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第10話:花街の女②

——その頃、曽良は芭蕉の居る部屋とは離れた場所の個室で 座敷の戸口近くに座っていた女と顔を近づけて話していた。 「まさか、あなたがここを訪ねてくるとは思わなかったわ。 御上お気に入りの忍が、どうしてこんな みちのくまで赴いて来たのかと思えば……」 「ここへ来たのは偶然が重なってのことだが、店の名前を見た時すぐに気付いた。 この店は莉津が潜入している遊郭だと。 ——座敷で莉津と合流できたのは幸いだった」 「ふふ。女なら誰でもいいからと、連れ出しやすい戸口の近くにいる私に声をかけたように見せかけて——ね」 莉津と呼ばれた女は、おかしそうに笑みを見せた。 「用件は分かってる。 仙台藩の動向を探る為に来たのよね?」 莉津は、曽良と同じく幕府お抱えのくのいちであり、 仙台藩の不審な動きを警戒した御上が 以前より何人かの忍やくのいちを仙台に赴任させていたのだった。 そしてこの遊郭に身を隠して任務に当たっていたのが莉津である。 「ここにいると、藩の役人も訪れることがあるから沢山情報を拾えるわ。 私が得た話では、仙台藩主は奥州の結束を深める為という名目で定期的に近隣の藩と会合を開いているみたいね。 特に黒羽藩主とはここ最近で急速に接近しているのだとか」 「ここに来る道中、黒羽藩の配下の者に襲われた。 その黒羽藩と懇意にしているということは、やはり仙台藩は——」 曽良は、仙台藩が倒幕派の勢力であることを確信した。 「倒幕派志士が全部で何人いるかは分からないが…… 仙台藩主を抹殺するのは難しそうだな」 「あきれた。あなた一人で藩主の暗殺に臨むつもりだったの?」 莉津は驚いたように目を見開いた。 「武士の一人二人を殺すのと、一国の主を狙うのとでは全く難易度が変わるわ。 当然護衛は大勢つけているわけだし、 それに何より仙台藩には『彼ら』も付いてる。 ——あなた一人でどうにかできる集団じゃない」 「それでも、役目を任されたからにはやるしかない」 曽良が決意の固まった目で言うと、莉津はふっと笑みを零した。 「曽良はずっと変わらないのね。 責任感があって、強い。 ——だからあの頃、不思議だったのよね。 そんな優秀で周囲から期待されているあなたが、『彼』の尻を拭ってあげていたこと」 莉津は、グッと伸びをすると 布団の上に横になった。 「……彼、今はどこで何をしてるのかしらね? 長の一人息子で後継だったのに、その責任を放棄して姿を消してしまうなんて」 曽良は、莉津が話題にしているのが芭蕉のことだとすぐに察したが、 彼女は芭蕉と座敷で顔を合わせた時に気付いた様子を見せなかった。 恐らく、芭蕉が里を逃げ出した後に 成長して容姿も大人びて声変わりもしたことで 芭蕉が伊賀の金作と同一人物だとは結び付かなかったのだろう、と曽良は考えた。 だが、その方が好都合ではあった。 芭蕉が生きていることが万一里に知れたら、 忍を足抜けした芭蕉のことを里は許すはずがない。 加えて莉津の口ぶりから、芭蕉に対してあまり肯定的な見方をしていないように感じ取った為、 このまま芭蕉の正体は隠し通すべきだと判断した。 「さあ。里を出た者のことは、俺も分からない」 曽良が返すと、 「それもそうよねえ」 と莉津は頷いた。 「まあ、居なくなった人のことなんてどうでもいいんだけど。 ところで仙台藩を探る為に一人で旅して来たって言っていたけれど、 座敷で一緒に居たあの二人は何なの? 一人は店の主人と懇意にしているような話をしていたから、この土地の人なんでしょうけど」 「もう一人の方は、旅の道中で偶然知り合った俳人だ」 「俳人?」 