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第8話:卯の花をかざしに関の晴着かな
暫くの間、先を急いだ二人。
桃雪や、彼から知らせを受けた黒羽藩の倒幕派志士たちが追って来れない所まで逃げるため歩き続け、
そしてとうとうみちのくの玄関口である白河の関まで辿り着いた。
「ここ数日、ほとんど休まず歩き続けて来たけど——追っ手らしき人影はないね」
「ああ。付けられている気配は無かったけれど、
俺たちの存在はいつか、他の地に居る志士達の耳まで届くことだろう」
「……本当に、君の邪魔をしてばかりで申し訳ないよ」
芭蕉が頭を下げると、曽良は小さく息を吐いた。
「芭蕉。俺に謝るなと言ったろ」
「でも……僕の行動のせいで、僕達の存在が広まってしまって——」
「倒幕派志士を抹殺することが俺に与えられた任ではあるけれど、
それと同時に、芭蕉とこの旅を生き抜くことも目的——だったろ?」
「……曽良……」
「この旅は芭蕉と一蓮托生だと思っている。
芭蕉も思うことがあるなら言っていいし、遠慮することはない。
意見を聞いた上で俺がどう行動するかはその時次第だけど、
芭蕉が俺に謝ったり申し訳ないと感じたりする必要はないよ」
「……曽良は優しいね」
芭蕉は腰掛け岩に腰を下ろしながら、にこりと微笑んだ。
「曽良はいつも、僕の意思を尊重してくれる。
僕が足を引っ張っているのは間違いないのに、曽良は僕の行動を否定しないでくれるよね」
「……俺は別に、優しい人間じゃないよ」
曽良は瞼を伏せた。
「妻を護ることもできず、里長や組頭の命令で何人も人を殺めてきた俺が
優しい人間であるはずがない」
「でも、僕にとっては優しい人だよ」
めげずに芭蕉が言うと、曽良は唇の端を僅かに上げ、芭蕉の隣に座り込んだ。
「——そういえば、ここは白河の関と言ったか。
奥州への玄関口とも言われる……」
「そうだよ。といっても、関所があったのは昔の話で今は廃墟のような場所だけどね。
——けれども、かつての歌人は何人もが
この白河の関を題材に歌を残しているんだ。
いわば歌人にとっての聖地ってわけだよ」
「へえ。例えばどんな歌が詠まれたんだ?」
「ええとね——」
芭蕉は曽良にこんな話を語って聞かせた。
この白河の関では、かつて平安中期に能因法師という僧侶がこのような歌を残した。
『都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関』
春の霞と共に京の都を発ったけれども、
白河の関に辿り着く頃には秋風が吹いていた——
それから時が流れ、竹田太夫国行という陸奥守が白河の関を越える際、
能因法師の詠んだ歌に敬意を表し
服を着替え、頭に被っていた冠を整えてから関所を通ったと言われている。
「——かつての歌人が詠んだ歌に敬意を表して
わざわざ正装してから通るなんて風情があって素敵な話でしょう?」
芭蕉が話し終えると、曽良はしげしげと辺りを見渡した。
今は廃墟となった地だが、かつてはこの関所を通ることに胸を躍らせた者が居て歌を書き残し、
その歌に感銘を受けた別の歌人が
それに敬意を払いながら通って行く。
歌を通して、紡がれてきた歴史を感じ取った曽良は
自分もこの地で何か歌を残していきたいという気持ちに駆られた。
「関所は無くなったけど、代わりに卯の花が沢山咲いていて綺麗な場所だよねえ」
水筒の水を飲みながら、ほのぼのとした表情で休んでいる芭蕉を見た曽良は、くすっと微笑んだ。
「確かに、そこら中に卯の花が咲き乱れて、まるで雪原のようにも見えるな」
「ね。こんな綺麗な場所を見ていると、一句詠んでみたくなるなあ……」
「俺も一句作ってみようかな」
「——えっ!」
芭蕉は驚いたように視線を曽良に向けた。
以前、撫子の花を見て俳句を詠んでみてはと勧めたことはあるが、
