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第9話:花街の女①
それから福島を抜け、とうとう仙台に足を踏み入れた芭蕉と曽良。
仙台藩は幕府内でも倒幕派の噂が囁かれており、
黒羽藩の桃雪のように、この町で声を掛けてきた人物や
親切にしてくれる人物は、倒幕派志士の疑いを持つべきだろうと曽良は考えていた。
だが一方の芭蕉は、城下町の人々が
すれ違う時に挨拶や会釈を交わしてくれたり、気さくに話し掛けてくれることに気を良くしたらしく
「この辺りの人達はみんな良い人だね!」
とご満悦の様子だった。
「芭蕉の、人を疑わないところは良い部分でもあるけど
ここ仙台では注意深く人を観察した方がいい。
特に気安く話し掛けて来る奴は、倒幕派志士の可能性もあることを忘れちゃいけない」
曽良が嗜めるように言うと、芭蕉は
「あっ、そうだった!ごめん——」
と、しゅんと肩を落としながら謝った。
「とりあえず、ここでは慎重に敵の情勢を見定めたい。
これまで通り、俳句を詠む為という名目で名所を巡りつつ
仙台藩の動向を探っていきたいと考えている」
曽良の提案で、二人は仙台のさまざまな観光地を見て回った。
萩の名所である宮城野、伊達政宗が再興したと伝わる陸奥国分寺薬師堂、多賀城の壷の碑——
そして松島を訪れた時、
海に浮かぶいくつもの島々に芭蕉は心を奪われた。
この絶景を句にしたためたい。
そんな興奮を胸に景色を眺めていた時——
芭蕉は、観光用の舟が出ている近くで
紙を広げ、そこに絵を描いている一人の男を見かけた。
「ねえ曽良。あそこで絵を描いている人がいるよ」
「本当だな。ここは眺めも良いし、風景を描くには良い場所なんだろう」
二人が遠巻きから、真剣な目で筆を走らせる男を見ていると——
「ああっ!」
突然、海の方から強い風が吹き、
その拍子に男の描いていた紙が宙に飛ばされてしまった。
「大変だ!」
芭蕉は、折角男の描いた絵が海の方へ飛ばされていくのを見て思わず声を上げた。
すると、男よりも顔を真っ青にしている芭蕉を見た曽良が
瞬時に動き、あっという間に海岸まで駆けていくと
すんでのところでその紙をキャッチした。
「おおお……!」
すると、曽良より遅れて駆けてきた男が
目を輝かせながら頭を下げてきた。
「ありがとうございます!
あなたの、目にも止まらぬ速さの走り……いやあ、驚きました!」
「いえ」
曽良は絵を手渡すと、すぐに去ろうとした。
だが、男は慌てて曽良を呼び止めた。
「あっ、お待ちください!
ぜひとも絵の礼をさせて欲しいのです!」
「礼をされる程のことは——」
「私は加右衛門と申す者!
あなたと、後ろにおられる連れのお方の荷物を見た様子だと
あなた方は旅人なのでしょう?
良ければ、ぜひ私の家でもてなしをさせて欲しいのです!」
加右衛門と名乗る男は、ぐいぐいと話を進めると
今度は芭蕉のほうに視線を寄越してきた。
「それとも、先を急ぐ旅でしょうか?」
「へ?……あ、いや……」
曽良は、暫く仙台に滞在して
藩の様子を探りたいって言ってたな……
「もう暫くは、この地に留まるつもりでいますが——」
そう言いながら芭蕉がふと曽良を見ると、
曽良が頭を抱えている姿が目に入った。
しまった、判断を間違えた!
芭蕉は曽良の諦めたような表情を見てすぐに悟ったが、遅かった。
「本当ですか!!
ならば今夜はぜひ、私の家に泊まって行ってください!
なにせ時間をかけて仕上げていた大切な絵を
潮風から取り返してきてくれた恩人。
丁重におもてなしをしますよ」
——こうして、その晩は初対面である加右衛門の家で世話になることとなった二人。
家に着くと、加右衛門は二人に仙台の名物料理などをふんだんに振る舞ってくれた。
曽良ははじめ、桃雪の時のように
飲食物に毒が仕込まれていないかと警戒していた様子だったが、
曽良が止めるより早くパクパクとご馳走を口に入れた芭蕉が
けろっとしている様子を見て、ようやく安堵したように自分も食事を摂っていった。
そうして二人の腹が膨れた頃にはすっかり日が沈んでいた。
「ここ仙台は、奥州の中では最も活気があり賑わう町です。
あなた方のお話を聞いていると、景観が良い松島や、歴史のある建造物などは一通り回った様子ですが
城下町をまだ楽しんではおられないようですね」
加右衛門が言うと、芭蕉はハッと顔を上げた。
「はい!城下もいずれ歩きたいと思っていたところです!」
芭蕉は、城のすぐ近くを、この地に住む者と歩くのであれば
自分達の素性を隠し、より自然に町に溶け込めるチャンスだと考えた。
「ならば早速参りましょう!