「俳句を作るために旅をしているらしい」 「俳句を作る旅人と、どうしてあなたが一緒にいるの?」 「本物の旅人と行動している方が、周囲から見て自然に見えるからというだけだ」 「……ふうん。 彼らは別に忍仲間ってわけじゃないのね。 まあ歩き方や視線やらの所作が、忍らしくなかったものね」 莉津はそう言った後、徐に布団の端をめくった。 「じゃあ……さっき言った通り、 明日になったら私と通じている『黒脛巾組』の男を紹介するから—— とりあえず残りの時間は、ここで楽しんでいかない?」 曽良が顔を上げると、莉津は慣れた手つきで華やかな着物を脱ぎ捨てていった。 「あなたがここへ来た目的は女じゃないって分かっているけど、 折角だから女を楽しみたいでしょう?」 莉津は、曽良の側によると、そのまま肩にしなだれかかった。 「任務の為とはいえ、脂が乗った男や小汚い男の相手ばかりでうんざりしているの。 私だって、たまには癒されたいのよ」 莉津が曽良の襟元に手を差し込もうとすると、 曽良は彼女の手首を掴んでそれを制止した。 「毎晩客の相手をするのは大変だろう。 任務の為とはいえ、酷な役目を与えられた莉津には同情する。 だから今夜はゆっくり眠るといい。 俺は連れが戻ってくるまで座敷の方で待つ」 曽良はさっと立ち上がると、莉津が何か言うより早く個室を開けて出て行ってしまった。 部屋に取り残された莉津は、ぽかんと口を開けたまま しばらく呆気に取られていた。 ——曽良が座敷に戻ると、芭蕉の姿は無かった。 代わりにそこには加右衛門がおり、店の女達と酒を楽しんでいた。 「……おや!思ったより早かったですね。 どうです?店の娘と楽しめましたか?」 「お陰で有意義な時間を過ごせました」 曽良がそう答えると、加右衛門はパッと明るい笑みを浮かべた。 「そうでしょう? ——いやあ、曽良殿はツイてらっしゃる! 曽良殿が選んだ莉津という娘は、在籍期間が長くないにも関わらず、 彼女に虜になる男が後を立たないという話です。 どうも男を惹きつける術を知っているらしくて、 その方法を他の湯女達には決して語らないそうですが…… とにかく主人の話では、店の看板花魁となるのもそう遠くないだろうという話ですよ」 伊賀の里では、くのいちは男の忍者とはまた異なった術を仕込まれる。 体術や、人の心に取り入る術もある程度習うが 女という性を活かし、要人の警戒を解いたり 色仕掛けをするための手段を学ぶ。 莉津はその術に長けていたからこそ 曽良同様、優秀な忍として幕府お抱えのくのいちとなり そして遊郭への潜入を任されていたのである。 「……芭蕉はまだ出て来ていないですか?」 曽良が話題を変えるように言うと、加右衛門はこう答えた。 「いや、姿を見ていないので、まだ室内にいるかと。 ……芭蕉殿は曽良殿とは反対に、失敗しましたねえ」 「失敗、とは?」 「ああ、芭蕉殿が娘を選んだのは 曽良殿が出て行った後なので知らないですよね。 芭蕉殿は霧乃という娘と個室へ入ったのですが、 彼女は愛嬌がないので遊んでいても楽しくない、という噂しか聞こえてこないのですよ。 芭蕉殿がこういうところは初めてだと言うのなら、 もっと客をもてなす精神のある娘を見繕ってあげればよかったなと後から悔やんでおりました。 ……でも、中々出てこないところを見ると 案外芭蕉殿とは相性が良いのやもしれませんね」 加右衛門の言葉を聞いた曽良は、ふと 自分と違って芭蕉は、この店の遊女と正しい遊び方をしている最中なのだろうかと想像した。 