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第11話:伊達綱村暗殺計画①
——翌朝、二人は一睡もできないまま加右衛門の呼びかけで寝室を出て来た。
遊郭にいる女を逃すのを手伝って欲しい。
彼女の働き口を見つけるまで、共に旅をさせて欲しい。
芭蕉がそう訴えかけた時、曽良は驚き呆れるよりも先にこう尋ねた。
『まさか、そこまでしてやりたいと思うほどに
芭蕉はその遊女に惚れ込んでしまったのか』
芭蕉は、そうじゃない、ただ彼女の境遇を聞いてどうしても助けてあげたくなっただけだと必死に弁明した。
曽良は、渋い顔をしながらも最終的に
ある条件を飲めば受け入れる、と答えた。
『条件というのは、俺のここでの仕事が終わるまではできるだけ騒ぎを起こしたくないから
逃すとしたらその後で、だ』
曽良はそう言った。
遊郭から女一人を逃すことは、曽良にとっては造作もないようなことに思えたが、
そこで遊女を逃す手引きをした男として噂が立てば悪目立ちをしてしまう。
それに今日は、莉津の手引きで黒脛巾組の者と会うことになっていたため
霧乃を逃す作戦は最後に回したいと曽良は告げたのだった。
「それじゃあ、二人ともお元気で」
「何かとお世話になりました」
「加右衛門殿、本当にありがとうございます!
いつか文を送りますね!」
結局、加右衛門が怪しいそぶりを見せることはなく
純粋に世話好きで金周りの良い男だったらしい。
何事もなく、加右衛門に見送られて二人は家を出た。
家を出て少し歩いてきたところで、芭蕉は曽良に尋ねた。
「今日これから落ち合う、『黒脛巾組』の者って?」
「黒脛巾組というのは、仙台藩が抱えている忍の集団だ」
「なるほど、忍——えっ!?」
芭蕉は納得しかけて、ぎょっと目を見開いた。
「仙台藩の忍?それって敵じゃないの!?」
すると曽良は「そうだよ」と即答した。
「でも、幕府が従える忍の集団とは少し違う。
こちらは徳川幕府初代の家康様の代から仕えている
伊賀の忍の者しか雇われていないのに対し、
黒脛巾組は藩主が日本各地から集めてきた集団。
血や縁などは関係なく、金で雇われた忍達だ」
曽良は、つまりは金さえ積めば
比較的容易に寝返らせることも可能である、と芭蕉に説明した。
「これから会う者には、幕府の仕事を手伝えば
御上が高い報酬を支払うことを、莉津を通じて約束させているとのことだ。
だから敵の集団に居るが、味方だと思っていい」
「でも……お金で動くような相手のことを、信用していいのかなあ」
芭蕉が不安げに言うと、曽良はこう告げた。
「そりゃ、端金程度では危険な橋を渡ろうとは思わないだろう。
けれど、みちのくの藩はどこも財政難。
仙台藩主が雇っている額では、贅沢をして暮らすことはまずできない。
対して幕府には金が集中しているから、金払いが良いことは黒脛巾組じゃなくても理解できるだろう。
……まあ、奥州と江戸でそれだけの金銭的格差があるということは、
不満を募らせ倒幕派となる志士が多くいても仕方のない話だ」
「なんだかさ……、何もしていない僕が言うのも違うかもしれないけど……」
曽良の話を聞いた芭蕉は、思わず感じたことを口にした。
「今の幕府のために、曽良が命懸けで志士達と戦っても
これから先の日本がもっと良くなることはあるのかな……?」
「さあな」
それに対して曽良はあっさり告げた。
「それは俺達が考えてもどうしようもない。
国を動かしているのは幕府なんだから」
「その幕府が信用に足る言動をしてこなかったから、
倒幕派志士が増えたんじゃないの?」
「そうだろうけど、俺たちが考えても仕方のないことだと言っている」