私、『良い店』を知っているので
ぜひお二人にも楽しいひと時を過ごしていただきたい」
「良い店?」
芭蕉はぽかんとしたあと、
「あっ。すみません、僕たちお酒はあまり……」
と断ろうとした。
すると加右衛門は笑いながら言った。
「ははは!お二人があまり酒を嗜まないのは、今一緒に食事をしていて気付きましたよ。
安心してください、酒を飲まなくても仙台の夜を楽しめる場所ですから——」
こうして加右衛門に連れ出され、城下町へと繰り出した芭蕉と曽良。
道には多くの人が溢れ、酒を飲んで楽しそうにしている者、
日が暮れた後でも野菜や魚を売る者とそれを買う者など
人の勢いで活気溢れる町だった。
江戸とはまた違った雰囲気を眺めながら
芭蕉が加右衛門の後をついて行くと——
狭い路地を一本抜けた先にある大きな建物の前で加右衛門は立ち止まった。
「ここは私の知人がやっている店なのですが、
必ずご満足頂けること請け合いですよ!」
「へえー……」
辺りを見ると、自分と同年代くらいの若者から中年まで
男性ばかりが店の中に吸い込まれるように入って行くのが見えた。
「男性の客人が多いのですね」
「……そうですね!芭蕉殿くらいの年齢の御方が一番楽しめると思いますよ」
「へえ!それは楽しみ」
芭蕉はわくわくした表情で加右衛門の後を付いて店の暖簾を潜った。
曽良は、建物や辺りの様子を見て
何か思うところがあったようだが、無言で二人の後から店に入った。
三人は座敷の中に通され、芭蕉がそわそわしながら座ると
店の者たちが次々と現れ、目の前に酒や料理を並べて行った。
どうしよう、お酒は飲めないし、加右衛門殿の家で沢山ご馳走になったから
料理ももう入らないや——
芭蕉が困った表情を浮かべると、加右衛門は「ははは!」と笑ってみせた。
「もしかして、芭蕉殿はこういうお店は初めてでしたか?」
「えっ?」
「ここは料理を楽しむのが目的の場所じゃあないですよ」
「っ、ええと……ここは何を楽しむお店なんですか?」
「まあ、見ててください」
加右衛門に言われて素直に待っていると、
部屋の戸が開き、煌びやかに着飾った女達がぞろぞろと入って来た。
芭蕉が呆気に取られていると、
女達は楽器を手に取り、音楽を奏で始めた。
「おおー……」
三味線を弾く者、それに合わせて舞う者、歌う者——
役割はそれぞれだが、普段音楽や芸を観ることのなかった芭蕉は
女達の披露する舞台を新鮮な気持ちで鑑賞した。
「とっても綺麗な音楽と舞でした!」
——演奏が終わった後、芭蕉はパチパチと拍手しながら言った。
「加右衛門殿!
僕、歌や舞をこんなに近くで観たのは初めてです!
加右衛門殿の言った通り、とても楽しい場所ですね!」
芭蕉が目をキラキラと輝かせながら言うと、加右衛門は思わずプッと噴き出した。
「っ、芭蕉殿……楽しむのはここからですよ?」
「え?でも、もう演奏は終わったんじゃ——」
「これは太客をもてなすための前座です。
先ほど言った通り、私はここの主人の知り合いなので」
「前座……?この後にも何か演目が?」
「さあ、芭蕉殿。
ここにいる女人の中から、気に入った娘を選んでください」
加右衛門にそう勧められた後も、芭蕉はまだ事態が飲み込めていなかった。
「ええ……どうしよう。
歌を歌った娘さんも澄んだ声で良かったし、
三味線の演奏も耳障りが良くて聞き飽きなかったし、
舞も優雅で素敵だったし……。
皆さんそれぞれに素晴らしい演者なので
誰が一番優れていたかを決めることなんて——」
「はは……っ!!