これまで、芭蕉は人を好きになったことがないと口にしていたが、 恋心と性欲はまた別のものでもあり、 人によってはその二つは完全に切り離されていることもある。 芭蕉が初めて遊ぶ遊女との快楽に溺れている頃かもしれない。 そんな想像を思わずしてしまった曽良は、 途端に胃液が上がってくるような気持ちの悪さを感じた。 芭蕉だって人間なのだから、性欲はあるだろう。 ……けれども、芭蕉が見知らぬ誰かと今まさに行為をしていることを想像すると、なぜか気分が悪くなる。 小さい頃の芭蕉を知っていて、今でも純真な芭蕉が 性というものと結び付くことが想像できなかったから 自分の想像との乖離に違和感を持ってしまったのかもしれない。 それに俺は莉津と合流して情報を貰うという目的があったが、 芭蕉をあの場に残して来た時点では、 そこから先の芭蕉が店の娘とどうしようと 俺が口を出すようなことではないと考えていた。 別に芭蕉が誰と交わろうと、 彼の好きにすれば良い——と考えていたはずだったのに。 『曽良と旅ができて幸せだな』 優しい顔で芭蕉が微笑んでいた数日前のことを思い出す。 途端に気持ち悪さが増し、思わず口元を抑えた。 「そ、曽良殿?大丈夫ですか?」 加右衛門は、その場に屈み込んだ曽良の背中をさすってやった。 「酒は飲まれていないと思いますが…… もしかして店中に漂う煙管の匂いに当てられてしまったのかもしれないですね」 「……いえ。大丈夫です……」 曽良はゆっくりと身体を起こすと、 いつまでも戻ってこない芭蕉のことを考えながら 床をじっと見つめるのだった。 芭蕉が座敷に戻って来たのは、明け方近くなってからだった。 「まさか一晩中なさっておいでだったとは! いやあ、若いって良いですねえ!」 加右衛門と曽良が出迎えると、芭蕉は申し訳なさそうに二人に頭を下げた。 「待たせてしまってすみません! お店の方の話が上手だったので、つい話し込んでしまって——」 実際は、涙する霧乃を宥めた後 どうやって店を逃げ出すか、を細かく話し合っていたためだったが 加右衛門もいるこの場では、曽良にそんな話はできないと思い 適当に誤魔化すことにした芭蕉。 「おや?霧乃はあまり喋らない、大人しい娘だと主人から聞いていましたが——。 話が弾んだにしても明け方近くまで延長するとは…… 本当はあっちの方も楽しんで来られたのでしょう?」 加右衛門がにんまりと微笑むと、芭蕉は 「はは……」 と笑うことしかできなかった。 早く曽良と二人になって、これからのことを相談したい。 霧乃殿をうまく逃してあげて、彼女が働けるような昼の仕事を一緒に探す。 見つかるまでは連れ立って旅をする—— 霧乃を助けると宣言した以上、責任を持って彼女が一人でも生活できるところまで連れ沿ってあげたいと考えた芭蕉は 一刻も早く曽良にこのことを相談したかった。 「それじゃあ、帰りますかね」 加右衛門に連れられ家に戻る道中、 曽良は一度も口を開くことのないまま、前だけを見て歩き続けた。 芭蕉は、曽良がどこか疲れた表情を浮かべているように見えたため 彼が個室でどのように過ごしたのかが気になった。 僕はあまり知識がある訳じゃない。 だけど、遊郭で男女が個室で一晩過ごすということが どんなことであるかは理解しているつもりだ。 曽良がこんなにぐったりしたように見えるのは、 きっとそれだけ燃え上がっていたということで—— そう考えたところで、芭蕉は「そんなわけない」と自分に言い聞かせた。 曽良はかさね殿のことを大切にしていたようだし、 死別したとはいえ、出会ったばかりの女人との行為に夢中になるなんて不義理はしないんじゃないだろうか。 曽良のそんな姿は想像がつかない。 