14 / 31

第14話 腹の虫

 そのまま深夜番との交代まで警戒にあたるというローグを置いて、ノアは天幕へ戻っていた。  今日は嫌な汗をかいたので、少し体を拭いておきたかった。  川の水を桶に入れて天幕の前に運び、タープを目隠しのように斜めに張った。    地面に細い杭を差し込み、しゃがみ込む。  杭に紐を結えながら、昼間、ルガークたちから聞いた話を思い出していた。  狼たちの王であるアルファと、その番い。  ノアも――、ここから戻ってしばらくしたら、番う人がいる。  事前の面談は顔も声も認識阻害されていたから、名前も、顔も知らない。  ただ、体が大きくて、その割に静かに話す人だった。  ノアはその人とたった一度きり体をつなげあって、その人はディッカーと呼ばれる騎士になり、ノアはその人の魔力の器になる。  話をした時にはなんの実感もなかった。  なのに、ここに来て、少しづつ番いのことを思い出すことが増えていた。 「番いか……」  結えた革紐がするりとほどけて、舌打ちをする。  少し、杭を打つ場所が遠かったかもしれない。  もう一度紐を掴み、小さくため息をつく。  体をつなげることも、今は少し、怖いと思っていた。  数日前、トッドに抱きすくめられた時の、何もできない絶望感が蘇る。  革紐を握りしめた指先が、白くなった。 「どうした」  タープの向こうから足音がして、ローグが顔をのぞかせた。 「あ、……いえ」  ノアの手元を見たローグは、ノアの方へ回り込んで、同じようにしゃがみ込んだ。 「遠くないか?貸してみろ」  少しだけ近く、違う角度で杭を刺し直して、ローグが紐を結えはじめた。 「すみません、ありがとうございます」 「ああ。……何してんだこれ」  問われて、思わずローグの体に顔を近づけ、においを嗅ぐ。  少しのけぞったローグも、自分の腕をにおった。 「……くさいか?」 「いえ。ローグさんは、この草の匂いは大丈夫なんですか?」  ああ、と顔を緩めたローグは、姿勢を元に戻して、ノアの耳元で言った。 「腹が減るな」 「腹……?」  耳元の低い声に一瞬背筋が伸びて、それから言われた言葉に頭を傾げる。  ローグの目線が、ノアの後ろに向かった。 「ああ、体拭きたかったのか。においが気になるなら俺も拭いとくか」  ローグが立ち上がり、つられてノアも立ち上がる。 「腹って、なんでですか?」 「あ?肉食いたくなるだろ」  そう言いながらさっさと装備を外していくローグを見て、ノアはそっと目線を外した。 「……明日肉焼きましょうか」  また、頭の上をぐしゃぐしゃとかき回された。 「いい子だ。よく気が利くな」 「子供扱いしないでください!」  笑い声をあげて服を脱ぎ、木箱に腰掛けて布を湿らせ、ローグはどんどんと体を拭いていった。  なんとなく居た堪れなくて、ローグに声をかける。 「背中、やりますか?」 「あ?いらねえよ。それよりお前もさっさと拭けよ。ちんたらしてたら冷えんぞ」  さっさと——、脱げ。  つまりそう言われて、喉の奥で変な声が出た。  一応、番う人のことを思って張ったタープのこちら側、そこにローグが入ってきてしまったから。  ノアの声でこちらを見たローグは、一瞬止まって、それから体ごとあちらを向いた。 「ああ……、悪い」  そんなふうに謝られると、ノアも困ってしまう。  ローグは、何も悪くないのに。 「いえ、なにも。」  服の前を開いて、袖を抜く。  湿らせた布で体を拭くと、思いの外冷たくて、肩が縮こまった。 「冷えないうちにやれよ」  靴を脱いで足回りを拭いながら、ローグが言う。 「はい」 「終わったらさっさと入ってこい。片付けは明日でいいから」  そう言って天幕に入り、ローグは垂れ布を半ほどまでたらした。  お互いを目隠しした向こう、ローグが着替えている音がして、タープに映る明かりがそれに合わせてゆらめいた。    この人は、いつも安心をくれる。  できるだけ手早く体を拭いて、まだ匂いのする上衣を軽く羽織って天幕に入ると、ローグから着替えを突き出された。 「ありがとうございます」  天幕の奥に向かって座り装備の手入れをするローグに礼を言い、服を脱いで着替える。  背中を留める革紐は、そこには見当たらなかった。 「……本隊から連絡があった。ここの撤退に合わせてディッカーが二名来る。別の任務の帰りだそうだ。  お前も安全に帰れる」 「そうなんですね。――良かったです」  腰履きに通していた足が一瞬止まった。    そうだった。ディッカーが来るんだった。   「少しだけ予定が早まる。十五日後だ。多少ずれても二十は超えない。  お前んとこの部隊長が早くお前を戻せって迫ったらしいぞ。  ――着たか?」 「はい、着ました。……俺を?」  腰紐をひっぱって、腹をのぞき込みながら結んでいく。 「まあ、詳しくは知らん。とにかくお前のおかげで早まったらしい」  顔を上げると、ローグはこちらを向いていて、あごで何かを合図された。  背後に何かあるのかと首をめぐらせると、ローグの気配が近づいた。 「付けるぞ」  耳元で、ローグの低い声がして、そのまま耳の下、後ろあたりに吸い付かれた。   「!!」  思わず体が跳ねて、ちゅっと音がして唇が離れた。 「まだついてねえよ」 「……すみません」  腕を掴んで引き寄せられ、また口が寄せられる。 「――っ」    耳の下、ぬるりと舐められて体が震え、ローグの喉から小さな笑い声が漏れる。 「あんまりいい反応するなよ。俺に遊ばれるぞ」  そのまま吸い付かれて、ノアは、きゅっと目をつむった。  ローグの喉が小さく鳴って、ぱっと手を離される。  唇も離れて、空気に触れた耳の下がひんやりと風になでられた。  ――ち。  小さく舌打ちが聞こえて、顔を上げると、ローグはもう装備の手入れに戻っていた。 「寝ろ」  思わず耳の下に手をやって、それから首の後ろまでもが熱くなっているのに気がついた。    こんな状況で、眠れるわけがなかった。  

ともだちにシェアしよう!