いやあ、芭蕉殿は本当に面白いなあ!」
とうとう加右衛門が腹を抱えて笑い始めた為、
芭蕉が訳が分からず呆然としていると、
黙って見ていた曽良が芭蕉の腹をそっと小突いた。
「ここは遊郭だ」
「遊郭……?」
「江戸の吉原みたいなところだ」
「吉原?吉原って——あの吉原?!」
ようやく芭蕉は合点がいったようで、さあっと顔から血の気が引いていった。
「そんな——む、無理だよ!
僕、女人とそんな……したことないもの!」
「心配要りませんよ、芭蕉殿」
すると加右衛門が優しい声で言った。
「ここでは女人の方が手取り足取り教えてくれますから。
芭蕉殿が気負う必要はないのです」
「そう言われても……僕……」
「芭蕉殿は女人がお嫌いでしたか?」
「嫌いというか……、好きとか嫌いとか
そもそも考えたこともないですけど……」
「ならば一つ、ものは試し。
旅先の夜に新たな世界を知るのも一興ではありませんか?
俳句作りが趣味と仰った芭蕉殿ならば
新しいことを体験するのが肥やしになるのでは」
芭蕉は困ったように眉を下げ、曽良を見た。
曽良ならば、こんな店は一刻も早く出ようと言ってくれるのではないかと思ったからだ。
「曽良はどうする……?」
「——俺はここで暫く過ごしていく」
「え?!」
芭蕉は目を丸めて曽良を見た。
曽良……、こういうお店の人との行為に興味があったんだ。
そりゃ、多かれ少なかれ欲求を持っていてもおかしなことじゃないけれど
僕はてっきり、曽良はかさね殿のような
心に決めた相手以外とはそういうことをしないものだと思っていた……。
芭蕉が言葉を失っていると、曽良は芭蕉の背中を軽くさすった。
「芭蕉は無理しなくていい。
ここが苦手ならば、先に加右衛門殿の家に戻って休んでいてもいいんだぞ」
曽良が言うと、芭蕉は一瞬そうしようと考えたものの、すぐに思い直した。
これまでの旅で、僕は全然曽良の役に立てて来なかった。
それどころか正体を知られてしまったり、足を引っ張るばかりで——
ここで僕が、お店の人から何かしらの仙台藩に関することを聞けたら
少しは曽良の役に立てるんじゃないかな……
「——僕も残るよ」
芭蕉はそう言うと、加右衛門と向き直った。
「その……、この中から誰か一人を選べと言われても、どう選べばいいか分からないので
加右衛門殿に勧めて頂きたいです」
「私に、ですか?」
加右衛門は驚いたように目を丸めた。
「はい」
「芭蕉殿は女人の好みなどは無いですか?」
「無いです……」
「うーん……。芭蕉殿が気に入りそうな娘を私が選ぶとなると、これは責任重大ですね」
「たった一晩過ごすだけの間柄なんだから、誰でも同じことだ」
曽良は、頭を抱える芭蕉と加右衛門に向けて言うと
「こだわりはないから、適当に連れて行く」
と、戸口に一番近い場所に座っていた女に声を掛け
さっさと個室へと去って行ってしまった。
「ええー……。曽良、置いてかないでよ……」
芭蕉が泣きそうな顔で言うと、加右衛門は
「置いて行くも何も、どのみち個室なので分かれることになりますよ。
お二人共が『終わったら』、この座敷でまた落ち合いましょう」
と言った。
「じ、じゃあ、僕も曽良に倣って
戸口に近い女人を……」
芭蕉はそう言うと、曽良が連れて行った女の隣に座っていた女に声を掛けた。
「あの、今晩は……」
「……今晩は」
芭蕉が、座っていた位置だけを理由に自分を選んだ過程を見ていた女は
どう反応していいか分からないような、怪訝な表現を浮かべながらも
「……行きましょう」
と言って立ち上がり、芭蕉と共に座敷を後にした。
——個室に入ると、芭蕉と女は無言のまま立ちすくんだ。
狭い部屋に、敷かれている一組の布団。
ここがそういう場所なのだと、経験のない芭蕉でもすぐに理解した。
「と、とりあえず座りませんか?」
女が何も声を掛けてこないため、芭蕉はどうにか会話を始めなければと思い
女に座るよう促した。
座り込んだ後も、互いに沈黙が続き
芭蕉がここからどうやって仙台藩の黒い噂を探っていくかと考えていると、
隣の部屋から女の艶かしい声が響いてきた。
「っ!?」
芭蕉がどきりとして肩を震わせると、
黙り込んでいた女が口を開いた。
「……私と、話がしたいんですよね?」
「……えっと……」
芭蕉が女に視線を向けた。
よく見ると、他の遊女たちと比べて派手な雰囲気はないが、
目鼻立ちの整った可愛らしい容姿をしていることに気が付いた。
「はい……あなたと話がしたい、です」
「初対面の私とどんな話をしたいんです?」
「それは——」
——仙台藩の動向を知ってる?