曽良が自発的に詠んでみようと口にしたのは初めてだった。
「……いいね!曽良がこの地をどんな風に詠むのか気になるよ」
芭蕉がわくわくしながら、曽良の筆が紙の上を滑っていくのを眺めていると
やがて書き終えた曽良が紙を芭蕉の方に広げて見せた。
『卯の花をかざしに関の晴着かな』
「……これって、——」
紙を受け取り、しげしげと文字を見つめていた芭蕉が
句の真意を曽良に尋ねようと顔を上げると、あっと息を飲んだ。
いつのまにか、道端から卯の花を摘み取った曽良が
それを自分の頭に乗せていたのだ。
あまりに唐突な行動に見えたが、卯の花で飾った曽良の姿は
どこか艶やかで華やいで見えた。
「——芭蕉の話を聞いていたら、能因法師の歌に敬意を表した竹田太夫のように
俺もまた、そんな風流心のある竹田太夫に対して
敬意を表したいという気持ちになったんだ。
それで、彼の真似をしてみようと考えたけれど
忍であり、さすらいの身である俺では
冠に正装のような立派な格好はできない。
せめてこの地を華やかにしている卯の花で着飾ることで敬意を表したい、という思いを句に込めてみた」
「……曽良……」
芭蕉は、ぶるぶると身体を震わせながら満面の笑みを浮かべた。
「それ、とても素敵だよ!!
——凄いなあ、僕は前から能因法師や竹田太夫のことを知っていたのに
曽良のような機転は利かなかった!
卯の花の飾りも似合っているし、かつての歌人の逸話に連なる句を作れるなんて
僕なんかより曽良のほうが俳句作りの才があるような気がしてきたよ」
芭蕉は曽良の句を絶賛すると、ささっと卯の花を摘み取り
同じように自分の頭にも花を飾ってみせた。
「遅ればせながら、僕も尊敬する歌人達への敬意を込めて、この花で正装の代わりにさせてもらおうかな」
そう言ってにこにこ笑う芭蕉を見た曽良は、
嬉しそうに目を細めた。
この旅の道中、芭蕉の朗らかさに何度か救われる思いがしてきた。
芭蕉は俺に迷惑をかけている、と罪悪感を持っているようだけれど
俺の方こそ、俺のせいで殺伐とした空気と常に隣り合わせにしてしまっていることが不甲斐ない。
芭蕉はすっかり、忍だった自分の素性とは切り離した新しい人生を謳歌しているんだな。
自分の生まれを捨てることのできなかった俺とは違って、芭蕉は眩しい存在だ——
白河の関から更に暫く歩き続け、芭蕉と曽良は信夫の里に差し掛かった。
里に入ると、道行く人の身に付けている着物の柄が独特であることに目がいった。
「なんだろう、あの柄……見たことがない」
「何人か似たような柄を着た者とすれ違ったけれど
似ているように見えて、全く同じ柄の者がいなかったのが不思議だ」
芭蕉と曽良は不思議に思いながら、その日泊まる宿を探し、
空いていた旅籠の主人に尋ねてみた。
「この辺りで、珍しい柄の着物を着た人を多く見かけたのですが……」
「ああ、そりゃ『しのぶもぢずり』で染めた柄のことだろうな」
「しのぶもぢずり?」
曽良がぽかんとする一方で、芭蕉は
「えっ!?あれが噂の——」
と口にした。
「芭蕉、知っているのか?」
曽良が尋ねると、芭蕉は
「僕も、本物を見るのは初めてなんだけど……」
と前置きした上で言った。
「歌の中でも詠まれることのある題材なんだ。
しのぶもぢずりという布の染め方があって、
その染物と恋心を掛けた歌が沢山残っているんだよ」
「染物と恋心とに、一体何の関係が?」
曽良が不思議そうに尋ねると、宿の主人が快く説明をしてくれた。
「しのぶもぢずりってのはな、大きい石に布を置いて、
その上から『忍草』という染料の元となる草を擦り付ける染め方のことさ。
で、そうしてできた柄が乱れたような紋様になるから
その乱れた様と、恋によって掻き乱される心とを掛けて歌に詠まれたって話だぜ!」
「ありがとうございます。歌にお詳しいのですね!
