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第3話:野ざらしを心に風のしむ身かな②
「えっ?——うん、もちろんだよ!」
芭蕉はすぐさま曽良を中へ招き入れると、
「今、お茶を出すから!あっ、もう夜遅いから白湯のほうがいいかな?」
と少しはしゃいだ様子で尋ねた。
「……すまない、これから江戸を発つところなんだ。
長居するつもりはないからどちらも遠慮する。
ただ、外で話すことが憚られるから、少しだけ中で話をさせて欲しい」
「?……分かった」
芭蕉は何が何だか分からぬまま、先程まで自分が清書作業に勤しんでいた居間に案内した。
「いつ、江戸に戻って来た?」
「つい一昨日のことだよ!
思ったより長旅になってしまったけれど、
お陰で沢山句を詠むことができたよ」
「句?……ああ、そういえば俳句を作っていたっけな。
とにかく、芭蕉が無事に戻って来れて良かった」
「ありがとう!……ね、ねえ。
僕の家がここだということ、どうして知っているの?」
「町の人に聞いて回った。
『この辺りで子ども達に学問を教えている松尾芭蕉という若い男を知らないか』と。
そうしたら、何人かの子どもがここだと教えてくれた」
「な、なるほど……」
きっとその子たちは僕の教え子だろうな。
芭蕉はそう考えた後、すぐにハッと思い出した。
「——さっき、江戸を発つって言っていたけれど……?」
すると曽良は、少し間を置いた後、呟くように告げた。
「……俺も旅をすることになった」
「えっ!曽良が?!」
芭蕉は驚きつつ尋ねた。
「でも、曽良は御上お抱えの忍でしょう?
旅に出るとなると日数もかかるだろうし、
よく長期休暇を許してもらえたねえ」
「……だから今日は、芭蕉に別れを言いにきた」
「え……?どういうこと?」
芭蕉はきょとんとした表情で首を傾げた。
「——あっ、暫く江戸を離れるから、その挨拶ってこと?
それなら積もる話もあるし、今夜はここに泊まっていきなよ!
暫く会えなくなるなら、記憶が鮮明なうちに旅の思い出話も曽良に聞かせたいし!」
「暫く、じゃない。
たぶん……これが最期の別れになる。
芭蕉に気を遣わせるかもしれないとも思ったが、
昔馴染に挨拶をしてから出たいという気持ちが優ってしまった」
曽良は真剣な声で、淡々とそう言った。
「……どうして旅に出るのが最期の別れになるの?」
芭蕉は意味が理解できず、一方で
そこはかとない不安が溢れて来た。
「旅は、戻って来るから旅と言うんでしょう?
もし遠いところへ行って、そこにずっと住むということなら
いつか僕が曽良のところへ訪ねて行くから。
……だから、今生の別れかのようなことは言わないで欲しい……」
芭蕉が震える声で言うと、曽良は少し迷いを見せた後、ぽつぽつと話し始めた。
「俺の旅の目的は、みちのくに潜む倒幕派——御上の敵を始末すること。
御上の方で、敵の拠点や人物はある程度調べをつけていて
俺は倒幕派の志士を見つけ次第殺すようにと命じられた。
——土地勘のない場所で、一度に何人で向かってくるか予測できない敵と
一人で戦うのは圧倒的に不利な話だ。
旅の道中、俺が命を落とさず江戸に戻れるとは到底考えられない」
「な……何、それ……」
曽良の話を聞いた芭蕉は、顔面を蒼白し唇を震わせた。
「そんな……何人いるかも分からない敵を
曽良一人で討伐せよ、と——御上はそう命じたの?」
「忍組頭から命じられたから直々にではないけれど、御上のお達しには変わりないよ。
いずれにしても命令は絶対だけど」
「そんなのおかしいよ……っ!」
芭蕉は思わず立ち上がった。
「だって曽良は、伊賀の里でも一番に腕の立つ忍だったじゃないか!
里の皆からも一目置かれていて……。
そんな曽良が死んでしまうかもしれない任務なんて
幕府にとっても損失になるじゃないか!」
「……」
「せめて……せめて、お供を付けるべきじゃない?!
いくら曽良が優秀な忍だからと言って、組頭は無茶を言い過ぎだよ!」
「——芭蕉」
興奮して血が上っている芭蕉を宥めるように
曽良は芭蕉の肩に手を置いた。
「いいんだよ。元々忍の命は主君に消費されるためにあるものだから。
それに、俺は芭蕉が思うほど優秀な忍でもない」
「違う……っ!どっちも間違ってる!