——藩の役人さんと話したことはある?
駄目だ、とても初対面の女人に尋ねるような聞き方じゃない!
どうやって怪しまれずに聞きたい情報を引き出せばいいんだろ……
芭蕉がまごついていると、女は澄んだ声で話し出した。
「私のことを何も知らないうちには、話そうにも話せない……ですよね。
それでは自己紹介をさせてください。
——私の名は霧乃と言います。
奥州のとある田舎町で農家の娘として生まれ、そしてこの店へ売られて来ました」
「売られてきた……!?」
芭蕉が驚いて目を丸めると、霧乃はきょとんとした表情を浮かべた。
「はい。遊郭で働く者はほぼ全員がそうです。
家が貧しく、家族に売られてここへ来た者ばかり。
それは江戸の吉原と変わらないと思います」
「そ、そうだったんだ……」
芭蕉は霧乃の話を聞いて、複雑な気持ちになった。
「じゃあ……自分の意思で働いているわけではないんですね」
「はい。家族の金銭問題でここへ流れ着いた者ばかりだと思います」
「知らなかった……。
さっきも、皆三味線や舞をとても上手に披露していたから、
そういう芸が得意な人達が集まったのだとばかり——」
「芸を習えるような金銭的余裕がある人は、そもそもここでは働いていないと思います。
皆、自分を少しでも良く見せるために
芸を身に付けることで価値を高め、
そして身請けされることを目的に頑張っているんです」
「身請けって?」
「お客様が、気に入った遊女を妻として迎えるために
店に高いお金を納めて仕事を辞めさせることです」
「……お客さんの男性と夫婦になることを目標に、皆頑張って芸を磨くということ?」
芭蕉が問うと、霧乃は暗い表情を浮かべた。
「……それしか、この牢獄から抜け出す術がないからです。
厳密には、売れる遊女となって金を稼ぎ、身売りされた時の額を返納できれば上がることはできます。
でも、ここに居る間の食事代や化粧料、身の回りの世話をしてくれる禿達に払う奉公代などで
店から借金をしなければならないので、
結局病気になって死ぬまで、金を返し切れない者がほとんど。
——だから事実上、身請けされることだけが
外の世界へ戻れる手段となっています」
「そう、だったんですね……」
芭蕉は、何も知らずに遊女の事情を聞いてしまったことを忍びなく思った。
「……ごめんなさい」
芭蕉が謝ると、霧乃は不思議そうに顔を上げた。
「どうしてお客様が謝るのですか?」
「きっと話すだけでも辛いことだろうに、
僕が興味のままに色々と尋ねてしまったので……」
「……お客様は優しい御方ですね」
霧乃は唇を少しだけ上げて言った。
「お客様からそんな風に気を遣ってもらえたことがなかったので、少し驚きました」
「そう、なの……?」
「ここへ来るお客様はそもそも女を抱くことが目当てですから。
まして私はあまり愛想もないですし、話し上手でもないので
会話でお客様を喜ばせることができない。
……身体を売ることしか、私には芸がない」
「そんなことないです!!」
芭蕉は力強く、霧乃の言葉を否定した。
「霧乃殿はさっきとても綺麗な三味線の音色を聴かせてくれたし、
緊張している僕に対して寄り添うような話し方をしてくれた。
僕は霧乃殿と知り合ったばかりだけど、思慮深くて素晴らしい女人だと感じました!」
芭蕉はそう言うと、持っていた荷物の中から俳句を書いた紙を取り出した。
「それは……?」
「霧乃殿が自身のことを話してくれたから、僕も自分のことを紹介しようと思って。
——僕は俳句を作ることを趣味としていて
江戸からは俳句を詠む為に旅をして来たんです」
芭蕉は、これまでに詠んだ俳句を広げて見せた。
「この句は、福島で詠んだもの。
こっちは那須で——」
「……」
「……?」
芭蕉は、俳句を並べて見せ、説明を加えても
良いとも悪いとも言わない霧乃に対し
だんだん不安になってきた。
「すっ、すみません。
いきなり人の俳句を見せられて、迷惑でしたよね——」
「あ!いいえ」
霧乃ははっとして顔を上げた。
「ごめんなさい、私は貧しい家の生まれなので、文字を習える余裕が無かったんです」
「!あ——」
芭蕉は、自分がとんでもないことをしてしまったと悔いた。
