことだろ?」 「まとめないで」 「同じ場所でぐるぐるしてるじゃん!」 依央は机に額をつけそうになった。 「やめて」 晴臣は止まらない。 「しかも二人とも顔赤いし」 「赤くない」 「赤い」 「晴臣」 「俺、千紘さん呼ぶぞ」 「呼ばないで!」 燈真が小さく咳をした。 それも少しだけ照れているように見えて、依央はさらにどうしていいか分からなくなる。 「久我くん」 「うん」 「中身、読んでないですよね」 「読んでない」 「そこは、分かってます」 「うん」 「でも、次からはすぐ渡してください」 「うん」 「あと、勝手に面白くなくならないでください」 燈真は依央を見た。 「それは無理かも」 依央は完全に黙った。 「無理」 「花宮宛だったし」 二回目。 依央は白い封筒を持ったまま、顔をそらした。 (やばい。何それ。俺宛だったし、で二回刺された。久我くんの嫉妬、静かすぎて逆に強い。好き。もう隠すのきつい。好きだから嫉妬するし、嫉妬されると嬉しい。どれだけ好きなんだよ、俺♡) 晴臣が電子レンジにマドレーヌを入れた。 「はい、温める。お前ら、甘いもの食べて落ち着け」 「晴臣が一番落ち着いてない」 「俺は今、目の前の甘さに胃もたれしてる」 「マドレーヌのせいにして」 「マドレーヌは悪くない」 電子レンジが低く鳴り始める。 外では、窓に小さな白い粒が当たり始めていた。 雪だ。 本当に、少しだけ降ってきた。 晴臣が窓を見た。 「降ってる」 依央も顔を上げた。 灰色の空から、小さな雪が落ちてくる。積もるほどではない。けれど、旧校舎の窓の外を、確かに白いものが通っている。 電子レンジが鳴る。 晴臣がマドレーヌを取り出し、紙皿に置いた。 「はい。嫉妬記念マドレーヌ」 「名前をつけないで」 「じゃあ、仲直り未満マドレーヌ」 依央は反論しかけて、やめた。 仲直り。 そもそも、はっきり言い合ったというほどでもない。 でも、朝からずっと胸の中でぐるぐるしていたものは、少しだけほどけた。 燈真が紙コップにココアを入れ、電子レンジへ入れる。 古い機械の音が、部室に響く。 晴臣はマドレーヌを食べながら、まだ笑っていた。 「依央、手紙読むの?」 依央は封筒を見た。 「あとで」 「久我の前では?」 「読みません」 燈真は何も言わない。 でも、ほんの少しだけほっとした顔に見えた。 依央はそれを見て、また胸が熱くなる。 「……久我くん」 「何」 「顔に出てます」 「花宮も」 「俺は今日ずっと出てました」 「うん」 「そこ認めないでください」 晴臣が笑う。 「もう隠せてないんだから諦めろ」 「晴臣」 「はいはい」 ココアが温まる。 燈真が紙コップを依央へ渡した。 「熱い」 「分かりました」 依央は受け取る。 指先に温度が移る。 窓の外では雪がちらついている。 白い封筒は、机の上にある。 その封筒が誰からなのか、何が書いてあるのか、まだ分からない。 でも、今の依央にとって一番大きいのは、そこではなかった。 燈真が面白くなかったと言ったこと。 自分が、燈真宛だと思って嫉妬したこと。 二人とも、同じようにぐるぐるしていたこと。 それが、恥ずかしくて、かなり嬉しい。 「久我くん」 「うん」 「俺、今日、ちょっと嫌な感じでした」 燈真はココアを持ったまま、依央を見る。 「俺も」 「久我くんも?」 「うん」 「じゃあ、おあいこですね」 燈真は少しだけ笑った。 「うん」 晴臣がすぐ横で言った。 「おあいこの内容が濃い」 「晴臣、マドレーヌ食べて」 「食べてる」 依央はココアを一口飲んだ。 甘い。 熱い。 雪の日の部室に、ちょうどいい味だった。 好きだ。 もう、その言葉は内心で迷子にならない。 嫉妬した理由も、嬉しかった理由も、全部そこに戻る。 けれど、まだ口にはしない。 今日はまだ、顔を赤くして、マドレーヌを食べて、晴臣に笑われるくらいで十分だった。 燈真が隣で、静かにココアを飲んでいる。 依央はその横顔をちらっと見た。 燈真もこちらを見た。 目が合う。 二人とも、すぐにはそらさなかった。 晴臣がぼそっと言った。 「俺、席外した方がいい?」 依央と燈真は同時に言った。 「いなくていい」 「いなくていい」 晴臣が吹き出した。 「声そろった!」 依央は顔を覆った。 燈真は少しだけ笑っている。 雪はまだ、窓の外を静かに落ちている。 積もるかどうかは分からない。 でも、今日のこの白い午後のことは、たぶんしばらく残る。 嫉妬して、勘違いして、赤くなって。 それでも、少し近づいた。 依央はマドレーヌを一口かじりながら、心の中で小さくつぶやいた。 (好きだから嫉妬した。はい、認めた。もう戻れない。……でも、戻りたくないかも) その言葉は、ココアの甘さと一緒に、ゆっくり胸の奥へ落ちていった。

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