もしかしてご主人は歌を詠まれるのが趣味なのですか?」
芭蕉が尋ねると、主人は
「いやいや!歌なんて詠める器量じゃねえよ!」
と笑い飛ばしながら続けた。
「ここ信夫の里じゃ、『しのぶもぢずりの石』ってのがちょっとした名所だからよ。
宿に泊まる客からその石がどこにあるかと聞かれることが多いもんで、
自然と『しのぶもぢずり』に絡む歌の知識だけついちまったのさ。
石のことを聞いてくるのは、大抵歌に関心のある文化人なもんでな」
「へえ……」
芭蕉が感心していると、曽良が主人に尋ねた。
「しのぶもぢずりを題材にした歌というと、例えばどのようなものがあるのですか?」
すると主人は「ええとな」と思い出しながら答えた。
「源融って男が、ちょうどこの信夫の里としのぶもぢずりとを題に詠んだ歌がある。
どういう歌かというと、まあ悲恋の話になるんだが——」
かつて中納言の源融という男が、
各地を巡回して視察する『按察使』として信夫の里にやって来た。
そして融は村長の娘・虎女という女と恋に落ちた。
恋仲として幸せなひとときを過ごした二人だったが、
ある時融のもとに都へ帰るよう使いが来る。
融は、必ずこの地に戻ってくると虎女に約束し、都へ去って行った。
虎女は再び融が戻ってくる事を心待ちにしていたが、戻るどころか便り一つ届かない日々。
寂しさが募った虎女は、文知摺という観音に願掛けをする。
その帰り、境内にあった石を何気なく見ると
石の表面には不思議なことに融の面影が浮かんでいた。
しかし面影が見えたのも束の間であり、
それが幻だったと気づいた虎女は思い詰めてそのまま病の床につく。
いよいよ虎女が死にかけている間際、ようやく融から一つの歌の便りが届いた。
『みちのくのしのぶもぢずり誰故に
乱れ染めにし我ならなくに』
——しのぶもじずりの紋様のように、私の心は乱れている。
それは貴女のせいだ——
「——ってな!」
話を終えた主人が言うと、芭蕉はじんわりと瞳に涙を浮かべた。
「虎女殿は、死の間際にようやく便りを受け取れたんだね。
それも自分のことを想って乱れているという融殿の歌を見て、
きっと安らかに旅立てたんじゃないかな——」
「そうか?」
すると、曽良は芭蕉の言葉に懐疑的な様子を見せた。
「虎女が思い詰めるまで、便りの一つよこさなかった薄情な男だと思ったけどな。
本当に恋焦がれていたなら、無理にでも暇をとって会いに行くか、
それが難しくとももっと早くに文だけなら出せたことだろう。
——きっと都に戻ったら虎女のことは忘れて、
暫く経ってからふと過去を懐かしく思い出したから
なんとはなしに歌を詠んで送ってみた——そんな気がしてならないけどな」
曽良が冷めたことを言ったため、芭蕉はショックを受けるかと思いきや
「そうかなあ」
と言って、涙を拭いながら反論してみせた。
「融殿にも様々な事情があったんじゃないかな。
しのぶもぢずりの歌は、融殿の素直な心の表れだと思ったけど……。
ほら、僕と曽良だって暫く離れて暮らしていたし
連絡を取り合うこともなかったけれど、
今はこうして昔のように仲良くしている訳だし、
互いに通じ合っていると思ってるよ」
芭蕉がさらりと言った言葉に、隣で聞いていた主人が目を丸めた。
「あんたら二人、もしかして恋仲なのか?」
「えっ!?」
芭蕉と曽良が同時に振り返ると、主人は慌てて手を振ってみせた。
「ああ、違ったならすまねえ!