つかないけれども—— もしそうだったとして、僕がもやもやと考える必要がある? 曽良が女の人と遊んだり、これからまた誰かを愛することがあったとして、 それは曽良にとって悪いことではないはずだ。 これまで里や組頭の命に従って 苦しい思いをたくさんして来た曽良には 幸せに生きて欲しいと思っている。 曽良が女の人と関わることで楽しく生きられるとするなら それは喜ぶべきことじゃないか……。 芭蕉は結局、家に着くまで自分の中の考えを整理できなかった。 とにかくまずは霧乃のことを相談しなければと考えた芭蕉は、 加右衛門が自分の寝室に去って行ったのを見送り二人になった後、 早速曽良に切り出そうとした。 だが、曽良は客間に戻るなり布団を被ってしまった。 いつもならば辺りを警戒し、罠や、つけて来た人がいないかを調べてから眠る曽良。 芭蕉もそれほど寝つきが良い訳ではないが、布団に入るのはいつも芭蕉が先だったため 部屋に着いてすぐに眠ろうとしている曽良に面食らってしまった。 「っ、ねえ……曽良」 芭蕉は、それでも早めに相談しなければと、気を遣いながら曽良に話しかけた。 「話があるんだけど……今いいかな?」 すると、やや間を置いてから、曽良の返事が戻ってきた。 「ごめん。今日はもう疲れたから、話は明日にして欲しい」 「っ、そっか。ごめんね……」 疲れた、と言うのは—— お店の女人とそれだけ激しい夜を過ごしたから、ということだろうか……。 気になってしまった芭蕉は、もはや霧乃についてよりも 曽良のことが気になってしまい、思わず続けて言った。 「あのさ、曽良……」 「……何?」 「その——どうだった? お店の人と……楽しかった……?」 すると曽良は、ぴくりと身体を揺らした後 低い声でこう返した。 「……そういう芭蕉こそ、朝まで戻って来なかったじゃないか。 延長してまで、随分と楽しんで来たんだろう?」 そう返された芭蕉は、びくっと肩を揺らした。 「……ぼ、僕は曽良に聞いているんだよ? どうして答えてくれないの」 「芭蕉はどうだったかって、俺も今聞いてるだろ」 「先に聞いたのは僕だよ! それに——僕はお店でのことを曽良に話そうと思っていたから声を掛けたんじゃないか。 それなのに……なんだかそんな気持ちになれなくなったよ」 「別に、無理して感想を述べる必要なんてないんじゃないか? 芭蕉は俳句を詠むという目的があるから、 遊郭で遊ぶのも芸の肥やしになるだろうし 思ったことは俳句にしたためておけばいい」 「っ、俳句はそういうことを詠む為に作ってる訳じゃないよ!」 「でも、歌も俳句も色恋に纏わる作品が昔から多いと話していたのは芭蕉だろう?」 「——僕は違うよ!!」 芭蕉は思わず声を張り上げて言った。 「どうして……。 曽良は僕が、美しい景色を見た時や感動を覚えた時に、句を作っていたのを見てきたでしょう? どうして僕が、女の人と遊ぶことを芸の肥やしにすると思ったの?」 すると曽良もこう返した。 「芭蕉こそ、俺が遊女と遊ぶ為に旅を続けている訳じゃないと分かるだろ。 どうして俺に『楽しかった?』なんて聞けるんだ?」 「それは……曽良がとても疲れて見えたから……。 僕にはよくわからないけど、女の人と交わるのは身体が疲れることなんでしょう?」 「俺が疲れているのは、明け方まで楽しんでいた芭蕉のことを寝ずに待っていたからだ!」 「僕は楽しんでいたわけじゃないよ! 待たせてしまったのは本当に申し訳ないと思っているけど、 何も聞かないうちから僕のことを決めつけないでよ!」 二人とも言い争う声が激しくなっていき、 途中から、どうして自分は相手とここまで揉めているのだろう、と 互いに分からなくなっていった。 