曽良の命をどう使うかは、曽良の権利だよ!
それなのに、こんなのって無いよ……!」
「……芭蕉」
曽良は口元に笑みを浮かべると、困ったように頭を掻いた。
「……まあ、こうなるよな……。
芭蕉は優しいからさ、絶対止めるだろうって分かっていたのに——すまなかった。
俺が芭蕉の顔を見たいなんて思って訪ねたのが間違いだったよ」
「それは間違いじゃないよ!
曽良がここへ来てくれたお陰で、僕は自分のすべきことがわかったから!」
「芭蕉の……すべきこと?」
曽良がきょとんとすると、芭蕉は勢いよく立ち上がって宣言した。
「僕も……、僕もその旅について行く!」
「——いやいや!」
曽良は暫くぽかんと口を開けていたが、やがて慌てて首を横に振った。
「駄目だ!今の話を聞いていたろう?
この旅がいかに危険で果てしないものかってこと——」
「僕は曽良の旅を手伝う!!」
「や、手伝うったって……。
芭蕉は人を殺したことはおろか、誰かに怪我を負わせたことだってないだろ?」
「父上との修行で、何度か父上に拳を当てたことがあるよ!」
「これは修行じゃない」
「分かってるよ!」
芭蕉は大きな声で叫ぶと、肩で息をしながら続けた。
「……っ、僕は人より気が弱くて、体力も無くて——
長の息子なのに人の足を引っ張ることしかできず、
挙句の果てに里を抜け出してきた謀反人だ……。
だけど僕にだって、できることはあるよ。
刀や手裏剣の扱いは下手だったけど、
例えば人に学問を教えることは得意だし……。
忍としてではなく、もっと別の形で曽良の役に立てることがあると思うんだ」
「芭蕉……」
曽良が戸惑っていると、芭蕉はハッとしたように文机に近寄り、
書きかけだった俳句集を手に取った。
「——これだ」
「え?」
芭蕉は、呆然とする曽良に向き直ると、
俳句集を両手で広げて見せた。
「曽良の旅で、僕が役に立てることを見つけた。
僕に忍としての心得はないけれど、 僕には一つだけ『武器』があったよ」
「まさか……、俳句……?」
曽良がゆっくりと尋ねると、芭蕉は顔に笑みを浮かべながら頷いた。
「旅の道中、敵に付けられたり誰かに怪しまれることがあれば、僕が俳句を詠むんだ。
僕が俳人として曽良と一緒に旅することで
敵を欺き、曽良の正体を隠してみせるよ!」
「っ……何言ってるんだ……」
曽良は呆気に取られた表情で芭蕉を見上げた。
「俳人の振りをして旅をする……?」
「うん!僕と曽良は俳句を詠むために各地を歩いて回る旅人ということにしよう。
道中、実際に名所に立ち寄ったりしてさ」
「……旅と言っても、全く楽しくもなければ、命の保障すらないものだぞ」
「分かってるよ!だけど——
曽良を一人で行かせて、それこそ今生の別れになってしまったら、僕は一生後悔すると思う」
「後悔だけで済む方がいいだろ。
こんな若さで人生を終えるよりよっぽど良い」
「若いのは曽良もでしょう?!
それに……今僕が生きていられるのも、
間者から何度も護ってくれた曽良の存在があってこそ。
……僕にも、曽良の為に命を張らせて欲しいんだ」
芭蕉は、尚も困惑している曽良をどうにか説得しようと
「そ、それにほら!」
と言って懐を弄り出した。
「一応忍の端くれとして、いつでもクナイや手裏剣を携帯しているんだ!!」
そう言って芭蕉が誇らしげに取り出した手裏剣は、
酷く錆びて所々刃こぼれを起こしており、
もう何年も使うことなく入れっぱなしにしているのが一眼でわかる有様だった。
だが、そんなことには気付かず芭蕉は
「ね?!いざとなったら僕だって戦えるんだから!」
と声高に言った。
それを見た曽良は、暫く黙りこくっていたものの
やがて小さく噴き出し、肩を揺らし始めた。
「……ふっ、ははっ。
芭蕉が俺をどうにか説得したい気持ちはよく伝わって来たよ」
「!じゃあ——僕のことも連れて行ってくれる?!」
芭蕉が問いかけると、曽良は少し間を置いたあと、こう告げた。
「芭蕉が俺の頼みを三つ聞いてくれるなら……一緒に来てもいいよ」
「うん!一緒に行っていいのなら——ううん曽良の頼みなら何でも聞くよ!!」
芭蕉が目を輝かせると、曽良は眉を下げて笑みを浮かべた。
「一つ目は、芭蕉が旅をしていて辛くなったら、遠慮なく江戸に帰って欲しい」
「分かった。そんなことにはならないと思うけど」
「二つ目は、敵に遭遇しても、芭蕉は戦わないで欲しい」
「う……。足手まといにならないように頑張るから、僕も——」
「駄目。足手まといだとは思ってないけど、俺の都合に極力巻き込みたくないから。
聞き入れてくれないなら——」
「わ、分かった!僕は絶対戦わない!!