だが今のお客さんの口ぶりだと、
融と虎女の悲恋に自分達の関係を重ねているような印象を受けたから——」
「確かに、俺もそう受け取られても仕方のない言い方だと思った」
曽良が主人に同調すると、芭蕉は
「ええ……?」
と困惑した。
そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけどな。
曽良は忍として忙しない日々を過ごしていただろうし、
僕も里を抜け出して素性を偽って暮らして来た。
連絡を取り合おうにもその手段がなかったから、
本当は曽良に伝えたかった感謝の気持ちを言えずじまいで歯痒い思いを長年抱えて来た。
だから、それだけ相手を思っていたとしても
どうしようもない事情が壁になって
思いを伝えることが中々できなかったんじゃないかって——
それを説明するために、僕と曽良のことを口にしたつもりだった。
でも……そっか。
僕の言葉では、曽良を恋仲に見立てているような言い方になってしまったのか。
「誤解を招く言い方をしてすみません。
そもそも僕は、誰かに恋をするという経験をしたことがないので
融殿がどれほどの焦がれる思いでこの歌を詠んだのかは計り知れない。
……けれど、恋をしたことのない僕でも
融殿の切ない気持ちが伝わってくるような思いがして——良い歌だな、と感じたのも事実です」
——その後、主人からしのぶもぢずりの石のある場所を教えてもらった芭蕉と曽良は、
せっかくだからと翌日石を見に行くことにした。
しかし、言われた場所を見て回っても、それらしい石を見つけることが中々できなかった。
石を見るのは諦めて、信夫の里を出ようかと芭蕉が口にした時、
曽良は偶々近くを通りかかった民に、石の場所を知らないかと声を掛けに行った。
「うん?しのぶもぢずりの石なら、すぐ目の前にあるよ」
民が二人の後ろを指差し、驚いて振り返ると
そこには何の変哲もない——強いて言えば この面に融の面影を見ることなどできたのだろうか、といった具合にザラザラとした石が置いてあった。
「こ、これがしのぶもぢずりの石……?」
「思っていたのと違うな」
芭蕉と曽良があっけに取られていると、民はこう教えてくれた。
「虎女の逸話は聞いたかい?
石の面に融の面影が見えたという話。
どうもその伝説が元で、『石の面を麦でこすると想い人の顔が映る』って噂が広がってね。
それを聞いた若い娘達が、近くの農地の麦を引きちぎってその石に擦り付けるってなことが頻繁にあって
それに迷惑した農地の主が、とうとう石を丘の上から落っことしちまったんだってさ。
そいでその時に、皆が必死で擦り付けていた平かな面がひっくり返って
見てくれの悪い裏面が表に来ちまったって話だよ」
「そうだったんですか……」
芭蕉は少しがっくりと肩を落としながらも、
教えてもらった石の表面をしげしげと観察した。
「沢山の女人が、麦をちぎってこの石の裏側に擦り付けて行ったんだねぇ……。
皆それぞれ、面影を見たい想い人がいたんだろうな」
会いたいけれども会えないのであろう好きな人を、
せめて面影を見たいと願って麦を擦る。
そんな恋する乙女達が何人もこの石を求めてやって来たのだろうと想像すると
微笑ましいような、切なくなるような思いがした。
話を聞かせてくれた民と別れた後も、暫く芭蕉は石を眺めていたが、
そろそろ出発しようかと腰を上げた時
ふと近くの水田で田植えをする民達の姿が目に入った。
その中には若い娘達も多くおり、
一心不乱に稲の苗を植えていく手つきを見た芭蕉は
ふと筆を取り、浮かんできた句を書き留めた。
『早苗とる手もとや昔しのぶ摺り』
苗を手に取る早乙女達を見ていると、
しのぶもぢずりが行われていた昔をしのばせてくれる——
「石は予想と違ったけれど、一つ句が詠めて良かったな」
芭蕉が句を発表すると、曽良がそう言って微笑んだ。
「融殿と虎女殿の伝説や、石に麦を擦り付けた乙女達の話を聞いて思ったんだけどさ。
誰かを想う恋心を詠んだ句や歌が世には沢山あるんだよね。
僕は自分がそういう、身を焦がれるような経験をしたことがないから
人の話を聞いた感想からしか恋にまつわる句は詠めない。
それがちょっと寂しいな、とも思うよ」
「まあ——無理して人を好きになろうとするのも難しいだろうし……。
その時が来るとしたら、きっと気づいた時にはもう好きになっているんじゃないか?」
曽良が言うと、
「それは曽良の経験談?かさね殿との」