「俺が女と遊んでいたと、最初に決めてかかってきたのは芭蕉の方だろう?」 「そもそも、曽良はあそこがどんなお店かを知っていたのに 僕が店に入るまで何も言ってくれなかったのはどうなの? 僕が戸惑っている間にも、相手を決めて僕を置き去りにして行ってしまったし!」 「あそこに連れて行ったのは加右衛門殿であって、 俺が店のあらましを説明する義理なんてなかったろ。 実際、加右衛門殿がどんな店かを芭蕉に教えた訳だし。 ——それを言えば、芭蕉が加右衛門殿のもてなしを受けると返事をしなければ こんなややこしいことにもならなかったろうに」 「……う……!」 「俺は初めに言ったよな? この町で親切にしてくる人には警戒しろと。 それなのに芭蕉は誘われるがままに加右衛門殿の家に着いて行って——」 「僕の行動が不満だったなら、その場で僕を止めてよ!」 芭蕉は声を張り上げて曽良に反発した。 「どうして曽良は僕を泳がせるようなことをするの? 僕の選択が誤りだと感じたなら、そこで僕を引き留めてくれたっていいじゃないか!」 すっかり日が昇るまで言い合いを続けた二人。 お互いに対して、これまで不満を抱くようなことは無かったのに これまで気にならなかったはずの互いの言動に対して 揚げ足をとるような押収を繰り広げ、 段々と心がすり減っていくのを感じた。 普段、怒りや苛立ちをぶつけ慣れていない芭蕉はとうとう 曽良と言い合うことにくたびれ果ててしまった。 「……どうしてこうなってしまうんだろう。 僕はただ、曽良が楽しくて幸せでいてくれたら、それで良いと思っていたのに。 曽良が女人と遊んでいたことを想像したら、 なぜか曽良を責めるような言い方しかできなくなってしまった。 曽良が何をしようと、誰を思おうと 友人である僕が口を出せるようなことじゃないのに……」 芭蕉は床に座り込みながら、一筋の涙を流した。 「曽良は大切な幼馴染なのに…… どうして僕は、曽良を怒らせるようなことを言っちゃうのかなあ……? どうして僕はいつも、曽良の足を引っ張ったり、苛立たせてしまうんだろ。 本当は曽良の役に立ちたいし、喜ばせたいと思ってるのに……」 芭蕉がそう言って俯くと、曽良も声を落として言った。 「俺は別に、芭蕉に何か迷惑をかけられたなんて言ったことがないし、思ってもいない。 それに俺だって、芭蕉が楽しく過ごしてくれた方が嬉しい……はずだった。 だけど——」 曽良は、自分の手のひらをぎゅっと握り締めながら呟いた。 「俺じゃない誰かが芭蕉を楽しませていることを想像すると、なぜだか腑に落ちない。 俺は芭蕉のことを小さい時から知っているし、 芭蕉を守るのは俺の役目だと思っていたから……。 芭蕉を喜ばせることができるのも俺だって、勝手に思い込んでいた節がある。 だから、芭蕉が俺の知らないところで楽しんでいたことに胸がざわついてしまった。 変だよな、元々何年も離れて生きてきたのに」 曽良は座って芭蕉と向き直ると、頭を下げた。 「芭蕉に対して当たり散らすなんて、らしくないことをしてすまなかった」 「……曽良」 芭蕉は、曽良の頭をそっと上げさせると 「僕こそごめん」 と謝った。 「僕……近頃自分の考えていることがよく分からない。 僕にとって曽良は一番身近な存在で、頼りにしていて、尊敬してる。 そんな曽良には誰よりも幸せでいて欲しいと思いながらも、 一方で曽良が幸せになることを望んでいないようで、 自分の感情が整理できなくなってしまった」 「……芭蕉」 曽良は、自己嫌悪に落ち込む芭蕉の肩にそっと手を乗せた。 「うまく言えないけど……俺の心のうちも、大体そんな感じだ。 