16 / 18
第16話:夏草や兵どもが夢の跡②
「あなたの話を聞いてよく分かりました」
すると桃雪は、静かに立ち上がった。
「仕事を得ることも、お金を稼ぐことも簡単なことではありません。
私も本意ではない仕事を沢山してきたので、金を稼ぐ大変さは理解しているつもりです。
——けれどあなたの言い分は何も筋が通っていない。
世間を知らない娘だと思うのなら、調教ではなく教育をしてあげればよいこと。
そもそも彼女があなたの性の相手をすることは、雇用時点で合意があった訳ではないでしょう。
あなたが霧乃殿にしていることには何の正当性もない」
「っ……!」
主人は唇を噛み締め、芭蕉はハラハラとその様子を見守っていた。
「御主人が自分の行動を省みないのならば、
霧乃殿はここにいても不幸になるだけだ。
——霧乃殿」
桃雪は、霧乃の肩にそっと触れた。
「私達と一緒にここを出ましょう」
「え……」
霧乃が驚いたように顔を上げると、桃雪は霧乃と目を合わせて微笑んだ。
「あなたのことは、私が責任を持って助けます。
私を信じてついて来てくれますね?」
桃雪に見つめられた霧乃は、みるみる顔を赤く染めながら
「……はい」
と呟いた。
桃雪は、羽織を纏った霧乃を立ち上がらせると
茶屋の主人を睨みつけて言った。
「——私は黒羽藩の浄法寺桃雪。
あなたが不当な雇用をしていたことは、
ここ平泉を統治する仙台藩主の綱村様へ報告しましょう」
「なっ……!浄法寺——だと?」
主人は、桃雪の名を聞いた途端顔色を変えた。
「黒羽藩の浄法寺桃雪……。
藩の規則に従わない商人は問答無用で土地や家財を没収し、藩の所有にしてしまう冷徹な城代家老だという、あの浄法寺なのか……!?」
「そうですよ。
私はそうやって強引な手段を取ってでも藩主の財産を増やし、信頼を勝ち得て来た男。
伊達綱村様と私の主君は何かと親しい間柄ですから、
私があなたのことを報告すれば、すぐに綱村様の耳にも入ることとなるでしょう」
「ま……待ってくれ!
それだけは勘弁してくれ!!」
主人はすっかり態度を変え、座って頭を床に擦り付けた。
「店を没収されたら、俺は食っていけなくなる!」
「そうなったら、新しい店を開けばいいのでは?」
「店を開くのには莫大な金がいるんだ!
そんな簡単に言ってくれるな」
「今の店で稼いでいきたいならば、働き手に不当な労働を強いることはしないと誓って頂くほかありませんね」
「ああ!誓うよ!!
その女も辞めたいってんなら出て行って構わん。
だから殿様に伝えるのだけは——」
「それだけでは足りませんね」
桃雪は冷徹な表情で主人を見下ろした。
「あなたがしたことを、誠心誠意霧乃殿に謝ってください」
……そこからはあっという間に物事が進んでいった。
茶屋の主人は涙を流しながら霧乃に何度も頭を下げ、
霧乃が「もう良いです」と言っても桃雪は
「まだ誠意が感じられません」と言って
主人の自尊心が砕け散るまで土下座を強要した。
そんな地獄絵図のような様子を、芭蕉は唯々圧倒されながら見守っていた。
「——突然押しかけてしまってすみませんでした。
これは戸の修理代です」
空が白み始めた頃、ようやく桃雪は主人を許し
決して少なくない額の修理代を床に置くと
霧乃と芭蕉を伴って茶屋を後にした。
桃雪は霧乃を自分達の宿泊する宿まで連れてくると、
部屋に着くなり霧乃に向かって頭を下げた。
「あなたが見つけた仕事を奪ってしまい申し訳ありませんでした。
出過ぎた真似をお許しください」
「え……」
霧乃は、先程までの冷酷な雰囲気と打って変わって
必死に頭を下げる桃雪に驚きを隠せなかった。
だが、彼のお陰で茶屋の主人の暴力から逃れることのできた霧乃は、彼女もまた深々と頭を下げた。
「私の方こそ、助けて頂きありがとうございます。
——私は本当に世間知らずでした。
お茶を運んで接待をしたら、住むところも食事も頂けるということを
当たり前のことだと信じ込んでしまい……。
なんと思い上がった勘違いだったのかと、
自分が恥ずかしくて仕方ないです」
霧乃の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……私のような学もない、帰る家もない女が普通の生き方を望んだことが間違いでした。
折角、芭蕉殿と曽良殿が私を遊郭から逃してくださったのに
私はまた芭蕉殿にご迷惑をかけることをしてしまいました」
「そっ……そんなことない!