と芭蕉が返した。
「っ、そうだけど……。
そう返されるとなんだか照れるな」
曽良は、ムッとしつつも頬を僅かに染めて視線を逸らした。
曽良がそんな表情を見せるのを初めて目にした芭蕉は、
恋をするとこんな風になるのだろうか、と感じた。
「曽良はいいなあ。
人を好きになるのがどんな気持ちか、曽良は知ってるんだよね。
——僕もきっと恋をしたら、今よりたくさんの俳句が浮かんで来るかもしれないのに」
「今だって芭蕉は良い句を沢山詠んでいると思うよ。
まあ……確かに俺も、初めて句を作った時は
かさねのことを思いながら詠んだ訳だから
芭蕉の説はあながち間違いではないとは思うけども」
曽良は腕を組んで、困ったように首を傾げた。
「でもさ、人を好きになるって、同時に苦しくもあると思う。
事実俺は、かさねともう会えないという寂しさを感じているし、
ましてかさねを殺したのは俺だという事実も抱えながら死ぬまで生きていくことになるだろう。
——そう考えると、人を好きにならなければ
感じずに済んだであろう悲しみや後悔がある訳で、
恋をするのが必ずしも良いことばかりだとは思わないな」
「じゃあ——曽良はもう、誰かを好きになることは無いの?」
芭蕉が尋ねると、曽良は苦笑いを浮かべながら目を伏せた。
「……忍の俺が誰かを好きになったら、
その相手を不幸に巻き込んでしまうんじゃないかって恐怖が大きい。
だから、その恐怖を乗り越えてでも——と思えるほど好きな人が出来たならば話は変わるかもしれないけど、
少なくとも自発的にそんな相手を作ろうとは考えてないよ」
「そっかあ……」
芭蕉はしんみりとした空気を作ってしまったことを申し訳なく思いつつ、
句を書いた紙を大事にしまった。
——それから旅を再開した二人は、さらに北を目指して進んだ。
曽良は、次は仙台を目指すと言う。
黒羽藩の藩主が倒幕派だったことは把握していなかったが、
仙台藩は御上も以前から不審な動きがあると気に掛けていた。
幕府に対して反抗的な言動を取る、出自不明な金、不審な集会など
怪しむポイントは多々あったが、江戸から離れた奥州での彼らに対して
常に目を光らせるのは難しいものがあった。
曽良は、旅に出る当初から仙台藩の様子は必ず探るよう組頭から告げられていた為
福島からひたすら北へと向かったのである。
その道中、二人は飯坂という温泉地に差し掛かった。
ちょうど日も暮れて来たこともあり、温泉宿で一泊することに決めたものの、
二人が入った宿は酷く貧相なものだった。
床にゴザが敷かれただけの客間。
加えて、宿に着いた頃に降り始めていた雨が
客間の天井からポタポタと漏れ
暖かい季節であるにも関わらず芭蕉は凍えながら褥についた。
——そんな厳しい環境下で寝たことも相まってか、その晩芭蕉は夢の中でうなされていた。
『長の子として産まれながら、こうも身体が弱いとは……。
鍛えようにも、少し動いただけで息切れを起こすようでは、いかんともしがたい』
伊賀の里の長である実の父親から、
忍者になるための稽古を付けられていた日々。
夢の中で芭蕉は子どもの頃の姿をしており、
時折父親から浴びせられる言葉や体罰に耐えながら
自分なりに必死に修行に励んでいた。
『いっそのこと、私に子が居なかったのなら
里の中から最も優秀な者を養子に取り、後継に据えただろう。
代々血筋の者から後継を取ってきた習わしさえなければ、それを反対する声も上がらなかっただろうに。
お前の母親が、お前を産んですぐに死んでしまわなければな……。
お前の身体の弱さは母親譲りゆえ、妻選びを間違えたことを今になって悔やんでいる』
芭蕉は、自分に対してまるで期待をしていない父親に対して
期待に沿えない自分を恨めしく思いつつ
どうにか少しでも出来ることを増やそうと地道な努力を続けていた。
だがそんな努力も虚しく、父親は決まって最後に芭蕉にこう告げた。
『ああ、曽良が私の息子だったならば
いらぬ苦労をせずに済んだものを』
「——はぁッ……!!」
悪夢にうなされた芭蕉は、思わず声を出して起き上がった。
するとその声を聞いた曽良も、何事かと身体を起こした。
「どうした芭蕉?」
「っはぁ……はぁ……、ごめん……夢にうなされてしまったみたいで……」
「夢?」
曽良は、芭蕉の身に何かあったわけでは無いと分かり一安心したが、
暗がりに差し込む月の光で、芭蕉が額から大量の汗を流しているのが目に入った。
「芭蕉、汗が……」
「だ——大丈夫……!
