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第7話:桃雪と桃翠
二人が黒羽の地に入ると、芭蕉は「そういえば——」と思い出したように言った。
「この辺りには、僕のかつての教え子が住んでいるはずなんだ」
「黒羽に?」
曽良は少し驚いたように言った。
江戸を経ってから何日も歩いて辿り着いたこの地から
江戸に住んでいた芭蕉の元まで通って来ていたのだろうか?と疑問に感じたからである。
「うん。桃翠と言ってね、歳の離れた兄がいるんだけど
その兄が仕事で江戸に暫く滞在していた頃、
兄の手伝いの合間に僕のところへ通って来ていたんだよ。
他の教え子達から町中で僕の塾の話を耳にしたらしくてね」
「へえ。じゃあ今ここに住んでいると言うのは……」
「うん、兄の江戸での仕事が終わったから
一緒に地元であるここ黒羽に帰って行ったんだ。
短い間だったけど、勉強熱心な良い子だったのを覚えているよ」
「そうか」
芭蕉たちがそう話しながら、今夜泊まる宿を探して歩いていると——
「あれ?——もしかして芭蕉殿じゃありませんか?!」
遠くから声を掛けられ、芭蕉が振り返ると
そこには一人の青年が立っていた。
「?ええと……そうですが、あなたは……?」
「私ですよ!桃翠の兄の、桃雪です!」
青年——桃雪が近寄って来ると、芭蕉はハッとしたように顔を綻ばせた。
「ああ!桃雪殿でしたか!
確か桃翠を迎えに何度か我が家に顔を見せていた——」
「そうです、覚えていて下さって嬉しいです!」
桃雪は嬉しそうに言うと、
「このような場所にどうしたのですか?」
と尋ねてきた。
「奥州の方へ旅をしている道中でね。
この辺りにも名所が沢山あると聞いて歩いていたところなんだ」
芭蕉が答えると、桃雪は笑顔を浮かべてこう言った。
「ならば、ぜひ我が家で一度足を休まれていってください!
桃翠も芭蕉殿に会いたがるでしょうし、
桃翠と私でこの辺りの名所にご案内しますよ!」
「ええと……」
芭蕉がちらりと曽良を見ると、曽良は
「好きにしたらいい」
と視線で投げかけてきた。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお邪魔させてもらおうかな」
「本当ですか、それは良かった!」
桃雪は笑顔で二人を自宅へと案内してくれた。
「!?——先生っ!芭蕉先生だァッ!!」
桃雪の家に着くと、畑で農作業をしていた桃翠が芭蕉の姿に気付き飛んできた。
「どうして?!なぜ芭蕉先生が黒羽にいるの?!」
「実は松尾塾は暫く休みにして、旅をしているんだ」
「旅?何の旅でここへ?!」
「ええと、俳句を詠む旅——だよ」
「俳句って何?!」
「え、ええとね……」
桃雪は、元気よく芭蕉に詰め寄る桃翠の頭を撫でると
「こら、芭蕉殿が困ってるじゃないか」
と言って嗜めた。
「すみません。
桃翠はこっちに戻った後も、芭蕉先生は元気だろうかとずっと言っていたもので……
久しぶりに先生に会えたものだから大はしゃぎしてしまったようです」
「いやいや、そこまで僕のことを思ってくれていたのが嬉しいよ」
「では、私は仕事に戻らなければならないので
芭蕉殿方のもてなしは桃翠に任せますね。
私も夜になったら帰ってきますので。
——桃翠、お二人にお茶の用意を頼むよ」
「うん!!」
桃雪に頼まれた桃翠は、元気よく頷くと
芭蕉たちに家の中へ入るよう促した。
芭蕉と曽良が客間に腰を下ろしひと息ついたところで、
桃翠がそわそわとした様子で話しかけてきた。
「先生っ、俳句の旅をしてるって言ってたよね?
俳句って何?僕、塾で習ったっけ?」
「俳句というのはね——」
芭蕉が俳句のあらましを教えると、桃翠は
「へえーっ!」
と興味深げに目を輝かせた。
「この旅でどんな俳句を詠んだの?
先生が詠んだ句が見たい!」
「あはは……僕も素人だから、そんな大したものは詠めていないんだけどね……」
芭蕉は謙遜しながら、ここまでの道中で詠んだ俳句の紙を広げて見せた。
「ふうん……!僕、知識がないからあんまりよくわかんないけど、
俳句ってこんな風に詠むものなんだね!」
「はは。まだあまり多くの場所には立ち寄っていないから、詠んだ数は少ないけどね」
「じゃあ、ここ黒羽でいっぱい詠んでいってよ、先生!」
桃翠は立ち上がると、グッと腕まくりをして言った。
「兄上からもう聞いているかもだけど、
この辺りには名所が沢山あるんだ!