「曽良は、それでいいと思ってる……?」
芭蕉が問うと、曽良は歩みを止めて芭蕉を見た。
「じゃあ、それで良くないと思ったとして
俺が何をしたらこの国は変わるんだ?」
「それは……わからないけど」
芭蕉がまごつくと、曽良は再び歩きはじめながら言った。
「俺だって、御上の政治が正しいだなんて思ってない。
かといって倒幕派の肩を持つ気もない。
どちらが正義か悪かなんてどうでもいい。
日本が良くなろうが悪くなろうが、俺が忍として生きることには変わりない。
どうせ、この旅が終わったら——」
この旅が終わったら。
倒幕派志士を抹殺して江戸に戻れば、俺は組頭にこれからも忍として使い古されていくことだろう。
もしくは、この旅で命を落とすかもしれない。
今は芭蕉と旅を続けることを目的に生きているけれど、どのみち俺には忍として生きる以外の道はないのだから
この国がどうなろうと俺の知ったことではない——
「……じゃあ曽良は、僕がこれから
今より悪くなった日本で生きていくことになっても構わないと思う?」
「——突然、何を言い出すんだ?」
「僕は嫌だよ。
僕の大切な人……曽良が、暗い世界で生きていかなきゃならないなんて」
「……」
芭蕉の言葉に、曽良は言葉を失った。
確かに、俺一人のことならばどうだっていいが、
俺も芭蕉が生き辛い思いをするのは嫌だな。
「——俺は……」
曽良が言葉を紡ごうとしたその時、
背後から若い男の声が聞こえてきた。
「俺も暗い世界で生きるのは嫌だねえ」
芭蕉と曽良が咄嗟に振り返ると、
二人の真後ろにはいつのまにか一人の青年が立っていた。
「俺、どうせ人間いつか死ぬなら
楽しく贅沢に生きた方が得だと思ってるんで。
世の中を治めるのは誰であっても構わないけど、明るい日本にして欲しいものだな」
「あなたは……もしかして」
どこか飄々とした佇まいの青年に、芭蕉は話しかけた。
「あなたが、僕たちに協力してくれるという黒脛巾組の……?」
「そ。俺が黒脛巾組の謀反者。
名は佐々木左近、よろしくな」
「佐々木左近……殿」
芭蕉が「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げると、
曽良がすかさず左近に尋ねた。
「まずは俺たちの味方だという保証が欲しい」
「俺が動く原理は至って単純だよ。
金をより積んでくれる雇い主のために働くだけ。
俺に味方でいる保証をして欲しいなら、それだけの額を積めばいい」
左近はニッと笑みを浮かべた。
「莉津からも、そう聞いてるでしょ?」
——左近と合流した芭蕉と曽良は、
早速人目につかない場所でこれからの計画を練った。
「仙台藩の藩士が、皆揃って倒幕派の思想を持つ訳じゃない。
だけど藩主は、みちのくの武士達を結集して幕府を攻撃する計画を練っているみたいだから
本人の意思はどうあれ、指示が出たら皆倒幕に向けて動き出すだろうね」
黒脛巾組——仙台藩お抱えの忍衆は、
全国各地に赴任して日々情勢を調べており
倒幕を実行するのに最適な段階を見極める為に派遣されているのだと左近は語った。
「そういうわけだから、仙台の城下に残っている黒脛巾組というのは実はごく僅かなんだ。
ただ、藩主のことは腕の立つ剣士が護衛についているし
殺すのはそう簡単にはいかないだろうね」
「簡単かどうかは問題じゃない」
曽良は頷いてみせた。
「相手が藩主であっても、倒幕派志士ならば抹殺するのが俺の役目だ」
「……曽良だっけ?
あんたからは、凄い気概が感じられるけど……」
話をしていた左近が、ふと視線を変えて言った。
「隣にいる、芭蕉とかいう彼はどうなの?