……三つ目は……?」
「三つ目は……、俺が致命傷を負って戦えなくなったら、
迷わず俺を置いて逃げて欲しい」
「……っ!」
芭蕉はごくりと生唾を飲んだ。
曽良を置いて、逃げる——?
「そんなことできるわけ——」
そう言いかけて、口をつぐんだ。
僕がここで「それは聞き入れられない」と答えたら、
曽良は僕をお供させてはくれないだろう。
小狡い考えだけど、ここは嘘でも「分かった」と返すべきだろう。
もしも道中で曽良が怪我をしたら、きっと置いて行くなんてことはできないけれど……
「分かった。約束するよ」
「本当だな?」
「うん。約束するから——曽良と一緒に行かせて」
「……」
曽良が無言で頷いたのを見た芭蕉は、ぱあっと顔を輝かせた。
芭蕉のペースに乗せられているような気がしてならない曽良だったが、
楽しそうに旅の支度を始めた芭蕉を眺めているうちに
自然と笑みが溢れて来た。
「——子ども達に向けての書き置きは……これでよし」
翌朝早く、旅の支度を整えた芭蕉は
『伊勢参りから戻ったばかりだけど、今度はみちのくを旅してきます。
長らく空けてしまうことをお許しください』
と伝言を記した紙を戸口に貼り付けた。
「本当に良かったのか?
子ども達に学問を教えるのを生き甲斐にしていたんだろ?」
戸締りを済ませ、荷物を背負った芭蕉に対して曽良が問いかけた。
「生き甲斐は探せば他にも見つかると思う。
現に俳句を始めてから、生きる楽しみが増えたし……。
でも曽良の命は一つだけだから」
芭蕉がにこっと微笑むと、曽良は
「俺の命か……」
と呟いた。
「『忍には個などない。
忍はすべからく、主君に命を捧げる為だけに存在する』
里で長——芭蕉のお父上に言われた。
里の者達は皆、同じことを言い聞かされて育ったから、
俺も俺自身の命が唯一無二だと考えたことはなかったな」
すると芭蕉は、
「それって変な話だよね」
と返した。
「変?」
「だってさ、忍には『個』が無いなら
僕が長の子として特別扱いされていたことも、後を継ぐよう言われたのも筋が通らないよね。
『個』を尊重しないというのが父上の考えなら
後を継ぐのは僕じゃない他の忍だって良かった訳でしょ?」
「いや、それとこれとは別じゃないか?
『個』を尊重しないから、芭蕉のお父上は
芭蕉の意志を尊重することなく、機械的に血筋に後を継がせようとしたんだよ」
「ああ、そっか……」
芭蕉はしょんぼりと肩を落とした。
「僕はやっぱり、父上には『忍の里長の後継』としての扱いしか受けていなかったんだなあ。
確かに父上、修行の相談についてしか口を聞いてくれなかったっけ……。
僕が蛙を捕まえた話をした時なんて、
虫を見るような目で僕を睨み返して来たし……」
「ま、まあそう落ち込むな!
