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第32話 名付け
以前はお互い認識阻害をかけて——つまり、お互いの顔も声もわからないまま臨んだ面会の場。
ノアのディッカー候補だった人は、この日は顔を隠すことなく面会に臨むということだった。
いつもの、管理官との面会に使う部屋で、ノアはソファに座って相手を待っていた。
管理官が用意していった茶のカップを手に、水面を見つめていた。
扉の開く音がして、人の入ってくる気配がした。
「……すまない。待たせたか」
水面が、大きく揺れた。
低く、抑えた声。
その声に、心臓を鷲掴みにされた。
顔をあげることができずに、
――顔を上げたくなくて、ノアはその場で固まっていた。
正面のソファに座る、大きな体。
「……時間をとらせて、申し訳なかった」
言葉と共に、相手が腰を折った。
無造作に束ねた黒い髪が、視界に飛び込んでくる。
唇の内側を噛み、息を詰めた。
頭を下げるその人に、何か言わなければいけなかった。
ノアの、番い候補だった人に。
ローグ、に。
「……頭を、上げてください」
なんとか絞り出した言葉が、震えて揺れていることを気づかれたくなかった。
この人に対して、どんな誤魔化しも意味のないことだと分かってはいたけれど。
ゆっくりと頭を上げたローグを、見返すことができなくて、ノアはソーサーに戻したカップの水面を見つめていた。
「一度は交渉を受け入れて、あんたにも承諾してもらったのに。
優柔不断なことを言いだして、申し訳なく思っている」
ローグの声が、部屋の空気を震わせた。
それに少し身を縮めて、ノアは首を振った。
「あんたには、交渉のための準備もあったはずだ。だから、……俺にできることがあれば、なんでも言って欲しい」
交渉のための準備。
体をつなげるための、準備。
一度きり、お互い感情も関係も排除して、ただ一度きり繋がるために。
ディッカーの番い――ウルラと呼ばれる者――となる候補者は、顔合わせから番うまでの約三ヶ月間で、体 を 準 備 す る 。
喉の奥が震えて、かわいた笑い声がもれた。
そんなこと、する暇はなかった。
――幸いにも。
「ご心配、……ありがとうございます」
うまく口をひらけなくて、下唇を噛んだ。
「大丈夫です。心配いりません」
何より、あなたが守り切ってくれました。
何からも。
皮肉めいた状況に、心のうちで言葉を返す。
それから、握り締めていた手のひらを、ゆっくりとほどいた。
いつのまにか身体中に力が入っていた。
大きく息を吸って、飲み込む。
それから、色々なものを吐き出して、ノアは口を開いた。
「……解消の理由だけ、差し支えなければ」
言いながら――、
ほんの少し、甘い理由を期待した。
そんなこと、あるわけないと分かってはいても。
もうとっくに消えてなくなっているお守りの跡が、じんと震えて、
しばらく、沈黙が部屋の中を支配していた。
「俺は、ディッカーには、……なれない」
低く、唸るように、ローグが言った。
ローグは両膝に腕をつき、体の正面で手を組んだ。
「ディッカーとなって、ウルラに寄りかかって生きていくことは」
大きな手。
温かい、――ノアの髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜたことのある、あの手。
その手が、それ以上の侵入を拒んでいた。
「俺には、……恐ろしい」
お前の助けはいらない。
「そう、気付かされた」
「――そういう、ことですか……」
再び、ノアの視界に、ローグの頭がゆっくりと降りてきた。
「俺の弱さが理由だ。……本当に、すまない」
どこまでも、この人は――
自分一人で、まっすぐと立つ人。
その身一つで、拠点を、仲間を、――ノアまでも、
守り抜いて平気な顔をしている人。
ノアの支えなどいらない。
そんなこと、……知っていたのに。
目を瞑って、息を吸う。
ゆっくりと吐き出して、胸の中を空っぽにする。
それから、耳の下をごしごしとこすった。
「なぜ、今回は、お顔を見せてくださったんですか」
下げられていたローグの頭が揺れ、ゆっくりと戻された。
今度こそ、ノアはまっすぐにローグの顔を見つめた。
この人は、何度でも自分をその手の中から解放する。
手元に置いてほしいと、希うことすら許さずに。
「……俺にはあんたの顔は見えない。名前も知らない。
こんな、優柔不断で、不誠実な男だ。
ここを出ても、今後あんたの人生に関わらせないために、あんたに顔と名前を知ってほしかった。」
ローグも、まっすぐにノアの顔を見ていた。
ノアの顔がわかっているわけではないだろうが、目線が絡んだ気がした。
「ローグ・オルブライト。
あんたの信任を、受け止めきれなかった男の名前だ」
拠点での日々。
ローグは、ノアの中では、ただのローグだった。
目の前にいるこの人を、今この自分は、なんと呼べばいいのか。
――名前。
そうだ、名前。
「オルブライトさん」
呼びかけて、一度、唇を噛んで湿らせる。
「わかりました。解消のお申し出、お受けします。ただ、ひとつだけ」
両手を組み合わせて、握りしめる。
「私に名前をください」
ノアの言葉に、ローグが瞬きを返した。
「一度は受け取ってくださった信任に、せめて、ウルラ候補だった者への」
ローグからは、賞賛をもらった。
中央への推薦をいただいたと、部隊長から聞かされた。
得難い経験も、苦い自覚も、それから、それを全部ひっくるめた上での自信も。
はじめて味わう、恋心も。
「――名前を添えて、返してください。」
その恋心に、名前をつけてやりたかった。
そうしたらきっと、心置きなく片付けることができる。
言い切ったノアに、ローグが小さく笑った。
「あんたは、気高いな」
ローグの目線が降りて、それからまた顔に戻る。
「次こそ、信頼できる奴と番えるように。……虫除けがいりそうだ」
ローグが目を閉じ、息を大きく吸って、静かに吐き出した。
背筋を伸ばして、まっすぐにノアを見つめた。
「……タイム」
喉の奥が、きゅっと縮こまった。
甘い、青臭い草の香り。
バームを塗り広げた手のひら。
ノアに煙を浴びせて笑っていた、顔。
「タイム。あんたの信任に応えられなくて、申し訳なかった」
「……いい名を、ありがとうございます」
ローグが頭を振った。
この日、ノアと、そのディッカー候補であった者との交渉期間は、静かに終息した。
◇ ◇ ◇
妃殿下への報告
整理番号:八四三の二
件名:ローグ・オルブライト/ノア・ブラントル組み合わせ
当該組み合わせについて、以下の通り報告いたします。
一.交渉経過
七月十二日 相互顔合わせ
九月六日 オルブライト氏の申し出により、組み合わせ解消
二.譲渡状況
開始前解消のため該当なし
三.健康状態
該当なし
以上をもって、当該組み合わせは制度上の手続きを解消し、規定に基づき今後の組み合わせ候補から除外する。
魔力資源管理課
歴八四三年 九月七日
セロ・ワーグナー
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