さっき会話を盗み聞きさせてもらった感じじゃ、幕府にも倒幕派にも付かない姿勢のようだけど」
左近が芭蕉の方を見て言った。
「途中でひょんな気を起こして、君や俺と袂を分かつようなことにはならない?」
「それも問題ない」
曽良は即座に答えた。
「芭蕉が幕府・倒幕どちら側の思想であったとしても、
戦闘には加わらないから関係ない」
「っ……。ごめん……」
芭蕉が、遠回しに戦力外だと言われた気がして思わず謝ると、
曽良は芭蕉の落ち込みを察して付け足した。
「……芭蕉はどちらの味方でもなく、俺の味方だ。
俺が幕府・倒幕どちらの派閥にいたとしても
芭蕉は俺と一緒に居てくれるだろ?」
「——うん!」
芭蕉は曽良の言葉を聞いて嬉しくなり、にっこりと頷いた。
「はあ。仲がよろしいようで……」
左近はやれやれといった様子で苦笑いを浮かべた。
「じゃ早速本題だけど、綱村様に護衛がついていない頃合いを見計らって、あんたに知らせればいいよな?」
「途中で邪魔が入らないよう、人払いも頼む」
「分かった。殺るのはあんたの仕事で、俺はその補佐って役割さえ明確に出来ていればいい」
左近は仙台藩主・伊達綱村を暗殺する手筈を一通り曽良と話した。
「藩主さえ殺せば、伊達家や家臣達は混乱し
暫くの間は倒幕の機会を逸するだろう。
倒幕派志士は多くいるだろうが、幹部の首さえ取れたら仙台での目的は達せられるはずだ」
最後に曽良が言うと、黙って彼らのやりとりを聞いていた芭蕉は不安そうに口を開いた。
「伊達綱村殿を殺害したとしても、この旅は続くんだよね……?」
「そうだな。ここまで奥州を旅してきたが、
仙台藩と密談を交わしているという羽州の倒幕派志士達も潰さなければならないだろう」
「……本当に、長い旅になりそうだね」
芭蕉が言うと、曽良は
「出立前にも告げたように、旅が辛くなったら、芭蕉は江戸に戻って構わない」
と告げた。
「僕は長い旅になっても構わないんだけれども——
そんなにずっと戦い続けていたら、曽良の心身がすり減ってしまわないか心配になるよ」
「そう思うなら、あんたも倒幕派志士抹殺に協力すればいいだろ?」
すると横で聞いていた左近が言った。
「……僕は、人を殺すことができない……」
芭蕉は声を落として言った。
「殺せるだけの技術を持ち合わせていないし、
殺してしまったら、僕の心が保たなくなると思うから——」
「そんな辛い作業を、あんたは曽良一人に任せて手伝おうとは思わないんだな」
「芭蕉に絡むのはやめろ」
曽良は左近に対し冷たく言い放った。
「倒幕派志士を抹殺するのは俺が与えられた使命であり、
俺の意思でその使命を継続しているだけだ。
芭蕉には俺の手伝いをする義務なんてない。
ただ一緒に旅をしているだけで、
俺は芭蕉の力を貸して欲しいと望んだことはない」
「はいはい、通りすがりの俺なんかが口を挟んですいませんね」
左近がへらっと笑うと、芭蕉が「ところで」と尋ねた。
「左近殿はお金さえ沢山手に入れば満足なんですか?」
「言ったろ。俺は贅沢に暮らしたいだけだって」
「贅沢って……美味しい食べ物を沢山食べて、大きいお屋敷に暮らすとか?」
「っ、はは……!あんた、発想が子どもだなあ……!」
左近は芭蕉の言葉を聞いて腹を抱えた。
「俺が大金を手にしたら、まずは賭博に興じるね。
で、遊郭でとびきり良い女捕まえて身請けするかな」
身請け、という言葉を聞いて芭蕉はどきりとした。
遊女が遊郭から出るには、身請けされるしかない——
霧乃が言っていたことを思い出す。
もし、左近殿が霧乃殿のことを気に入ったら
霧乃殿を身請けして外の世界に連れ出してくれるだろうか。
でも、身請けされるということはその相手と夫婦になるということで、
霧乃殿がもし左近殿を好かなかったとしても
ずっと添い遂げなければならない。
それは霧乃殿にとって幸せなことだろうか?