芭蕉はもう新しい人生を歩んでいるんだから。
あの人は今の芭蕉にとっては赤の他人なんだからさ」
落ち込む芭蕉を励まそうと曽良が言うと、芭蕉はハッとして顔を上げた。
「……そうだね!僕は『松尾芭蕉』。
俳句を趣味として生きる、ただの平民だ!」
そう言うと芭蕉は、背負ったばかりの荷物を再び降ろし
中から紙と筆を引っ張り出した。
『草の戸も住み替はる代ぞ雛の家』
「——よし!」
「何を書いているんだ?」
芭蕉が筆を置いたのを見て、曽良が芭蕉の手元を覗き込んだ。
「草の戸……?なんだ、早速俳句を詠んでいたのか」
「うん!この旅での、記念すべき最初の一句だ!」
「はは、まだ家の戸を出たばかりなのに気が早いなあ……」
この旅の目的が倒幕派志士の抹殺だということを分かっているのだろうか……。
曽良は苦笑いを浮かべながら芭蕉を見た。
「ちなみにどういう意味なんだ?」
曽良が問いかけると、芭蕉は目をキラキラと輝かせながら答えた。
「ええと——今の我が家は僕が住み慣らした草庵だけれども、
僕がここに戻らず他の誰かが越してくるようなことがあれば
こんなみすぼらしい家でも雛人形を飾ったりして華やかになることもあるのかな……。
って、この家を眺めながら想像してみたんだ」
「……芭蕉はここに帰って来れるよ」
句の意味を聞いた曽良は呟くように言った。
「ここはずっと松尾芭蕉の家だ」
「……ふふ」
芭蕉は場の空気を濁すように笑ってみせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
芭蕉と曽良は揃って歩き出すと、まずは草加を目指して進み始めた。
空が白み始め、深川の町に人通りが増えて行く。
その中で二人が浮くことのないよう、
旅人らしい装いで、誰に聞かれても差し障りのない世間話を時折交える芭蕉達だったが
千住辺りまで歩いたところで声を掛けられた。
「あれ?もしかして——先生?!」
芭蕉がはっとして振り返ると、
そこには少し前まで自分が学問を教えていた子どもが立っていた。
「!孫太郎。久しぶりだね……」
「先生!そんな大荷物を抱えてどこへ行くのですか?」
芭蕉の元教え子——孫太郎は興味深げに芭蕉と曽良のもとへ近寄って来た。
「……これから暫く旅をして回るんだ」
「旅?じゃあ、しばらく松尾塾はお休みされるのですか?」
松尾塾——寺子屋ではないが、芭蕉に学問を教わる子ども達は
親しみを込めてそう呼んでいる。
「うん。松尾塾は休業するよ。
子ども達には申し訳ないけれど……」
「へえ。確かに先生に暫く会えないのは皆寂しがるかもしれませんね」
「孫太郎はどうしてここに?こんな朝早く」
「俺は飛脚の仕事を継いだのですが、
これから隣町まで文を届ける途中なんです!」
「!……そっか、家業を継いだんだね」
本当は、僕のように家業を継ぐ未来しか選べない子ども達のために
学を付けてもらい、自由に仕事を選べるようになってほしいと思って始めた松尾塾だったけれど……
そうか、成績優秀だったこの子も
ご実家の後を継ぐことになったのか——
芭蕉がこっそり落ち込んでいると、
孫太郎は顔を輝かせながらこう口にした。
「俺、塾に通っていた頃は飛脚屋なんて継ぎたくないって思ってたんですけど……。
今はこの仕事、とても楽しんでやってます!
それもこれも、先生から学問を教わったお陰なんです!」
「——え?」
芭蕉が驚いて顔を上げると、孫太郎は続けて言った。
「勘定の仕方や世の中の流通についてを学んだので
距離や地理による道中の負荷を考慮した
適正な価格で仕事を請け負えるようになりましたし……、
お届け先でも、その土地の歴史や名所、特産に因んだ世間話をするとお客さんに気に入って頂けることがあって、
また次もうちに頼みたいって言ってもらえるんです。
親父の代より格段に稼げるようになったし、
初めて行く土地の人とも自分の持っている知識で会話をすることができるので
そういった人との交流も楽しくて仕方がないんです!