先生にこの地を気に入って欲しいし
黒羽について俳句を作って欲しいから、僕が案内してあげる!」
桃翠が目をキラキラと輝かせるのを見た芭蕉は、再び曽良の方を見た。
この旅はあくまで曽良が始めた曽良の目的を遂げるための旅。
桃翠の気持ちは嬉しいが、曽良の意見を一番大切にしたいと思っていた。
すると曽良は、ふっと笑みを溢した。
「芭蕉。俺に何かと遠慮しているみたいだけど、俺のことは気にしなくていい」
「でも……」
「芭蕉だって言ったじゃないか。
俺が旅する目的は、芭蕉が俳句を詠むことだと」
「……そう、だけど……」
「俺も、芭蕉がどんな句を思いつくか気になるんだ。
この旅は別に急ぐようなものじゃない。
ここで暫くのんびりするのも悪くないんじゃないか」
「やったー!」
それを隣で聞いていた桃翠は、嬉しそうに跳ね上がった。
「先生っ、好きなだけここに泊まって行ってね!!
大したもてなしはできないけど、先生を楽しませられるように頑張るから!」
「ありがとう」
芭蕉と曽良が礼を言うと、桃翠は二人が寝泊まりする為の部屋を掃除すると言ってその場を去って行った。
「——それにしても、豪華だな」
桃翠が居なくなった後、曽良はこそっと芭蕉に囁いた。
「豪華?」
「唯の農民が住むにしては、客間もあるし
俺達を泊めるための空き部屋もあるようだし……
こんな広い家に住んでいる者は珍しいんじゃないか?」
「確かに……僕も桃翠の家にお邪魔したのは初めてだけど、
松尾塾に通っていた頃から桃翠は良い生地の着物を身につけていたし
筆などの手習い道具も一目で高級なものと分かる具合だったし……。
兄の桃雪殿の稼ぎが余程良いのかもしれないね」
「かもな」
二人が話している間に、二人を泊める部屋の支度を済ませてきた桃翠が戻って来た。
「先生、部屋の支度ができたよ!」
「随分と早かったね」
「使用人に手伝ってもらったから、すぐに片付いたんだ!」
「使用人?!」
芭蕉は仰天して目を丸めた。
「こ、この家には使用人がいるの……?」
「うん!住み込みの者は三人いるよ!」
「……桃翠の家はお金持ちなんだね……」
芭蕉が驚きを交えた息を吐くと、桃翠はきょとんとした表情でこう言った。
「あれっ?僕話したことなかったっけ。
兄上は黒羽藩の城代家老なんだ」
「え?!」
芭蕉は思わず大きな声を出し、曽良もまたぎょっとしたように目を見開いた。
「兄上が沢山稼いでくれるお陰で、使用人もいっぱい雇うことができるんだ!」
「城代家老……なるほど……」
城代家老は藩主の留守中、藩主に代わって政務を執り行う重臣である。
藩主が居る時であっても右腕として重宝されるため、
桃雪のような若い青年がその重役に付いているということに芭蕉は驚いた。
「桃雪殿は凄い人なんだねえ」
芭蕉が言うと、桃翠はコクコクと頷いてみせた。
「うんっ!僕も大きくなったら兄上の手伝いができるように学問を頑張りたいんだ!
だからこっちの寺子屋にも真面目に通ってるし、
兄上が仕事で暫く江戸に赴任した時も
着いて行って先生の塾で勉強したし——だけど」
桃翠はそこで言葉を切り、しゅんとした表情で言った。
「だけど兄上は、『役人なんて楽しい仕事じゃない。それより足腰を鍛えて農作業に精を出せ』って言うんだ。
僕だって武家に産まれたんだから、鍬より筆を持って勉強したい!
兄上も武士として活躍してるのに、どうして僕には農業を勧めるのか分からない。
ちゃんと畑仕事はしてるけどさ……
僕だって……僕だって——」
桃翠がぐっと唇を引き結ぶ姿を見た芭蕉は、
何か言葉をかけてやらねばと思ったが
それより先に、黙って話を聞いていた曽良が口を開いた。
「桃雪殿は、自身が役人として働いている経験を基に
桃翠に農業を勧めているのだから、それが一番最善だろう」
「ええ?!」
桃翠はショックを受けたように言った。
「曽良殿も、兄上の肩を持つの?