ちょっと気持ち悪いけど、すぐにひくと思うから」
「いや、ただでさえここは冷えているのに、汗がひいたらもっと身体が凍えてしまうぞ。
——いっそのこと、今から温泉に入りに行くか?」
「え?」
芭蕉が目を瞬かせると、
「ちょうどここは温泉地だし、汗を流すついでに身体を温めると良いだろう」
と曽良が言った。
だが、芭蕉はちらちらと曽良を見た後
「いや、温泉は遠慮するよ……」
と力無く返した。
「良いのか?」
曽良が心配そうに尋ねると、芭蕉は少し気まずそうにこう言った。
「ほら、僕って曽良と違って全く筋肉のない、情けない身体だし……。
肌も……昔の傷痕があって綺麗じゃないから——」
すると、曽良は芭蕉の気持ちを汲んだらしく素直に引き下がった。
「俺は別に気にしないが……。
でも、芭蕉が人に裸を見られたくないというなら、温泉はやめておこう」
「気を遣ってくれたのにごめん。
——でも確かに汗は流して来たいから、湯浴み場を借りてくるよ」
芭蕉は笑みを作ってそう言うと、手拭いを持って宿の湯浴み場へと一人向かった。
客間に残された曽良は、芭蕉が出て行った戸口の方をじっと見つめていた。
昔の傷痕、か——
曽良は悲しそうに眉根を寄せると、
大きく息を吐き出し項垂れた。
「ごめんな、金作……」
曽良は、未だ伊賀の里で暮らしていた頃の記憶を反芻しながら呟いた。
芭蕉がまだ『金作』と呼ばれていた小さい頃、
曽良は彼が里長から厳しい修行をつけられているのを目の当たりにしてきた。
金作は生まれ持って器官が弱く、激しい運動をすると直ぐに咳き込んで倒れてしまう為に
忍として満足に身体を使いこなせない体質であった。
そのせいもあってか、忍に向いていないことを自覚しており自信を失っていた金作は
性格も内向きで、同年代の子どもたちから仲間外れにされていた。
曽良だけは金作の側に付いてやっていたが、
自分が金作と一緒にいるところに里長が居合わせると、
まるで金作に聞かせたいかのように
『曽良は優秀で申し分のない忍なのにな』
と曽良のことを褒め称えるのだった。
自分が側にいるせいで、金作が余計に自信を失ってしまっているように感じた曽良は
金作とどう接するのが正しいのか戸惑った。
だが、元来兄貴肌で困っている人を見捨てておけなかった曽良は
金作が里の仲間にいじめられたり、暗殺者たちから命を狙われるたびに
彼を庇い、助けに入っていた。
だが、金作は成長するにつれて
身体の傷が増えていく一方だった。
修行の中で負った怪我もいくつかあったが、
中には金作自身が傷を付けたのではと思われるものも目にしていた曽良は
いよいよ金作との接し方の正解が分からなくなっていた。
そんなある日、里長に呼び出された曽良は
衝撃的な話を持ち掛けられる。
『実は江戸の服部殿から、里で最も優秀な若い忍を送って欲しいという知らせが入った。
私は曽良を推薦しようかと考えているのだが、
他方で曽良には別の頼みをしたいとも考えていたゆえ
お主自身にどちらを選ぶか決めてもらおうかと思っている』
別の頼みとは……?