——学問を身につけたお陰で、この仕事の楽しさを知ることができました!」
嬉しそうに語る孫太郎を見ているうちに
温かい気持ちが湧き上がって来た芭蕉は
優しく孫太郎の頭を撫でてやった。
「孫太郎は偉いね。
自分の仕事に誇りを持って働いているのが伝わって来たよ。
孫太郎が楽しく働けているのだとしたら、
それは孫太郎が意欲的に学問に取り組み、仕事に活かそうと努力している証だよ」
「先生……」
孫太郎はじんわりと瞳に涙を浮かべると、
「あの、先生。少し時間を頂けますか?」
と尋ねて来た。
「え?ええと……」
芭蕉がちらりと曽良を見ると、曽良は
「俺のことは気にするな」
と視線で返した。
「うん、少しなら大丈夫だよ」
「ほんとですか!じゃあ、少しだけここで待っていてください!!」
孫太郎はそう言うと、あっという間にどこかへ走り去ってしまった。
そして暫くすると、何人もの同世代の子どもたちを連れて元の道に戻って来た。
その顔はどれも見覚えのあるものばかり。
「先生!孫太郎から先生が旅に出るって聞いて来ました!」
「暫く江戸には戻らないんですよね?」
「怪我しないようにしてくださいね!」
芭蕉がかつて教えていた子ども達はすっかり背丈が伸び、
それぞれにしっかりとした面構えに成長していた。
そんな彼らを引き連れて来た孫太郎は、
「せっかくだから皆で先生の見送りがしたいと思って、近所の仲間達に声をかけてきました!」
と言い、歯を見せて笑った。
「みんな……ありがとう」
芭蕉も彼らの気遣いに思わず目元を熱くすると、
ふと思い出したように荷物を下ろし、紙と筆を取り出した。
『行く春や鳥啼き魚の目は泪』
「——先生、何を書いたんですか?」
子どもの一人が芭蕉の手元を覗き込むと、芭蕉は微笑みながら
紙に書いた文字を彼らに向けて見せた。
「この句を、君たち皆に贈るよ」
「えっ!?」
子ども達はわあっと芭蕉の周りに集まると、そこに書いてある文字を一生懸命読解しようとした。
「春に、鳥と魚に……涙?」
「先生、これはどういう意味?」
「春行き——は、今この季節が春を過ぎようとしていることと
心地良いこの場所を過ぎ去ろうとしていることを惜しむ気持ちを掛けた言葉。
鳥が悲しそうに鳴いて、魚も水の中で涙を浮かべているというのは
僕の元を巣立った君たちが、僕との別れを惜しんでくれていて、
そんな君たちを見て僕もまた涙が溢れてきそうだという思いを生き物に喩えた句だよ」
芭蕉が句を書いた紙を孫太郎に渡すと、
「旅から戻ったら、今度は俳句のことを教えてあげるよ」
と言って微笑んだ。
「先生……絶対、元気に戻って来てくださいね!」
孫太郎と仲間たちは、皆勢いよく手を振り
芭蕉と曽良の旅立ちを見送った。
——彼らの姿がすっかり見えなくなった頃、
曽良は芭蕉に話しかけた。
「子ども達に好かれているんだな、芭蕉は」
「……皆良い子達なんだ。
僕のような者の話すことでも、いつも真剣に耳を傾けてくれて
帰る時には礼儀正しく挨拶を返してくれて……。
伊勢参りへの旅の資金も出してくれたりして、本当に生徒達に恵まれていたと思う」
すると曽良は、
「子ども達が良い子なのも事実だが、芭蕉の人徳あってこそのものじゃないか」
と言った。
「え?!いやいや、人徳なんて僕にはないよ」
芭蕉はブンブンと首を横に振ってみせた。
「里を捨てて、でっちあげの素性を騙って暮らしてきた男だし……
里にいた頃だって、忍としての体術を全く習得できず、仲間達の笑い者だった。
——曽良はいつも皆の輪の中心にいる存在で、僕は日陰者。
さっきの子達は僕より歳下で幼いから
自分より歳上の僕が話すことが崇高なものに聞こえているだけで、
もう少し大人になったら、僕の話すことが浅くてありきたりなことばかりだってことを理解するようになる。
……皆の心が僕から離れて行く前に
仕事に就き、松尾塾を巣立ってくれるのがありがたいとすら思っているんだ。
こんなことを考えている僕に人徳なんてあるはずがないよ」
「……」
曽良は、どうして芭蕉がこうも卑屈なのかと不思議に思えてならなかった。
芭蕉に学があり、それを人に教えるだけの技量があることや
子ども達に慕われていることは
芭蕉の努力や人柄あってこそのものだと思えたが、
本人はそうは思っていないらしい。
励ましの言葉をかけるべきだとも考えたが、
自分が里を出てからの芭蕉のこれまでを知らない曽良は
芭蕉がなぜ卑屈になってしまったのかを量る術がなく、下手に声を掛けることができなかった。
……これから一緒に旅を続けるうちに、
俺が知らない芭蕉を知っていくことになるだろう。
そう思った曽良は、ただ黙って苦笑いを浮かべた。
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