僕では役人なんて務まらないと思ってるの?」
「そうじゃない。
桃雪殿はきっと、自身が役人の仕事で様々な苦労をしているから
弟の桃翠に同じ苦労をして欲しくないと思っているんだろう」
「……」
桃翠はつまらなそうに唇を尖らせた。
「芭蕉先生……、先生も僕は役人にならない方がいいと思う?」
突然自分に尋ねられた芭蕉は、どきりとしながらも答えた。
「そうだなあ……。
僕は役人の仕事をよく知らないから、何とも言えない部分はあるけれど……。
でも、なりたいものがあって、そのために努力するのは悪いことじゃない。
桃翠が一生懸命勉強したことは、たとえ役人にならなかったとしても、きっと様々な場面で役に立つと思うよ」
「僕が求める答えじゃないけど……
先生がそう言うなら——勉強はこれからも頑張る……」
暫くの沈黙の後、桃翠は顔を歪ませながらもそう答えた。
その日の夜遅く、桃雪が仕事から帰ってきた。
「すみません!折角おいで下さったというのに何のもてなしもできず……」
桃雪が二人に頭を下げると、芭蕉は
「いえいえ」
と慌てて頭を上げさせた。
「もてなしならば桃翠から充分にしてもらいました。
泊めていただけるだけでも幸いなことなのに、先程は豪勢な夕食まで頂いて……」
「そう言って頂けると私も幸いです」
桃雪は頭を上げると、台所の棚から一本の酒瓶を持ち出して言った。
「どうでしょう?黒羽の地で再会できた記念に一杯」
桃雪に勧められた芭蕉は、少し困ったように笑みを浮かべた。
「お気持ちはとてもありがたいのですが、
僕は下戸なので酒はあまり得意ではなくて——」
曽良もまた、同じように断りを入れた。
「すみません。俺は次の日に残りやすい質なので旅先では自重するようにしているんです」
「……そうですか。それは残念です」
桃雪は少し肩を落としながら酒瓶を戻すと、
代わりに別の酒瓶を持って来た。
「じゃ、恐縮ですが私だけ頂きますね」
そういいながら桃雪は自分の器に酒を注ぎ、
芭蕉と曽良には麦茶を注いで渡した。
「先程の瓶の酒は飲まないんですか?」
曽良が、ふとした様子で尋ねると、
「あれは客人をもてなす用なので」
と桃雪が答えた。
「私一人で飲む時は、安い酒で充分です」
そう言って器の酒をくいっと飲み干す桃雪を見ていた芭蕉は、不思議そうにその光景を眺めていた。
「……何か?」
見つめられていることに気づいた桃雪が問うと、芭蕉は慌てて口を開いた。
「いえ!その……桃翠から、桃雪殿は城代家老だとお聞きしたもので。
それだけの重臣ともなると、接待の場で酒を飲む機会も多いのではないかと思い……」
「外で散々飲んでいるであろう私が、家でも酒を飲む姿に違和感を持った、と?」
「っ、気を悪くされたらすみません。
ええと……はい、その通りです」
芭蕉が、若干バツの悪い顔で頷くと
桃雪はカラッと笑って言った。
「はは。接待で飲む酒は味がしないんです。
それがどんなに銘酒と謳われるものでも。
それに、『酒の疲れを癒してくれるのは酒だ』って言葉がありましてね」
「そうなんですか?」
「あ、その言葉を考えたのは私ですが」
桃雪は冗談を交えて言うと、
「特に江戸に居た頃、御上の居る席で飲んだ酒は全く味がしなかったなあ」
と言って再び器に酒を注いでいった。
「その若さで城代家老を勤めるのは、さぞ苦労も多いことでしょう」
曽良が言うと、桃雪は「それはもう」と言って笑った。
「主君と民が意見の食い違いで揉めることはしょっちゅうです。
そんな時、仲裁に入り折衷案を掲げて民を宥めるのも私の役目の一つですが
私が若いこともあってか、強気に出てくる民も多く……。
主君も民も気持ち良く過ごせる藩を造ることを目標としているはずなのに、
そのどちらとも衝突している日々です」
桃雪が下を向きながら笑みを浮かべると、
芭蕉はおずおずと尋ねた。
「……桃翠に、自分と同じ役人になることを勧めないのは
ご自分がお仕事で苦労なされているから——ですか?」
すると桃雪は、「まあそれもありますよ」と答えた後、少し間を置いて続けた。
「……でも、人と人との緩衝材になる役割なんて、城代家老じゃなくてもそんな仕事はごまんとあることでしょう。
私が桃翠に役人になることを勧めない一番の理由は——
自分の本意ではないことであっても、上の命令には逆らえないこと。
上が出した命令であれば、自分の意思を切り離して
それを遂行しなければならないしんどさですかね」
暫くの間、部屋に沈黙が広がった。
それから少しして、曽良がこう口にした。