でも、霧乃殿は外に出ても働く手段がないと不安そうにしていたから
左近殿が霧乃殿を大切にしてくれるなら、
安心した暮らしを送ることはできるかもしれない。
……って、まだ左近殿が霧乃殿を身請けしたいなんて言った訳でもないのに
勝手に何を想像しているんだ、僕は……
「賭博はどうか知らないが、遊女を身請けするにはかなりの額を納める必要があると聞いたぞ」
芭蕉が黙って考え込んでいると、ふと曽良が口を開いた。
「まあな。店で一番の花魁ともなれば
そりゃもう産まれたところからやり直さなきゃいけないくらいに
俺には縁遠い金持ちしか身請けできないだろうけどよ。
花魁以外の遊女なら、その遊女が一生かかって稼ぐだけの金を積めればいい」
「それだってかなりの額じゃ……」
「まさか、俺たちがこの仕事の報酬に
遊女を身請けできるだけの額を積むとでも思ってるんじゃないだろうな?」
芭蕉と曽良がそれぞれに言うと、左近は「まさか!」と言って笑った。
「さすがに暗殺の手助けでそこまで絞り取ろうとは思っちゃいないさ。
俺はこれまでにも、藩主の目が届かない所で色々稼いで貯めてきたんだよ。
ま、そのうちの幾らかは賭博でスッちまったんだけど、
今回の仕事が終わったら忍を辞めて遊女を身請けできるくらいの額なら貯まるんだわ。
やっと黒脛巾組から足を洗えるって訳だ」
左近はどこか浮き足だったような様子で言った。
「だから、早いところ暗殺を済ませて
俺の仕事を終わらせてくれよな!」
——その晩、仙台城の近くで身を隠していた曽良の元に
城からひっそりと出てきた左近が合流した。
「少し前、綱村様は寝室に向かった。
就寝中は一人見張りを付けているが、さっき俺が睡眠薬入りの飲み物を差し入れして眠らせた。
護衛の奴らも離れた場所でもう休んでいるし、今なら狙い放題だ」
「綱村の寝室はどのあたりだ?」
「北の塀を越えてすぐだ。入口の向かいに桃の木が植えてあるから、それを目印にするといい」
「分かった、ありがとう」
曽良は左近に礼を言うと、足音を消して仙台城へと近づいて行った。
「曽良、大丈夫かな……」
曽良が城へ向かって行った後、その場に残った芭蕉が不安そうに呟いた。
「そんなに不安ならついて行けばいいのに」
「僕じゃかえって足を引っ張っちゃうから……」
「ま、それもそーか」
左近はあくびを一つすると、煙管を取り出して一服を始めた。
「あ、その匂い……遊郭でも漂っていた匂いだ」
芭蕉が、嗅ぎ覚えのある匂いに思わず呟くと、左近が少し驚いたように目を見開いた。
「あんた遊郭に行くような柄に見えなかったけど」
「あっ、違うんだ!
その、仙台藩についての情報収集をするために……ちょっとね!」
「ついでにちょっと女もつまんでみたのね」
「そんなことしてないよっ!」
芭蕉は顔を赤くして否定した。
「僕……人生の中で女の人と関わること自体、ほとんどなかった。
小さい女の子なら、学問を教えることもあったけど……。
だからどう関わればいいのかもよく知らなくて——」
「ふうん」
左近は煙を燻らせながら、ニッと笑みを浮かべた。
「女はいいぞお。
気持ち良くなれるし、めんこい女ならば見ているだけでも癒されるしな」
「めんこい、って?」
「こっちの地方で言う、可愛いとか綺麗とかって意味」
「へえー。可愛くて綺麗な女の人を見ていると癒されるのか……」
「あんた、遊郭でめんこい女を一人も見なかった?」
「ええと、みんな綺麗な人たちだなとは思ったけど……。
癒されるというより、緊張したかなあ……」
「ははっ!なるほど、あんたが女を知るのはまだまだ先になりそーだな!」
左近が笑っていると、なにやら城の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「侵入者だ!!」
「殿の部屋の方へ向かったぞ!」
「城の者は全員起きて曲者を捕らえろ!」
「えっ……!?」
芭蕉が、城の中から聞こえる何人もの叫び声にハッと目を見開くと、
その隣で左近がバツの悪そうな表情を浮かべた。
「いっけね……。
見張りの奴が途中で別な奴と交代するってこと、すっかり忘れていたわ……」
睡眠薬入りの差し入れを飲み、眠り込んでいた見張りの元に
交代の見張りがやって来た時と
曽良が塀の内側に侵入したタイミングが運悪く重なってしまい、
曽良はすぐさま見つかってしまった。
次々と仙台藩の兵達が集まって来たため、
曽良は綱村暗殺を断念し、その場を退散しようとしたが——
逃げるより早く兵に囲まれた曽良は
覚悟を決め、彼らと戦うことを選んだ。
——それから暫く、曽良一人で大勢の兵と対峙した。
一度に何人もが斬りかかって行っても
誰一人として曽良を討ち取ることができず、
曽良に返り討ちにされていった。
その脅威的な強さに慄いた兵の一人は
寝室の中で警護されていた綱村の元へ駆け込むと、こう懇願した。
「あの忍、只者ではございません!