霧乃殿は何一つ悪くないですよ!!」
芭蕉は即座に否定した。
「悪いのは、霧乃殿に酷いことをしたあの茶屋の主人なんだから!
霧乃殿が気にすることなんて何もない!」
「それでも、私が美味しい話にすぐに飛びつき
何も疑うことなく働き先を決めてしまったことが全ての発端なので……。
折角の御恩を、私自身がフイにしてしまって……」
「き、霧乃殿……」
芭蕉が涙ぐむ霧乃に戸惑っていると、桃雪は再び口を開いた。
「行くあてが無いというのならば、私の家に来ませんか?」
「——えっ?」
霧乃と芭蕉が同時に顔を上げると、桃雪は苦笑いを浮かべつつこう言った。
「……といっても本当の私はしがない農家なのですが。
それでも幸いなことに両親の残してくれた広い屋敷と畑がありますから、
霧乃殿が食べていくには困らないと思います」
「い、いや!霧乃殿。
桃雪殿は本当に城代家老だったんですよ!」
芭蕉は慌てて桃雪の言葉を訂正した。
「この若さでお殿様の次に偉い立場を任されていて、本当に凄い人なんです。
……僕のせいで、その仕事を失うことになってしまったのですが……」
すると桃雪は、くすくすと笑いながら言った。
「芭蕉殿のせいではないと言ったではありませんか。
それに、今の私が無職なのは事実ですから。
——霧乃殿、どうでしょう?
私と、私の弟が暮らす家に来ることはご検討いただけますか?
もちろん、先程の茶屋の主人のような卑劣な真似は決してしません」
桃雪が言うと、霧乃は戸惑った様子で俯いた。
「……あ、あの。
聞いてもいいですか……?
——芭蕉殿もそうでしたが……、
どうして初対面の私に対して、そこまでしてくださるのですか?」
おずおずとした声で霧乃が尋ねると、桃雪は面食らったように固まってしまった。
「困っている人がいたら手を差し伸べるのは当然のことですよ!」
芭蕉は即座に答えた。
だが、桃雪が何も答えず黙り込んでいることを不思議に思った芭蕉は
隣に居る桃雪の顔を覗き込んでみた。
すると、そこには耳を真っ赤にして俯く桃雪の姿があった。
「……それは、何というか——
あなたを一目見て……心が乱されるのを感じたから……です」
やっとのことで桃雪が言うと、霧乃は驚いたように目を丸めた。
「心が、乱された……?」
「——昨日、あなたを一目見た時から強く惹かれていたんです。
だから……あなたの悲鳴を聞いた時、咄嗟に助けなくてはと思い……」
「……」
「あっ、なるほど!」
霧乃と桃雪が互いに頬を赤らめて視線を床に向ける中、
芭蕉はポンと手を叩いて言った。
「昨日、桃雪殿がしきりに
次の日も霧乃殿の働く茶屋に寄って行こうと誘って来たのはそういうことだったのかぁ。
桃雪殿は霧乃殿に、心を乱されていたのですね!」
場の空気を無視して朗らかに笑う芭蕉だったが、
それで緊張が解れたのか、霧乃が口を開いた。
「……気持ちは嬉しいです。
でも、あの……良いのですか?