「分かります。
俺は役人ではありませんが、あなたと同じような境遇にいるので。
その立場のしんどさが少しは理解できると思います」
曽良が言うと、桃雪はふっと笑みを浮かべた。
「私の気持ちを理解してくださるとは、あなたは優しい御方だ。
——今日はもうこの一杯でやめておきます。
このままだとあなた方に仕事の愚痴を延々と溢してしまいそうですし、
明日は桃翠があなた方に黒羽を案内するのだと張り切っているようですから」
その後、客人用の寝室に通された芭蕉は
曽良と二人きりになったところで言った。
「桃雪殿……、随分と仕事で苦労されている様子だったね」
「自分の弟に勧めないだけあるな」
——翌朝、芭蕉が目覚めた頃には
既に桃雪は仕事に出た後だった。
客間には、夕食に引き続き豪華な朝食が用意されており
朝の農作業を終えて戻って来た桃翠が
今日はどこへ案内するかの目録を張り切った様子で読み上げていった。
朝食を食べ終えた二人は、桃翠の案内で早速黒羽の観光名所を巡った。
鎌倉時代の武士達が弓の腕を鍛えるために使った練習場である犬追物の跡。
美女に化けて人を襲う九尾の狐を退治した場所と伝わる玉藻前の古墳。
平家物語にも登場する弓の名手・那須与一が加護を祈願したと言われる八幡宮神社——
そのどれもが物珍しく、歴史を感じさせるものばかりで
芭蕉は夢中になって観光地を巡ったが、
中でも心惹かれたのは修験光明寺という寺のお堂だった。
このお堂には役小角という、修験道の開祖が祀られている。
様々な山を登って修行を積み、神通力を得たという役小角に敬意を示し
旅人達はこの寺で拝んでいくのだという。
『夏山に足駄を拝む首途哉』
芭蕉は、これからの旅の道中健脚であることを願い、
山を登って修行した役小角にあやかりたい気持ちを句に込めた。
数日にわたり、桃翠の案内で黒羽の様々な名所を訪れた芭蕉と曽良。
最後に雲巌寺——鎌倉時代から続く由緒ある寺を見て回ると
ひと通りの名所を周り切り、いくつか俳句を詠めたことや
予想以上に長く桃翠の家に滞在してしまったことなどから
次の日の朝に黒羽を発つことを決めたのだった。
「そうですか。明日出立なさるのですね」
——出発前夜、桃翠が寝た後に仕事から戻ってきた桃雪は
名残惜しそうに二人を見て言った。
「明日の朝、私も桃翠と共にあなた方を見送りたいので
万一を考え、今宵は酒を飲むのを自重しておきましょう」
桃雪はそう言って二人に挨拶すると、静かに自室へと去って行った。
「思いのほか長く滞在したけれど、黒羽はとても良いところだったね」
寝室に移動し、布団を敷いた芭蕉が満足げに言った。
「そうだな」
「明日の出立に備えて、今日は早めに休もうかな……」
芭蕉はそう言って布団の中に潜り込んだ。
「あれ?曽良は寝ないの?」
芭蕉は、曽良が布団の上に座ったままじっとしているのを不思議そうに見つめた。
「少し考え事をしたい。
芭蕉は先に寝ていていいよ」
「……わかった。おやすみ……」
「おやすみ」
芭蕉がそれから暫くして寝息を立て始めた頃、
曽良も静かに布団の上に身体を横たえた。
——夜更け過ぎのことだった。
突然、近くから大きな物音が聞こえてきた芭蕉はパッと目を覚ました。
慌てて起き上がり、目を凝らして見ると
闇の中で二人の男が取っ組み合いになっている姿があった。
「えっ!?何事——」
「芭蕉、逃げろ!」
芭蕉が尋ねた直後、曽良の叫び声が聞こえてきた。
よく見ると、二人のうち一人は曽良であり、
もう一方の男は手に小刀のようなものを握り締めているのが目に入った。
「ぐっ、眠ったふりをしていたのですね!」
もう一方の男がそう口にすると、その声で全てを理解した芭蕉が目を見開いた。
「桃雪殿……!どうして——」
桃雪が刀を手にし、曽良がその手首を押さえて取っ組み合っている姿を見た芭蕉が狼狽えると、桃雪は苦しそうな声で言った。
「言ったじゃないですか。
私は藩主の命令には必ず従わなければならない立場だと」
「っ、藩主の命令で僕達を殺そうとしているのですか……?!」
芭蕉が言った時、互いに疲弊していた桃雪と曽良が一度距離を置いて離れた。
そして息を整えながら、桃雪は二人に向けて言った。
「……あなた達が日光で騒ぎを起こしたことは、藩主の耳に筒抜けでしたよ。
そのうちここ黒羽の地を通るだろうと予想した藩主は、
あなた達を見つけたら密かに殺すようにと
私たち家臣に命じたんです」
「私『たち』って……僕達の命を狙っているのは桃雪殿だけではないということ?