我々ではまるで歯が立たず……。
どうか、奴と同じ忍である黒脛巾組を招集する許可を!」
——曽良が、その場に集まっていた兵のほとんどを斬り捨てた頃。
突然、音もなく四方を取り囲まれる。
その独特な気配に、曽良は彼らが武士ではないことをすぐに悟った。
「藩主の首を狙うのに単身乗り込んでくるとは度胸のある男だ」
気配のする闇の奥から声が聞こえたと思った瞬間、
曽良手がけて小さな何かが迫って来た。
すんでのところで曽良がそれを避けると、闇の方から拍手をする音が聞こえてきた。
「手裏剣を避けられる身のこなし——やはりお主も忍か」
「……黒脛巾組だな」
曽良はごくりと唾を飲み込むと、自分を取り囲む影たちを見渡した。
影たち——黒脛巾組の忍たちは、皆がそれぞれに手裏剣を構え、鋭利な刃先が月明かりに照らされている。
手裏剣単体の殺傷能力はそれほど高くないが、
同時にそれを投げられれば避けることは難しく、当たりどころによっては戦闘を続けることができなくなるかもしれない。
まずいな……
曽良が冷や汗を流した時、突然辺りに煙が広がった。
黒脛巾組たちは、あっという間に曽良の姿が煙の中に消えてしまったため
狙いを定めることができなくなった。
「煙玉を投げ込んだ者が近くにいるらしい」
「さすがに仲間がいたか」
「煙が消えたら半数は城の内外を隈なく探せ。
もう半数は綱村様の警護に回るのだ」
黒脛巾組たちが、互いの姿も見えないままそう話しているのを横目に
曽良は塀へ向かうと、鉤縄を使ってどうにか城の外へと脱出したのだった。
——曽良が塀の外に出ると、涙顔の芭蕉と
煙玉の予備を手に持っている左近の姿があった。
「曽良っ……!良かった、無事だったんだね!」
「芭蕉、すぐにここを離れるぞ」
「えっ?もう用事は済んだの?」
「厄介なことになった。一旦退いて仕切り直す」
曽良は芭蕉の手を掴むと、全速力で城下町の方へ駆けて行った。
暫く曽良と芭蕉、そして左近は走り続けていたが、
曽良は昨晩訪れた遊郭の前で足を止めると、息を整え店の暖簾をくぐった。
「えっ!ここに逃げ込んで大丈夫なの?!」
芭蕉は曽良の行動に目を丸めたが、曽良は
「土地勘のない町で、他に隠れられる場所を知らない」
と返した。
「おや、あなた方は加右衛門の紹介で昨日お越し下さった……」
曽良達の姿を見た店の主人が声を掛けてくると、
曽良は有無を言わさぬ速さで主人に何かを握らせた。
「俺たちが今夜ここに来たことを誰にも漏らさず、すぐに空いている部屋へ通して欲しい」
「っ!……わかりました」
主人は手の中を見て目の色を変えると、すぐに三人を奥の部屋へと案内してくれた。
「——なあ、さっき主人に何を握らせてたんだよ?」
個室に通され、ようやく一息ついた後
左近が曽良に尋ねてきた。
「……左近に払う予定だった報酬を全額主人に渡した。
あれだけ渡せば主人の口も硬いことだろう」
「っ、はああ!?」
左近は顔を真っ赤にして叫んだ。
「あんたなんて事してんだよ!?