ついさっき、貧さゆえに家族から売られて来たという霧乃の話を聞いたばかりの芭蕉。
そんな境遇であれば、文字を習う余裕など金銭的にも時間的にも無かったであろうに
芭蕉は文字が読めることを当たり前であるかのように話を進めてしまったことを恥じた。
そうだ——僕は、江戸に来てからはあまり余裕のある暮らしはしていないけれど
伊賀の里で、忍として働く上で文のやり取りなどが必要となる場面もあるからと
曽良や他の子達と一緒に文字を習った。
文字が読めたから、学問書を読み漁り、勉強をすることができた。
里にいた頃は、将来忍になることしか選べない未来に絶望していたけれど、
ちゃんと衣食住があり、読み書きを教えてもらえていた僕は
自分が恵まれていたことに少しも気づいていなかった——
芭蕉が自分の配慮のなさに落ち込んでいると、霧乃は
「あっ、でも——」
と慌ててフォローするように言った。
「この店に来て、高い身分の御方と接する機会も多くあったので、
働き始めてからですが少しずつ、読み書きの勉強をしていたんです」
「!……そうなんですか?」
「と言っても、すべての字を読める程には上達していないですし
読むのにも時間がかかってしまって……。
だから今、ゆっくりとではありますが読み込んでいたんですよ」
霧乃はそうして一枚の紙を取ると、
「この句とか、素敵ですね」
と芭蕉の前に広げて見せた。
『あやめ草足に結ばん草鞋の緒』
「かな文字しか読めないけれど……
あやめというのは、花の菖蒲ですよね?」
「っ、はい!その通りです」
「私、紫色が好きなので……あやめについて詠まれたこの句の背景を知りたいです」
「もちろん!これは、このお店へ来る少し前に作ったばかりの句なんです」
芭蕉は、加右衛門が自宅でご馳走をしてくれた際に
手土産まで渡してくれていた。
それは濃い紫色に染められた鼻緒が付けられたわらじだった。
『菖蒲には、邪気を払うという言われがあります。
あなた方が仙台を発った後、私はついて行くことができませんが
代わりにこの菖蒲の色をしたわらじが
足元の邪気を払い、健脚で旅を続けていけるように願いを込めてお渡しします』
「加右衛門殿——さっき一緒に来ていた人が、本当に僕達に良くしてくれて……。
持たせてくれた手土産にも風流を感じて素敵だし、
今日知り合ったばかりなのに、きっぷの良い御方だなあって」
芭蕉がニコニコしながら言うと、霧乃は苦笑した。
「確かに、その贈り物は素敵だなと思いますが……。
会ったばかりの旅人をこのような場所に連れて来るのは、……なんて言ったら
お連れのお客様に失礼になってしまいますね」
霧乃は自分の発言を自重した後、
他の俳句にも目を向けて行った。
「読める範囲でしかありませんが、
草木にまつわる句が多い気がします。
俳句ってそういうものなのですか?」
「そうです。五・七・五から成り、かつ季語と言って、
季節がわかる言葉が句のどこかに入っているのが俳句です。
季節を表す言葉となると、やっぱり花や木々は季節ごとの移ろいがあるので使いやすいです。
さっきのあやめは、ちょうど今の、端午の節句の時期を表すのに使われる花の名です」
「なるほど……」
霧乃は芭蕉の説明を聞いて納得した後、
どこかぼうっと遠くを眺めながら言った。
「良いなあ。この中で暮らしていると、季節の移ろいを知る手段は
お客様の着ている衣の厚みくらいしかない。
私も外の世界で、草花の芽吹く様子を目の当たりにしながら
季節が移ろぎ、それに合わせて自分も歳を重ねていくのを実感してみたかった……」
霧乃の言葉が切実なものに感じられた芭蕉は、思わず彼女にこう告げた。
「ここから出たいと考えているなら——力になってあげたいです」
「……えっ?」
芭蕉の言葉に、霧乃は弾かれたように顔を上げた。
「ここを……出る?」
「はい。霧乃殿が外の世界に出ることを望んでいるなら、手伝ってあげたいなと思いました」
「……ま、待ってください」
霧乃は驚いたように目を丸め、顔を両手でパタパタと仰いだ。
「それって、私を身請けしてくださる……ということですか?」
「——えっ」
芭蕉は、霧乃の言葉にぽかんと口を開けた後、ハッとして口元に手を当てた。
「いやっ、違っ……。