曽良が問うと、里長はこう告げた。
『金作のことは、正直諦めている。
あの者は身体的にも性格上も長になるにはあまりに不適合だ。
それで、伊賀の里を率いて次世代の忍を育てていく里長の後継を
曽良に任せてはどうか——と考えていたところだったのだ』
里長の話を聞いた曽良は大いに悩んだ。
自分が江戸に行けば、金作を庇ってやれる者が居なくなってしまう。
けれども、自分が里長を継ぐということは
金作がこれまで持っていた権利を自分が奪うことになる。
曲がりなりにも芭蕉は将来里長になる為に
厳しい修行に耐えているというのに
それではあまりに金作が不憫に思えた。
曽良は、もし自分が江戸に行くとしたら
後継は元の習わし通り金作になるのか?と里長に尋ねた。
すると里長は、
『今のところ、曽良以外に相応しい者は思い当たらぬゆえ
もう暫くは金作を後継にするつもりで
鍛錬を付けてやろうと思っている』
と答えた。
ならば——
曽良は、自分が里を出て江戸に行く決断を下した。
自分が去った後、金作が後を継ぐことになるかは分からない。
けれども今よりもっと成長し、大人に近づいた頃には
金作は自分なりに考え、自分にとって最善の答えを見つけられるかもしれない。
金作がこれからどう生きるか、それは金作自身が選び、掴み取るべきだ。
今の俺にできることは、その可能性を摘み取らないこと。
金作を守ってやれないのは一抹の不安が残るが、
きっと彼ならばうまくやれるだろう。
身体が弱い分、学問に精を出しているようだし
金作ならば他の生き方だってできるかもしれない。
その為にも、俺が金作にしてやれるのは
金作を突き放すことなのかもしれない——
そう考えた曽良は、発つ日を金作に告げないまま里を出て来たのであった。
曽良が、昔のことを思い返しているうちに、
湯浴み場で汗を落とした芭蕉が戻って来た。
「お待たせ、さっきは心配をかけてごめんね」
「構わないよ」
芭蕉は、ふうと床に座り込むと
「お陰で身体が少し温まったよ」
と言った。
「なあ、芭蕉——」
「うん?」
曽良は、芭蕉が羽織を肩に掛けて身体を小さくする姿を見て
本当はあまり温まれていないであろうことを察した。
「やっぱり湯に浸かって来た方がいいんじゃないか?
俺が一緒でなければ温泉に入れるんだろ?」
「っ……大丈夫だよ。
湯に浸かったら浸かったで、どのみちいずれ湯冷めしちゃうだろうし。
それより曽良こそ、僕に遠慮しないで入って来てもいいんだよ?」
曽良の気遣いに対し、芭蕉も同じように返すと
曽良は唐突に着物をはだけさせ、上体を露わにした。
「!曽良っ、突然脱いだりしてどうしたの……!?」
目を丸くする芭蕉に、曽良はこう告げた。
「俺だって、任務で負った傷が身体中にある。
だけど俺はこの傷を見られることを恥だとは思わない。
これは俺が与えられた任務を遂行する為に
逃げずに戦った証だからだ。
——芭蕉だってそうだ。
芭蕉は……金作は幼い頃から、人一倍努力をしていた。
思うように身体を動かせないながらも
長の期待に応える為に精一杯頑張っていたじゃないか。
それで出来た傷を見て、俺が冷やかしたり気を遣ったりすると思うか?」
曽良は声を張り上げて言うと、芭蕉に見えるように身体を近づけた。
「肩にも胸元にも腹にも、沢山傷がある。
芭蕉は俺の身体を見て醜いと思うか?」
「そんな——そんなこと、絶対思わないよ!」
「だったら俺も、芭蕉の身体を見ても醜いなんて思わない!」
「っ……!」
芭蕉は、目を見開いて暫く曽良と視線を交わしていたが、
やがて決意したように口を開いた。
「……やっぱり僕、温泉に入って来る。
良かったら、曽良も一緒にどうかな……」
——宿の外にある露天風呂にやって来た二人は、
並んで湯の中に身体を沈めた。
まだ雨がまばらに降っており、真夜中ということもあってか
入りに来ている客は自分達だけだったが
芭蕉にとってはかえって好都合だった。
曽良は自分の過去を知る存在だが、
それ以外の人に対しては、やはり傷だらけの肌を晒すことに気が引けてしまうと感じたからだ。
「あったかいな」
「うん。……湯に浸かったのなんていつぶりだろう」
芭蕉は、広い湯の中で足をゆったり伸ばして浸かれることにすっかり魅了され、
入るまでに感じていた緊張や恥ずかしさは薄れていた。
「温泉ではないけどさ……、
伊賀の里にいた頃は、水練で河原に浸かりながら歩いたことがあったよね。
あの日は暑かったから、川の水が生温くて温泉みたいだった」
「あったな。芭蕉が衣を身につけたまま川に入るから、
水に浸った重みで思うように泳げなくて弱音を吐いていた」
「うん……あの時も、肌を見られたくなくて着物を着たまま飛び込んだのを覚えてる。
よく溺れずに岸に上がれたなあ——あっ、違う。
溺れかけたところを曽良に助けてもらったんだっけ」
「そうだったか?それは覚えてないな……」
「そうだよ!あの時も曽良だけが僕を見捨てずに助けてくれたんだよ」
心身がリラックスした状態で、昔話も弾み出した芭蕉は
その勢いに任せて、自分の気持ちを吐露し始めた。
「あの日——曽良が里を出た時。
さよならを言わずに曽良が去ってしまったから、
僕はずっと寂しいなと思ってたんだ」
「……それは」
「あっ!曽良を責めたい訳じゃないよ!