それに藩主の命令、って——」
「芭蕉、分かるだろ?」
桃雪の言葉に戸惑う芭蕉に対し、曽良が冷静な様子で言った。
「黒羽藩主は倒幕派であり、御上の敵だってことだ。
俺が日光で倒幕派志士たちを斬った情報や、黒羽に向けて歩いてきたことも
どうやらここの藩主は把握していたらしい。
——さしづめ、あの時取り逃した一人の志士が
各地の仲間達に俺たちのことを話したんだろう」
「……そんな……」
庄助を人質に取った倒幕派志士のリーダー格の男。
庄助ごと斬り殺そうとした曽良に対し、芭蕉が止めに入ったことで
リーダー格の男だけは命辛辛逃げていったことを思い出した彼は
顔からサッと血の気が引いていった。
あの時——僕が止めに入り、志士を一人逃したせいで
僕達の情報が倒幕派志士たちの耳に入ってしまったんだ……
「曽良……ごめ——」
「謝らなくていい!それより、この男を斬るから芭蕉は離れていろ!」
「っ!桃雪殿を殺すつもりなの?!」
「当たり前だ!この男も倒幕派志士なんだから」
曽良が忍者刀を構えると、芭蕉は一瞬で様々な感情が頭の中をよぎった。
ここで割って入ったら、また倒幕派の人間を逃し、曽良に迷惑をかけてしまう。
曽良が倒幕派志士を抹殺することに対して、僕は口を出さないと決めたのに——
芭蕉はそう思いつつも、明るく柔和な態度で自分達を迎え入れ、二週間近くもてなしてくれた桃雪が殺されるのを躊躇った。
「でも……曽良、桃雪殿は良い人だよ——」
「そう思うか?
俺たちがここへ来た最初の晩にこの男が注ごうとしていた酒——あれの中身を後から調べてみたら毒が入っていた」
「えっ!?」
「この男は、ここで出会った時から俺たちを殺すつもりで招き入れていた訳だ。
良い人間に見えるよう振る舞っていただけで、この男は俺たちを殺す機会をずっと伺っていたんだぞ!」
曽良はそう言うと、忍者刀を桃雪に向けて振りかざした。
芭蕉は思わず目を瞑ったが、間一髪のところで桃雪はその刀を受け止めた。
「……あなたには分からないでしょう」
桃雪は僅かに声を震わせながら言った。
「私には護らなければならないものが沢山あるんです。
主君である藩主、黒羽の領民の暮らし……。
領民が貧しさを感じ、不満を抱えて生きているのは幕府が悪政を強いたから。
現状を変える為には、力のある者達が力を結集して戦わねばならないのだと藩主は仰いました。
私だって人を殺すのは本意ではありませんが、
護るべきものの為に刀を取らなければならないのです——」
桃雪は刀を持つ手にぐっと力を込め、曽良の刀を押し返した。
「何よりも、弟が不自由なく暮らしていけるように。
家族の幸せのためにも、私は藩主の命令を遂行しなければならないのです!」
桃雪がそう言って曽良に刀を構え直した時——
「兄上!やめて!!」
部屋の外から叫び声が聞こえ、桃雪はぴたりと動きを止めた。
その一瞬の隙を突き、曽良は桃雪の背後に素早く回ると
彼の頸動脈に手刀を入れた。
桃雪はその瞬間、意識を失いふらりと倒れ込んだ。
「兄上!?」
桃雪が倒れるのを目にした桃翠は慌てて部屋の中に飛び込んできた。
「兄上!死んじゃ嫌だ……!」
「死んでない」
桃翠が涙目で桃雪に駆け寄った刹那、曽良が言った。
「気絶させただけだ」
「え……?」
芭蕉と桃翠が同時に声を漏らすと、
曽良は苛立った様子で頭を掻いた。
「……やりにくい。
どうしてこう、やりにくいんだ——」
曽良はぼそりと言うと、一人部屋の外へ出て行ってしまった。
「!待って、曽良——」
芭蕉は慌てて曽良に続いて部屋を出た。
「……ごめんなさい、曽良……」