身請けじゃなくて、ここを逃げ出すのを手伝いますよって意味で——」
芭蕉が訂正すると、霧乃はみるみる顔を青ざめていった。
「……逃げ出すのは、無理ですよ……」
霧乃は、店の遊女達が厳しく監視されていること、
万一投げ出して捕まりでもすれば、
一度ならば折檻や食事抜き、酷い時には拷問されることもあるのだと話して聞かせた。
「それに、ここを逃げ出したところで
実家から売られた身の私には帰る場所がありません。
学もないし、農業や商売をしたこともない私が
一人で町に出たところで、野垂れ死にする未来しか想像できません」
「でも——世界はとても広くて、美しいですよ。
あやめの花も、それ以外の草花だって沢山——」
「無理です……っ!!」
霧乃は、か細い声を張り上げて言った。
「どんなに外の世界に憧れても……私の力では生きていけない。
私には、ここで暮らしていく以外の生き方はできない。
……お客様には、きっと分かってもらえないと思いますが……」
すると芭蕉は、
「すみません、無理強いするつもりではなかったのですが」
と謝りつつ、こう続けた。
「でも、霧乃殿の気持ちは僕にも理解できます。
僕は……生まれ育った里を命がけで逃げ出して来た過去があるから——」
「え……?」
霧乃は驚いたように顔を上げた。
「お客様は、命がけで故郷から逃げて来たのですか?」
「あまり詳しくは話せないけど……。
僕は里で、人を欺いたり、時に傷つけたりするような、ある仕事に就くためだけの術を叩き込まれて来ました。
けれど僕は、その生き方しか選べないのであれば生きていても苦しいだけだと思って、
里の大人達や、父の目を盗んで必死で逃げ出しました。
何日も何日も、知らない道を走り続けて……
やっと江戸に辿り着いて、そこから僕は新しい人生を始めることができました。
幸い、今のところ里の人達に見つかってはいないけれど……
いつ捕まってしまっても悔いが残らないような、そんな生き方がしたかった」
「そうだったんですね……」
芭蕉の話を聞いて、感銘を受けた霧乃は
おずおずと芭蕉を見上げた。
「……お客様は今、幸せですか」
「幸せです」
「それは外の世界で自由に生きられているから、ですよね?」
「それもあるけれど……。
多分、曽良と一緒に旅をしているから
幸せだと思えるのかも」
「曽良?」
霧乃が首を傾げると、
「さっき座敷で一緒に居た人のことです」
と芭蕉が告げた。
「曽良は僕の幼馴染で、僕が困っている時にはいつも助けてくれて、
僕が迷惑をかけても見捨てることなく受け入れてくれて、
僕の話をたくさん聞いてくれる——
曽良と江戸で再会してから今にかけての時間が、
これまでの人生の中で一番幸せだと胸を張って言えます」
「お客様は、曽良殿と一緒に居ることが幸せに繋がっているのですね」
霧乃が微笑むと、芭蕉は
「それは間違いないです」
と笑顔で返した。
「……私もそんな風に、『この人といると幸せ』だと言える相手に、出会えるかな……」
霧乃はぽつりとつぶやいた。
「え?」
芭蕉が聞き返そうとすると、霧乃は突然、ぽたぽたと大粒の涙をこぼし始めた。
「っ、無理……ですよね。
そんな人と出会える訳ない。
だって私の身体は汚れてしまったもの……。
たとえ私がこれから先、胸を焦がすような相手に出会えたとしても——
相手はきっと、何人もの殿方に抱かれてきた私のことなんて
卑しい女だとしか思わない……」
「霧乃殿!」
芭蕉は、涙を零す霧乃の両肩に思わず手を乗せて言った。
「自分のことをそんな風に卑下しないで!
世界は霧乃殿が思うよりもずっと広いし、たくさんの人がいるんです!
もし霧乃殿が、霧乃殿のことを卑しいだなんて思う人しかいないと考えているなら
それは一部の人にしか未だ出会っていないから。
外に出れば、霧乃殿のことを心から慕ってくれる人がきっと居ます!
ううん、絶対に居る!!
だから、どうか希望を捨てないで」
芭蕉がそう言って励ますと、霧乃は手拭いで涙を拭いた後、震える声でこう言った。
「私を……、どうか私を、ここから連れ出してくださいませんか……?」
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