僕は——曽良にまた会えたことが、本当に嬉しかった」
すると曽良も、温泉に浸かり心が緩んだのか
素直な心のうちを芭蕉に吐き出した。
「俺は里を出る時、きっともうここへ戻ることはないだろうからと思って
里の誰にも挨拶せずに出て来たんだ。
さよならを言えば、余計に別れが寂しくなるとも思ったし。
だけど……芭蕉のことが気掛かりではあった。
だから自分で決断して、里を抜け出して
江戸で新しい人生を歩んでいることを知った時は
『良かったな』って声を掛けてやりたいなと思った——」
曽良は、背中を露天風呂の岩肌につけながら
顔を上げて真っ暗な空を見つめた。
「……芭蕉は立派だと思う。
あんな閉鎖的な場所で、俺たちは
人を欺き傷つける術ばかりを仕込まれながら幼少期を送ったのに、
芭蕉はずっと真っ直ぐで心根が優しい。
それに特技を活かして生計を立て、自分で人生を選んで生きてきた。
きっと……里の誰よりも、芭蕉は自分で考えて、自分の力で強く生きてきた」
「僕は、自分のことを強いと思ったことはないけれど、でも……ありがと。
曽良にそんなふうに言ってもらえて嬉しいよ」
芭蕉はそう言った後照れ臭くなり、顔を半分湯船に沈めた。
「曽良は僕の憧れだったから。
曽良みたいに強くて頼れて格好良い男になりたいって夢見ていたから。
……忍にはなれなかったけど、僕は曽良と一緒に旅が出来て、今とても幸せだなあ」
芭蕉は、この幸せな瞬間を句にするとしたらどんな言葉が良いだろう、とふと考えたところであることを思い出した。
「そういえば、僕……俳句を始める前は
自分の考えや気持ちを人に伝えるのが苦手だったんだ。
子ども達相手に、自分の知っていることを順序立てて話すことならできるのに、
自分の思いを言葉に直して伝えることは苦手で……。
曽良に言いたいことがあっても、それをどう伝えればいいのか分からず歯がゆい思いをしてきた。
でも、今は不思議なことに、それが自然とできるようになった気がする。
俳句を始めたことで、意識的に自分の心の内を整理して
言語として外に吐き出せるようになったからかも」
そう話したところで、芭蕉は曽良を見た。
「——全部、曽良のお陰だね」
「俺?」
これまで黙って芭蕉の言葉に耳を傾けていた曽良が
驚いたように視線を合わせた。
「今の話の流れから、『俳句のお陰』って言うのかと思ったら——俺?」
曽良が言うと、芭蕉は「曽良のお陰だよ」と力強く言った。
「曽良ってさ、昔からそうだけど
僕の言ったことを決して否定しない。
僕のどんなに長い話でも、最後まで聞いてくれる。
だから僕は安心して話せるし、どんどん曽良に対して言葉が出てくる。
……曽良の素敵なところだよね」
「……」
曽良は何も言葉を発さなかった。
だが、曽良が照れたような表情を浮かべていることに気付いた芭蕉は
何も返事がなくとも満足したように前を向いた。
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