——家の外まで歩いて来た後、芭蕉は曽良の後ろ姿に向かって頭を下げた。
「また、僕のせいで倒幕派志士を殺し損ねさせてしまって……」
すると曽良は、前を向いたままこう言った。
「……俺にはもう、護るべき家族がいない」
「あ……」
芭蕉が口元に手をやると、曽良はそっと後ろを振り返った。
「俺には失うものが何も無い。
一方で、あの男を殺せば桃翠が一生悲しむことになるだろう。
桃翠に恨まれることは構わないけれど
俺が抱えている喪失感を、まだ子どものあの子に背負わせるのは酷だろうとも思った。
だからやりにくいと感じた」
曽良はそう言ってため息をついた後、「けれども」と続けた。
「桃雪が目覚めた後はどうするか、だ。
桃雪は再び俺たちを殺そうとするだろうし、
そうなればこちらも応戦するほかない」
「……桃雪殿が目覚める前に、僕達が黒羽を去るのが一番じゃないかな……」
芭蕉が言うと、曽良は「そうだな」と頷いた。
暫くお世話になった家を、このような形で去ることになるのを芭蕉は無念がったが、
これ以上曽良の邪魔をしない為にも、そして桃雪と桃翠兄弟のためにも
それが最善の道であるように思えた。
出立を決めた二人が荷物を取りに戻るため家の中に入ると、
まだ気絶している桃雪の隣で桃翠が啜り泣いている姿があった。
芭蕉はそれを見て胸が痛み、思わず彼に声をかけた。
「……桃翠。君にも兄上にもとても良くしてもらったのに、ごめんよ……」
すると、桃翠は涙を拭って顔を上げた。
「ううん、先生……。
僕の兄上が悪いんだ、先生たちを殺そうとしたんだから。
でも——もっと悪いのは、兄上が思い詰めてしまうほど頑張らせてしまった僕のせいだ」
桃翠は桃雪の背中をさすりながら続けた。
「僕達の父上と母上は、昔に病で相次いで死んじゃったんだ。
武家だったけど、父上が居なくなった我が家の暮らしは一時期悲惨なものだったんだって。
だけど兄上が沢山勉強して、人に取り入る為に沢山無理もして、
黒羽藩の一家臣から城代家老にまで上り詰めた。
そこからは父上の生きていた頃よりももっと豪華な暮らしを送れるようになったんだ。
……兄上が僕の為に、身を削って働いてくれていることは分かっていた。
だから僕は、兄上以上に勉強して、兄上の代わりに城代家老を勤めて
兄上に早く楽をさせてあげたいって——
今までの恩を返したいって思っていたのに……」
桃翠は涙をぼろぼろ零しながら、芭蕉たちに頭を下げた。
「ごめんなさい。
兄上が先生達を殺そうとしていたなんてこと、僕は知らなかったんだ。
兄上が先生を家に招き入れたことが本当に嬉しくて——。
だけど兄上は、本当は優しい人なんだ。
二人のことを殺したいなんて、兄上の意思で考えるはずがない。
きっと藩主様が兄上にそう命じたからだと思う。
どうか、どうか兄上を許してください。
僕の大切な兄上を殺さないで——」
泣きじゃくりながら、床に額を擦り付ける桃翠。
見ていられなくなった芭蕉は、桃翠の身体を起こさせ、ぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫——僕達は桃雪殿を恨んでいないし、殺し合うことは望んでいない。
桃雪殿が目覚める前に、僕達はここを去るよ。
……僕の方こそ、桃翠を悲しませてしまってごめんね」
——それから芭蕉と曽良は、素早く荷物をまとめて家を出た。
涙する桃翠を残して去ることは芭蕉も心苦しかったが、
桃雪が目覚める前に黒羽領を出なければ、と先を急いだ。
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