私は……元遊女です。
お金を積まれたら殿方の相手をしてきた、穢れた身体の女です。
学もなく、実家からも勘当同然で売り飛ばされて来た娘です。
こんな私のために、食い扶持を減らしてしまうのは
あまりに申し訳がつかなくて——」
「元遊女だったら何だと言うんです?」
桃雪は顔を上げると、しっかりと霧乃の目を見つめた。
「あなたにどのような過去があろうと、私が慕っているのは今のあなたです。
それに、あなた自身が自らを貶める必要なんてない。
生きるために必要なことを、あなたは必死にこなして来たのですから。
もっと自分を誇ってください」
「……ぅ」
その言葉を聞いた霧乃は、口元に手を当て、
目元からはぼろぼろと涙を落とした。
「——ごめ、なさ……。
こんな風に……自分を認めてもらえたことがなかったから……嬉しくて——」
霧乃が泣き崩れると、桃雪は彼女の身体を抱えて包み込んだ。
「私と一緒に来てくれますか?」
「……はい……!」
暫く二人が抱擁していると、芭蕉はそんな彼らを見るのが照れ臭くなり部屋を出た。
二人の邪魔をしてはいけない、と思うと同時に
昨日会ったばかりの二人が恋に落ち、互いを思う様が羨ましくも感じた。
あれが……恋か。
僕は今まで、誰かを一目見て好きだと感じたことがあっただろうか。
もちろん、教え子達やこれまでお世話になって来た人たちの事はみんな好きだけれど、
霧乃殿と桃雪殿の関係を見ていると、
自分がみんなに対して抱く感情とは一線を画しているように思える。
僕はあんな風に、一人の人間に対してそこまで強い思いを感じたことがないから
二人がなんだか羨ましくてしょうがない。
僕は遊郭に居た霧乃殿の身の上を聞いて同情し、純粋に助けてあげたいと感じたけれど、
結局は曽良にその役目を押しつけてしまった。
けれど桃雪殿は、身を挺して霧乃殿を庇い、
自分の家に来て良いとまで宣言して——
僕が霧乃殿だったら、僕がした中途半端な善意と比べて
桃雪殿がとても頼もしく感じるだろう。
桃雪殿が霧乃殿のために必死になる姿を見て、
僕は他人のためにここまで必死になれるだろうかと考えたけど、きっと真似できない。
僕はきっと、曽良以外の人のためには必死になれない。
だって曽良は小さい頃から僕のことを護ってきてくれた恩人だから。
今まで沢山お世話になった曽良には
その分だけ恩返しをしたいと考えるのは当たり前のこと。
だから曽良のためだったら何でもするし、
曽良の足を引っ張るくらいなら、
曽良と離れるのが寂しいと感じたとしても去るのが一番だと——
それが曽良のためになるならと……
身を引いたはずだったのになぁ……。
——その後、少しして芭蕉が部屋に戻ると
桃雪と霧乃は気まずそうに芭蕉の方を見て行った。
「……すみません、芭蕉殿。
気を遣わせてしまいましたね」
「えっ。いや、そんなこと!」
「それから、もう一つ……本当に申し訳ないのですが」
桃雪は少し躊躇った後、こう切り出した。
「私はこのまま霧乃殿を連れて黒羽に戻ろうと思うんです」
「!」
「曽良殿と合流するまで一緒に旅をしようと言い出しておいて、申し訳ありません!」
桃雪はがばりと頭を下げた。
「自分でも、不義理なことをしている自覚はあります。ですが……」
「——大丈夫です!」
芭蕉はにっこりと微笑んで言った。
「曽良ならば西の羽州へ向かったと霧乃殿が教えてくれましたし、
このまま旅を続ければ危険なこともあるでしょう。
桃雪殿は霧乃殿と黒羽に戻るのが、僕も最善だと思います」
「芭蕉殿……」
霧乃は、瞳を潤ませながら芭蕉と向き合った。
「本当に、何と礼を言ったら良いか……。
芭蕉殿のお陰で、私は遊郭を離れ——
そして桃雪殿とも知り合うことができました。
芭蕉殿と出会っていなかったら、私の人生はきっとあの遊郭の中で潰えていたでしょう。
あなたは……私の恩人です。
決して芭蕉殿のことは忘れません」
「そうだ、芭蕉殿」
霧乃の後に、桃雪が続けて言った。
「無事この旅が終わったら、ぜひまた黒羽に来てください!