とにかく——これ以上、芭蕉と言い争いたくない。 でも、俺は人と喧嘩をした時の仲直りの仕方を知らないからどうしたらいいか戸惑っている。 そもそも誰かと喧嘩をしたいと思うほど、 他人に対して執着することがあまりなかったから。 ……芭蕉のせいだ。 芭蕉のせいで、俺は俺らしくなくなってしまった」 「うん……僕のせい、だよね。 ごめんね……」 「——もう謝るな」 曽良はそう言うと、芭蕉の頭を撫でた。 芭蕉は曽良の行動にはじめ戸惑ったものの、 じんわりと心に多幸感が生まれていった。 「……僕、『しのぶもぢずり』がどういう気持ちを表しているのか、分かったような気がしたよ」 芭蕉は、曽良の手が離れていくとき、思わずそう告げた。 「——しのぶもぢずりのように、心が掻き乱される様って、今日感じたような気持ちなんじゃないかなって」 「芭蕉——」 曽良は芭蕉の涙を拭おうと手を伸ばしかけて、ぴたりと止まった。 しのぶもぢずりのように心が乱れる様—— 心が乱れていたのは俺も同じだが…… しのぶもぢずりとは、恋慕う心をたとえた表現じゃなかったか? 芭蕉の言葉の意味は…… つまり俺に対して—— 『芭蕉、今の言葉は どういう意味で言ったんだ?』 曽良はそう聞き返したかったが、 芭蕉から返ってくる言葉を聞くのが怖いような思いもして声が出なかった。 代わりに、芭蕉の言葉の意味について様々な可能性を巡らせた。 人を慕うと言っても、仲間や友人としてだったり あるいは俺たちのように幼い頃から一緒にいれば兄弟にも似た親しさを覚えたりもする。 そんな近しい相手が普段と違う行動を取ったり 言い争って心を掻き乱されることがあれば それもまたしのぶもぢずりという例えに…… それとも、—— 曽良は、芭蕉の言葉の意味を考えると同時に、 自分の気持ちにも疑問を感じた。 俺も芭蕉は大切な存在だ。 だけどこの感情は友として、そして昔馴染みの情として来る親しみであって—— そして次に、曽良の脳裏にはかさねが浮かんできた。 かさねのことは、守ってやりたい、大切にしたいという感情と同時に 抱きたいという衝動的な思いに駆られることがあった。 あの衝動的な欲求が、俳句にも歌われるような『恋』というものならば 毎晩隣で寝ている芭蕉に対してそういう衝動を起こさないということは これは『恋』ではない—— 「……ありがとう」 長い沈黙の後に、曽良から出てきた言葉はそれだった。 「すまなかった。芭蕉は俺のことを大切に思ってくれているのに、 俺はつまらないことで突っ掛かってしまった」 「ううん、僕が悪かったんだ」 芭蕉が返すと、曽良は仕切り直すように咳払いをして言った。 「さっきは俺も感情的になっていたせいで、きちんと話せていなかったけれど……。 俺があの遊女を選んだのは、彼女が俺の仲間だから——だ」 「え?」 芭蕉は、唐突な曽良の話にきょとんとした。 「仲間?」 「そう。御上に召し抱えられているくのいちで、仙台藩の動向を探るために遊郭に潜入しているんだ」 「……そうだったんだ!」 だから、曽良はあの店が何なのか分かった後も帰ろうとはしなかったんだ。 あそこに潜入している仲間からの共有を貰うために 曽良はお店の人と個室に消えていったように装って—— 「だから、俺は……芭蕉が思うようなことは何もしていない」 曽良がそう言い切ると、芭蕉はどこかほっと心が軽くなるのと同時に 自分もきちんと誤解を解かなければという思いに駆られた。 「あのさ、曽良……。 僕の話も聞いてくれるかな? 大事な相談があるんだけど——」

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