じゃあ俺にいくら支払うつもりで——」
「一銭も渡せるか!!
誰のせいでこんなことになったと思ってる!?」
曽良は左近を睨みつけた。
「……悪かったよ、見張りが交代するってことをすっかり忘れてたんだ。
——でも、さっき俺が煙玉を投げ込んだおかげで助かったろ?」
「そもそも……っ」
言い訳をする左近に曽良が言い返そうとした時、曽良はくらりと目眩を起こし、そのまま畳の上に倒れ込んでしまった。
「曽良?!どうしたの、曽良……!!」
芭蕉が慌てて曽良の身体をゆすると、左近はハッとしたように目を見開いた。
「やべえ、毒にあてられたらしい」
「毒!?」
芭蕉が目を丸めると、左近が青ざめた表情で言った。
「耳の端が少し切れて血が出ている。
恐らく毒の塗られた手裏剣を投げられて、僅かに掠ってしまったんだ。
それが今になって体内に巡って来たんだろう——」
「そんな……!どうしたらいいの?!」
芭蕉は目に涙を溜めながら、苦しそうな表情で呼吸をしている曽良を見つめた。
「黒脛巾組の使う毒の種類は決まっている。
万一に備えて解毒薬も作られている——が、
俺はそれを持っていない……」
「ええ……!?」
芭蕉は、話している間にも弱っていく曽良を見ていられず
立ち上がると、個室の戸を開けた。
「誰かっ、助けてください——!!」
遊郭の廊下で突然叫んだ芭蕉を見て、左近はギョッと顔を上げた。
「あんたっ……こんなとこで叫んだら、俺らの行方を追ってる黒脛巾組に見つかっちまうぞ!?」
「見つかる前に曽良が死んじゃうかもしれないんだよ!?
——お願いします、誰か助けてください!!
僕の大切な友人が毒を盛られて死にそうなんです——」
芭蕉の叫び声を聞いた者達は、何事かと個室の戸を開け
怪訝そうな表情で芭蕉に視線を向けた。
「なんだあ?酔っ払いか?」
「違いますっ、友人が毒のせいで死にかけているんです!
解毒薬が今すぐに必要なんです——」
「毒ぅ!?
切り傷ならともかく、解毒薬なんて持ってる奴がここにいるかよ!」
「お願いします、曽良を助けて——」
皆、解毒薬と言われても持ち合わせているはずがなく
困惑した表情で芭蕉を見ていたが、
少し遅れて戸が開いた個室から、一人の遊女がこちらの方へ歩いて来た。
「あんたうるさい、早く中に入って」
「えっ、あの、でも友人が——」
「解毒薬がいるんでしょ?早くここを通しなさいよ」
遊女は部屋の入り口に立っていた芭蕉を押し退けると、
中で苦しそうに呼吸をしている曽良の元へ歩み寄って行った。
そして着物の中から何かの粉末を取り出し
自分の口の中に含めると、曽良に顔を近づけ
そのまま曽良の口を塞いでしまった。
突然の行動に、芭蕉も左近も唖然としていると
遊女は口付けをどんどん深め、曽良の体内に粉末を流し込んでいった。
——暫くして遊女が唇を離すと、浅くなっていた曽良の呼吸が戻り、顔色も良くなっていった。
だが、戦闘の疲れもあったせいか
そのまま寝息を立てて眠り始めてしまった。
「……大丈夫だったみたいね」
遊女が呟くと、芭蕉はへなへなとその場に座り込んだ。
「良かった……、良かった曽良ぁ……!」
芭蕉がぽろぽろと涙を流しながら喜んでいると、
遊女がくるりと振り返り、芭蕉に冷たい視線を向けた。
「——馬鹿じゃないの?
解毒薬も持ち歩かず黒脛巾組と対峙するなんて」
「っ、あ……」
「昨日は気付かなかったけど……やっぱり間違いない。
あんた——金作でしょ?里長の息子の」
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