その——今度こそ、本当のおもてなしをしたいので……!」
「はい。ぜひ、お二人と桃翠の暮らす家にまたお邪魔させてください」
「その時は曽良殿もご一緒にいらしてくださいね!」
「!……はい。一緒に行けたら……僕も嬉しいです」
二人に別れを告げて芭蕉が旅立とうとすると、霧乃と桃雪は同時に「あっ」と言って芭蕉に近寄って来た。
「これをどうか受け取ってください」
「これを旅の足しにしてください」
芭蕉が驚いて顔を上げると、二人はそれぞれに
結構な額の入った銭袋を芭蕉の両手に押し付けていた。
「こ、こんなものは受け取れません」
芭蕉が慌てて言うと、霧乃はこう返した。
「これは元々芭蕉殿のお金です!」
「え?」
「私はこのお金を、曽良殿から受け取りました。
『金が貯まるまでは生活に苦労するだろうから、持っておけ』と。
——ですが曽良殿に聞いた話によると、
これは芭蕉殿が曽良殿に、私を助けるための依頼料だと言って渡したお金とのことです。
ならばこのお金は、元々芭蕉殿のもの。
芭蕉殿が持っていることがあるべき形なのです」
続けて桃雪はこう言った。
「このお金は、私が曽良殿と会ったら
罪滅ぼしの為に渡そうと思っていたものでした。
けれど私はここで旅を終える選択をしてしまったので、
代わりに芭蕉殿が曽良殿と会えたら渡して頂きたい。
そして二人で良い宿に泊まって、美味しいものを食べて、旅を楽しんで頂きたいのです。
……もちろん、お二人の旅の目的が娯楽ではないことは存じています。
けれど、二人には少しでも幸せでいて欲しいのです。
だからせめて、これを受け取って欲しい」
二人からそう言われた芭蕉は、断る口実が何も出てこず
ありがたくそのお金を受け取ることにした。
「すみません、二人だってこれから先、大変なこともあるでしょうに
僕ばかりがこんなに受け取ってしまって……」
芭蕉が謝ると、桃雪は笑みを浮かべて言った。
「大丈夫です。苦労をすることがあったとしても、
これからは霧乃殿と、そして弟の桃翠と分かち合っていけます。
辛いことも三等分すれば、きっとそんなに悪いものじゃない」
そう言い切る桃雪の目は、自信に輝き溢れていた。
桃雪殿——この一日で、随分変わったなあ。
とても素敵な目をしている。
僕も……こんな風に自信を持って輝きたいなあ。
「芭蕉殿、どうかお気をつけて!」
霧乃にも何度も見送られながら、芭蕉は宿を出立した。
一日の間に目まぐるしいことが起きた高館の地を眺めながら
芭蕉が次の目的地へ足を踏み出すと、
不思議と心がざわめき出すのを感じた。
——どうしたんだろう。
今の僕はとても前向きで、充実した気持ちだ。
そして、昔何度か感じたことのある
身体の中から湧き上がってくるような、この熱い思いはなんだろう。
……もしかして!
芭蕉は、荷物の中から曽良の書いた俳句の紙を取り出した。
曽良もこの地で句を詠んだんだ。
僕が勧めなくても、僕がそばに居なくても
曽良はこの地で心を揺さぶられる思いを経験して、俳句を作った。
僕も……今ならば、詠める気がする。
芭蕉は、白紙の紙を取り出すと
さらさらと筆を動かしていった。
『夏草や兵どもが夢の跡』
……この地で栄華を手にするため、何人もの兵が戦っては散って行ったのだろう。
今ここにあるのは長閑な自然ばかりだけれど、
栄枯衰退を辿った歴史があり、たくさんの人の記憶が息づいている。
多くの人が栄華を夢見たその跡が、今もこの地には残されている——
「……詠めた……」
曽良と離れてから、ずっと俳句を作れなかった芭蕉は
ようやく俳句が浮かんでくる時の感覚を取り戻したのであった。
ともだちにシェアしよう!

